第56話 お嬢様、そこは怒る前に確認です
笑顔のまま飛んできた針が片づくと、茶会は何事もなかったように次の話題へ進んだ。
王都で近く開かれる音楽会。
春の庭園で咲き始めた花。
王妃殿下が支援している刺繍工房の新しい図案。
どれも穏やかで、先ほど誰かがロザリア様の言葉を借り物扱いしかけたとは思えない。
王宮は、都合の悪い沈黙を片づけるのが早い。
床へ落とさず、音も立てず、最初から存在しなかった顔で次の皿を出してくる。
たいへん優秀な後処理である。
反省欄が見当たらない点を除けば。
「二煎目をお持ちいたします」
マリエルの合図で、女官たちが新しいポットを運んできた。
今度は一種類ではない。
香りの軽い白花茶。
果実を混ぜた甘い茶。
桂皮と丁子を利かせた、濃い色の茶。
入室前にそれぞれの希望を確認していたらしく、受け皿の下へ小さな色札が添えられている。
白は白花茶。
赤は果実茶。
金は香辛茶。
分かりやすい。
王宮にしては珍しく、説明書を読まなくても運用できる仕組みだ。
だからこそ、私は最初、違和感の正体に気づくのが遅れた。
向かいに座る薄桃色の令嬢の前へ、金の札が置かれた。
女官が濃い茶を注ぐ。
湯気と一緒に、桂皮の甘く鋭い香りが立った。
令嬢の指が止まる。
笑みは崩れない。
けれど、顔から血の気が引いた。
彼女はカップへ手を伸ばし、持ち手へ触れる直前で止めた。それから誰にも気づかれないよう、浅く息を吸う。
いや。
息を吸えなかったのだ。
香りを避けるように、呼吸を小さくした。
ロザリア様の視線が、令嬢の手元へ落ちる。
次に、金の札。
茶を注いだ若い女官。
深紅の瞳が一気に冷えた。
気づいた。
「あなた——」
ロザリア様が女官へ顔を向ける。
声の先端が、すでにかなり鋭い。
若い女官の肩が跳ねた。
まずい。
このままでは「客の顔色も見ずに何をしているの」まで、最短距離で到着する。
正しい。
たぶん、ほぼ正しい。
けれど、まだ原因を確認していない。
私は控え紙の端を、一度だけ指で押さえた。
昨日までなら、ここから先も私が引き取っていた。
お嬢様はご体調を案じておられます。
念のため、お茶の種類をご確認ください。
そう翻訳して、場へ置いただろう。
けれど今は、待つ。
ロザリア様の眉間に皺が寄った。
女官へ向いていた視線が、私の指先へ移る。
先に確認を。
お嬢様は一度、唇を閉じた。
それから向かいの令嬢へ声をかける。
「お顔色が優れないようですわ。香りの強いお茶は、お苦手ですか」
薄桃色の令嬢は、驚いたように顔を上げた。
「申し訳ございません。少し、馬車の揺れが残っているだけで……」
すぐ自分の不調として片づけようとする。
だが、カップから立つ香りを避けたままだ。
ロザリア様は急かさなかった。
「先ほど、どのお茶を希望なさいました?」
「白花茶を。香りの軽いものを、とお願いしました」
確認、一つ目。
ロザリア様は若い女官へ向き直る。
「こちらは、桂皮と丁子のお茶で間違いありませんか」
「は、はい。金の札のお席でしたので」
「では、希望ではなく札に従って注いだのですね」
「はい」
確認、二つ目。
女官の怠慢と決めつけるには、まだ早い。
ロザリア様がマリエルを見る。
「マリエル様。先に、白花茶とお水をお願いいたします。できれば、こちらの窓も少しだけ」
「承知いたしました」
「札が違った理由は、そのあとで確認を。今はお席を整える方が先です」
声は低い。
怒りも残っている。
それでも、誰が悪いかを決める前に、目の前の具合を戻す方へ言葉を使った。
マリエルがすぐ動く。
別の女官がカップを下げ、白花茶と水を運ぶ。窓が指二本分だけ開けられ、冷たすぎない風が細く入った。
薄桃色の令嬢は水を一口飲んだ。
呼吸が少し深くなる。
「ありがとうございます、ロザリア様」
「お礼は、顔色が戻ってからで結構ですわ」
少し硬い。
だが、怖くはない。
