第59話 殿下は、ようやく役ではなく人として見る
王妃殿下との話を終えて小さな居間を出ると、東画廊はすでに片づけへ入っていた。
刺繍作品には薄布が掛けられ、灯りの位置を直していた女官たちが燭台を元へ戻している。
雨はまだ窓を打っていた。
けれど、先ほどのような慌ただしさはない。
人の向きが揃っている。
曲がり角の順路札も、もう回収されるところだった。
その札を回収していた女官へ、何かを確かめていた人が、こちらを振り向く。
アルベルト殿下だった。
お姿が見えないと思ったら、王妃殿下の居間の前で待っていたのではなく、先ほど変わった順路について確認なさっていたらしい。
よろしい。
廊下の中央で婚約候補を待ち構えていた王太子、という余計な記録を残さずに済む。
「話は終わった?」
「はい」
ロザリア様が礼をする。
アルベルト殿下は居間の扉を一度見てから、ロザリア様へ視線を戻した。
「帰る前に、少し話せるだろうか」
ロザリア様の目が細くなる。
「本日は“少し”という言葉に、あまりよい印象がございません」
「母上にもそう言われた?」
「いいえ。リネットに」
殿下が私を見る。
私は黙って頭を下げた。
事実です。
訂正はありません。
「長くはしない」
「では、こちらで」
ロザリア様は私を下がらせなかった。
殿下も、人払いを求めなかった。
画廊の端。女官たちの姿は見えるが、会話までは届かない距離で、二人は向き合った。
甘い雰囲気はない。
雨音と、片づける布の音と、未処理案件を前にした二人分の緊張だけがある。
たいへん健全だ。
「今日、君を見ていて」
アルベルト殿下が、いったん言葉を止めた。
「何度か、同じことを考えた」
「何でしょう」
「君は、以前からこういう人だったのだろうか、と」
ロザリア様の眉が動いた。
たいへん危険な聞き方である。
訳すなら、以前の君はもっと感じが悪かったのに、今日はどうしたのか、だ。
殿下。
せっかく入口まで来たのに、ご自分で扉へ額をぶつけないでください。
「“こういう人”とは、どのような人でしょう」
ロザリア様の声が、一段冷える。
アルベルト殿下も、自分の問いが雑だったと気づいたらしい。
「すまない。言い方が悪かった」
その場で止まり、その場で直した。
仮印を一つ追加しておく。
「人の顔色に気づいたり、誰かへ仕事が偏っていることを止めたり、全体の流れが詰まる前に手を打ったりすることだ」
ロザリア様は、すぐには答えなかった。
窓の外へ一度視線を向ける。
「前から見ていたものは同じです」
静かな声だった。
「廊下で書類を落とした方が、提出時間に間に合わないことも。フォルナ様へ仕事が集まりすぎていたことも。茶会で手当てより先に責任の話を始めた方がいたことも」
アルベルト殿下の表情が硬くなる。
どれも、殿下が近くにいた場面だ。
「今日、急に見えるようになったわけではございません。ただ、言い方を少し整理しているだけです」
「そうか」
「殿下には、別人に見えましたか」
鋭い。
だが、これは刺し返しではない。
本当に答えを求めている問いだ。
アルベルト殿下は、目を逸らさなかった。
「別人に見えた」
ロザリア様の唇が、わずかに固くなる。
「最初は」
殿下が続ける。
「でも、それは君が別人になったからではなかった。僕が、君の一部分しか見ていなかったからだ」
画廊の奥で、畳まれた布が台へ置かれる。
小さな音がしても、二人ともそちらを見なかった。
「君が厳しい言葉を口にすると、その言葉だけを君だと思った。直後に誰かを助けても、侍女が取りなしたからだとか、あとから体裁を整えたのだろうと考えた」
私の名前は出さなかった。
けれど、殿下の視線が一瞬だけこちらへ向く。
私は何も返さない。
ここは、お嬢様と殿下の未処理案件だ。
「記録に厳しい言葉が残れば、それを信じた。周囲が君を怖いと言えば、その理由を君にだけ求めた」
アルベルト殿下は、一つずつ言葉を置いた。
「僕は、君自身を見る代わりに、“厳しい公爵令嬢”という見方を使っていた」
婚約候補。
高圧的な公爵令嬢。
ミレイユ様を怯えさせる人。
先に用意された役へロザリア様を置けば、目の前の事実を一つずつ確かめなくても話は整う。
殿下は、その安い整え方を使っていたと認めたのだ。
ロザリア様は、しばらく黙っていた。
「今お気づきになっても、以前のことが消えるわけではございません」
声は冷たい。
当然だ。
一度の反省で過去の記録を廃棄されては困る。
「分かっている」
アルベルト殿下は、すぐに答えた。
「今日ここで許してほしいとは言わない」
これも、よろしい。
謝罪を差し出した側が、受領期限まで勝手に指定する案件は多い。
殿下は、少なくとも今、それをしなかった。
「ただ、これからは変えたい」
「何をでしょう」
「君の言葉を聞いた時、記録や噂や周囲の顔だけで、先に意味を決めることを」
アルベルト殿下は、ロザリア様をまっすぐ見た。
「厳しく聞こえたなら、君が何を見てそう言ったのかを尋ねる。誰かの要約ではなく、君の答えを聞く」
大きな約束ではない。
君を必ず信じる、とも言わない。
味方になる、とも言わない。
意味を決める前に、本人へ尋ねる。
ただ、それだけだ。
けれど、今まで欠けていたのは、その当たり前だった。
ロザリア様は、殿下の顔を見ていた。
疑っている。
測っている。
すぐ信じるつもりはない顔だ。
「わたくしは、殿下に好かれるために、必要なことを黙るつもりはございません」
「黙ってほしいとは言わない」
「聞いて心地よい答えばかりでもございません」
「今日だけで、よく分かった」
少しだけ、ロザリア様の眉間が緩んだ。
「では、お尋ねになった時には、お答えいたします」
許した、ではない。
信じた、でもない。
けれど、答えるための窓口は閉じなかった。
アルベルト殿下は、ほっとした顔を見せる代わりに、きちんと頭を下げた。
「ありがとう」
「お礼は、実際にお尋ねになってからで結構です」
「そうだね」
殿下は苦笑した。
それから、画廊の出口へ続く道を空ける。
「引き留めてすまなかった。馬車まで案内させる」
「お気遣いありがとうございます」
ロザリア様が歩き出す。
私も半歩後ろへ続いた。
殿下は追ってこなかった。
今の会話へ余計な親しさを足さず、約束した分だけをその場に残した。
私は肩越しに一度だけ振り返る。
アルベルト殿下は、もうこちらではなく、回収される順路札を見ていた。
たぶん次からは、人の顔だけでなく、その人がどこを見ているかまで確かめようとするのだろう。
まだ仮定だ。
評価印を押すには早い。
殿下は、今日ようやく、自分が読んでいたのはロザリア様本人ではなく、周囲が先に書いた役だったと認めた。
ただし、認めただけである。
追いついたわけではない。
信頼を取り戻したわけでもない。
それでも。
殿下は、ようやく入口に立った。
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