第57話 実務は、王宮でも裏切りません
窓を打った最初の雨粒に気づいたのは、ロザリア様だった。
白花茶を飲む令嬢の顔色を確認し、自分のカップへ手を伸ばした、その直後。
深紅の瞳が窓へ動く。
高い硝子窓に、小さな水の点が一つ。
二つ。
すぐに数えられないほど増えた。
庭園の緑が薄く曇り、石畳の色が変わっていく。
茶会の後半には、王妃殿下が支援されている刺繍工房の新作を、庭園に面した回廊で拝見する予定だった。
雨そのものは大ごとではない。
予定を屋内の東画廊へ移せば済む。
王宮には当然、その程度の代替案が用意されている。
問題は、代替案というものが、紙の上ではいつも人間より細いことである。
マリエルのもとへ女官が近づき、耳元で何かを告げた。
マリエルは窓を見たあと、すぐに二つの指示を出す。
一人は東画廊へ。
もう一人は茶会室の側扉へ。
動きは速い。
表情にも乱れはない。
けれど、部屋の端で人の向きが揃っていなかった。
庭園へ案内するはずだった女官たちは、外套と日傘を下げようとしている。
東画廊の係は、室内用の順路札を運び込もうとしている。
茶会室の給仕たちは、次の菓子皿を下げるため側扉へ集まり始めた。
さらに、雨を避けた庭園係が、茶会用の飾り鉢を回廊から屋内へ入れようとしている。
全員、正しい仕事をしていた。
正しい仕事が、同じ扉へ向かっている。
こういう時が一番危ない。
無能が一人なら止めればいい。
全員が自分の指示どおりに動いている時は、止めるべき相手が見つからないまま、事故だけが中央で完成する。
「雨になりましたね」
王妃殿下が窓へ目を向けた。
「続きは東画廊でご覧いただきましょう」
夫人たちがカップを置く。
椅子が引かれかけた。
その時、側扉が内側へ開いた。
向こうには、空いた菓子皿を下げるための台車。
さらにその後ろから、背の高い飾り鉢を抱えた庭園係が来る。
廊下の奥では、東画廊へ誘導する女官が順路札を持って待っている。
狭い扉の前へ、客、台車、飾り鉢、案内役。
四つの流れが、同時に到着した。
台車を押していた給仕が止まる。
庭園係も止まる。
案内役は札を持ったまま、通路を空けようとして半歩下がった。
その半歩が、後ろの飾り鉢とぶつかりかける。
誰も声を上げない。
王妃殿下のお茶席で、進行が詰まっていると認めたくないからだ。
見事な沈黙である。
あと三秒続けば、飾り鉢か台車のどちらかが見事ではない音を立てる。
ロザリア様が立ち上がった。
「恐れながら、王妃殿下」
声は大きくない。
それでも、椅子を引きかけていた夫人たちの動きが止まった。
ロザリア様は王妃殿下へ礼をする。
「皆さまには、もう少しだけお席でお待ちいただいた方がよろしいかと存じます」
勝手に職員へ命じない。
まず、この場の主へ状況を渡した。
王妃殿下の視線が、側扉へ向く。
一度で全体を把握されたらしい。
「理由を聞いても?」
「はい。現在、東画廊へ移る方、茶器を下げる方、庭園から物を入れる方が、同じ扉を使おうとしております」
誰が悪いとは言わない。
今起きていることだけを、短く置く。
「先に物の流れを終えてから、お客様をご案内した方が安全です」
「どれほど待てばよいかしら」
ロザリア様は扉の前を見る。
台車が一台。
飾り鉢が二つ。
庭園側の外套掛けが一基。
東画廊へ続く廊下は、その先で右へ曲がっている。
「二分ほどで」
即答だった。
私は心の中で、同じ動線を追った。
台車を先に茶会室へ入れ、空いた皿を載せる。
飾り鉢と外套掛けは、その間に廊下の壁際へ寄せる。
順路札を持つ女官は、扉の外ではなく曲がり角へ移る。
二分。
確かに、それで足りる。
「では、そのように」
王妃殿下が言った。
「ロザリア。マリエルへ、あなたの考えを伝えてください」
許可が出た。
ロザリア様はマリエルへ向き直る。
「空の台車を先にこちらへ。菓子皿を載せている間に、飾り鉢と外套掛けを廊下の壁側へ寄せてください。順路札は曲がり角へ移した方が、後ろの方まで見えます」