令嬢もそれが分かったのだろう。今度は困ったように、ほんの少し笑った。
「では、あとでもう一度申し上げます」
「忘れてくださっても構いません」
「それは困ります」
短いやり取りに、周囲の空気が緩んだ。
誰かが失敗した。
令嬢の顔色が変わった。
それでも、その場にいた誰も吊し上げられず、茶会も止まっていない。
以前のロザリア様なら、最初の一言で女官の不注意を切っていた。
私はその刃を受け取り、「心配している」に研ぎ直していた。
今回は、最初の刃が出かかったあと、お嬢様自身が鞘へ戻した。
しかも、必要な指示は一つも落としていない。
間もなく、マリエルが金の色札と、希望を記した控えを重ねて持ってきた。
「確認いたしました。こちらのお席は白花茶をご希望と記録されておりますが、金の札が置かれておりました。配膳した者は、置かれた札のとおりに動いております」
ロザリア様の視線が、若い女官へ向く。
女官は青ざめたまま、頭を下げかけた。
「申し訳ございません」
「謝罪は、確認のあとで結構です」
鋭い。
けれど、正しい順番だ。
ロザリア様は、女官へ直接命じる代わりにマリエルへ向き直った。
「札が入れ替わっていたなら、もう一方のお席にも違う札が置かれているはずです。まず、そちらと残りのお席をご確認いただけますか」
「承知いたしました。エナ、金の札を希望されたお席から確認を」
「はい」
若い女官はすぐに顔を上げ、残りの色札を確かめ始めた。
責められて固まるのではなく、次に必要な仕事へ動いた。
マリエルも別の女官へ合図を出す。
数十秒で、すべての札とカップが照合された。
もう一方の席には白い札が置かれていたが、まだ二煎目を注ぐ前だった。希望どおり金の札へ戻され、ほかの席にも間違いはない。
口へ運ばれた取り違えは、最初の一杯だけで済んだ。
そこで初めて、ロザリア様はマリエルへ言った。
「次からは、札を置く方が希望の控えと色を照合し、注ぐ方もその色を読み上げて確認なさるとよろしいかと存じます」
「仰せのとおりにいたします」
確認。
対応。
再発防止。
怒りの置き場は、最後。
完璧ではない。
最初の「あなた」には、いつもの切れ味が半分ほど顔を出していた。
けれど、それでいい。
怒らなくなることが成長ではない。
怒りより先に、守るものを選べるようになること。
たぶん、お嬢様が覚えようとしているのは、そういう順番だ。
王妃殿下は何もおっしゃらなかった。
ただ、ロザリア様が令嬢へ水を勧めた時も、マリエルへ残りの札の確認を求めた時も、静かに見ていた。
葡萄色の貴婦人も、今度は扇の陰から言葉を差し込まない。
アルベルト殿下は、確認を終えた女官たちの動きと、ロザリア様を交互に見ている。
怖い令嬢が失敗を責めた。
そんな一文へは、もう整えようがない光景だった。
茶会が再び動き始める。
ロザリア様が私へ顔を向けず、小声で言った。
「腹は立っているわ」
「存じております」
「札を入れ替えた者には、あとで注意が必要よ」
「必要です。ただし、原因を確認してからです」
「分かっているわ。今、そうしたでしょう」
「はい。たいへん見事でした」
「気味の悪い褒め方をしないで」
いつもの調子で返ってきた。
私は少しだけ笑いそうになる。
もう私は、お嬢様の言葉を全部訳す必要がなくなり始めている。
最初から最後まで引き取らなくてもいい。
危ない時に一度、順番を示すだけで、お嬢様は自分の言葉で戻ってこられる。
それは私がずっと望んでいたことだ。
望んでいたはずなのに、胸の奥がほんの少しだけ寂しい。
けれど、その寂しさよりずっと大きく、嬉しかった。
私がいなければ話せないお嬢様を守りたいのではない。
私が黙っていても、自分の言葉で誰かを守れるお嬢様を見たかったのだ。
ロザリア様は、白花茶を飲む令嬢の顔色をもう一度確かめてから、ご自分のカップへ手を伸ばした。
その横顔は、もう誰かの翻訳を待ってはいなかった。