「承知いたしました」
「ご年配の方のお席が扉から遠いようです。通路が空きましたら、近いお席からではなく、立ち上がるのにお時間のかかる方からお声がけを」
葡萄色の貴婦人の隣に座る老夫人が、細い杖へ手を置いている。
ロザリア様は、きちんと見ていた。
「若い方々には、そのあとで続いていただけば、廊下で追いつくこともございません」
マリエルが一度、深く頷いた。
そこからの動きは速かった。
台車が茶会室へ入る。
給仕たちが空いた皿を下げる。
庭園係は飾り鉢を壁際へ寄せ、外套掛けをくぼみへ収める。
順路札を持った女官が曲がり角へ進み、別の女官が老夫人のそばへついた。
誰も走らない。
誰も叱られない。
王妃殿下の前で、予定変更の失敗を謝る者もいない。
ただ、全員の向きが揃った。
一分半ほどで、側扉の先に一本の道ができた。
「お待たせいたしました」
マリエルが告げる。
実際には、ほとんど待っていない。
王妃殿下が話題を一つつないでいる間に終わったため、茶会の客たちには、庭園から東画廊へ予定が変わっただけに見える。
客の目に混乱として映る前に、すべて片づいた。
これは地味で、けれど確かな仕事だ。
人がぶつからないようにする。
杖を持つ方を急がせない。
熱い茶器を運ぶ者の手元を乱さない。
誰かの面目より先に、安全と順番を置く。
実務とは、だいたいそういうものだ。
華やかではない。
けれど、華やかな場ほど、それなしでは立っていられない。
王妃殿下が席を立つ。
老夫人が女官に支えられて続き、そのあとを夫人たちが進む。
薄桃色の令嬢も、もう顔色を戻して立ち上がった。
ロザリア様は列の前へ出なかった。
自分が整えたからといって、先導役を奪うこともしない。
最後の椅子が通路から引かれたのを確かめ、マリエルの案内に従った。
アルベルト殿下が、その横へ歩みを合わせる。
「よく、あれだけ見えたね」
小さな声だった。
ロザリア様は前を向いたまま答える。
「皆さまの足が、別々の方向を向いていましたから」
「足?」
「顔は平静でも、次にどこへ動こうとしているかは足元へ出ます」
アルベルト殿下が、廊下の壁際へ寄せられた飾り鉢と、曲がり角の順路札を見た。
「僕は、扉が詰まってから気づいた」
「気づかないよりはよろしいかと存じます」
慰めているようで、まったく甘くない。
殿下は一瞬黙り、それから苦笑した。
「そうだね。次は、もう少し早く見るよ」
いい返答だ。
今のところは、仮印を押しておく。
東画廊の入口へ着くと、刺繍工房の作品が壁沿いに並んでいた。
庭園の光を想定していたためか、女官たちが急いで灯りの位置を直している。けれど、客の導線はもう乱れていない。
ロザリア様は入口脇へ寄り、王妃殿下が中央へ進まれるのを待った。
その時、王妃殿下が足を止める。
「ロザリア」
「はい」
「茶会が終わったあと、少し時間をいただけるかしら」
周囲の空気が、ほんのわずかに変わった。
公爵令嬢を引き留める。
それも、今この場で。
単なる礼ではない。
ロザリア様も理解したらしい。姿勢を正し、王妃殿下を見た。
「もちろんでございます」
「では、あとで」
王妃殿下はそれだけ告げ、作品の方へ歩いていく。
ロザリア様は、その背をしばらく見ていた。
「リネット」
「はい」
「今のは、褒められるための呼び出しかしら」
「王宮で“少し”とつくお話は、たいてい少しでは終わりません」
「そういうことを聞いているのではないわ」
「存じております」
私は控え紙を閉じた。
言葉は、ときどき印象に裏切られる。
正しいことさえ、順番を誤れば悪意に加工される。
けれど実務は、最後に結果を残す。
誰もぶつからなかった。
誰も急かされなかった。
茶会は乱れず、予定は続いた。
そして王妃殿下は、その全部を見ていた。
実務は、王宮でも裏切らない。
どうやら次は、その働きを見抜いた方との面談である。




