第53話 第一声は、想像よりもやさしく響いた
ロザリア様が茶会室へ足を踏み入れた瞬間、話し声が途切れた。
不自然な止まり方ではない。
誰かが言葉の終わりを少し早め、別の誰かが扇を閉じる。カップが受け皿へ戻され、視線だけがこちらへ揃う。
これが学園なら、静まったあとに小声が落ちる。
王宮では、小声すら落とさない。
ただ、全員が同じ顔で次の一言を待っていた。
高圧的な公爵令嬢が、どんな挨拶をするのか。
王妃殿下のお茶席へ招かれた婚約者候補が、どれほど自分を大きく見せるのか。
期待というより、確認だ。
すでに記入済みの評価欄へ、最後の印を押すための沈黙だった。
たいへん手際がよろしい。
原本を読む前に結論まで用意している点を除けば。
茶会室の奥には、王妃殿下がいらした。
淡い青のドレスに、真珠の髪飾り。華やかさよりも整った佇まいが先に目へ入る。笑みは柔らかいのに、その奥まで勝手に読める気はしない。
右手にはアルベルト殿下。
その周囲を、上位貴族の夫人や令嬢たちが囲んでいる。控えの間で見かけた葡萄色のドレスも、薄桃色のドレスもあった。
視線は多い。
逃げ道はない。
けれど、ロザリア様の歩幅は変わらなかった。
私は半歩後ろ、ほんの少し斜めの位置を取る。
前へは出ない。
下がりすぎもしない。
ロザリア様が声を探す必要のない距離だ。
マリエルが進み出た。
「エーデルフェルト公爵令嬢、ロザリア様でございます」
家名。
爵位。
最後に、名前。
ここでも順番は変わらない。
けれど、ここから先に置く言葉は、お嬢様が選べる。
ロザリア様は王妃殿下の前まで進み、優雅に膝を折った。
銀金の髪が肩から流れる。胸元の扇は動かない。手袋の指先だけが、扇の骨を少し強く押さえていた。
緊張している。
それでも、その緊張を誰かへ渡すつもりはないらしい。
「顔を上げなさい、ロザリア。よく来てくれましたね」
王妃殿下の声が、静かに届いた。
ロザリア様が顔を上げる。
深紅の瞳が、まっすぐ王妃殿下を見た。
私は何も合図しなかった。
用意していた言葉はある。
声が硬くなった時の言い直し。
過剰にへりくだりそうになった時の戻し方。
王太子殿下との関係へ話を寄せられた時の逃がし方。
どれも、出さない。
最初の一言は自分で言うと、お嬢様が決めたからだ。
「本日はお招きいただき、まことにありがとうございます」
よく通る声だった。
けれど、誰も切らない声だった。
「学園では、多くの方から学ぶ機会をいただいております。本日も皆さまのお話を伺いながら、実りある時間にできましたら幸いに存じます」
言い切った。
媚びていない。
自分を低くもしていない。
学園での実績を誇示せず、なかったことにもせず、今日ここへ持ってきた。
刺さらない。
それでいて、弱くない。
私が何度も探してきた、お嬢様のための言葉だった。
茶会室の空気が、わずかにずれた。
扇の陰からこちらを見ていた夫人が、目を瞬く。
薄桃色の令嬢は、作りかけた微笑みの形を変えた。
葡萄色の貴婦人だけは表情を崩さなかったが、カップへ伸ばしかけた指を止めている。
皆さまのご用意なさった「思った通り」の欄へ、書き込める言葉がなかったのだろう。
たいへん結構。
その欄は、空白のままお持ち帰りください。
王妃殿下はすぐには答えなかった。
ロザリア様の顔を見ている。
言葉だけではなく、息の置き方や、扇を持つ手や、私との距離まで見ている目だった。
試している。
けれど、先に決めつけてはいない。
控えの間にあった視線とは、そこが違う。
「ずいぶん考えてきた挨拶なのね」
責める声ではない。
褒める声でもない。
借りてきた言葉かどうかを確かめるための問いだった。
ロザリア様の指先が、扇の骨からほんの少し離れる。
「はい」
短く認めた。
取り繕わない。
「最初の言葉は、あとから置き直しにくいものですから」
王妃殿下の眉が、わずかに上がった。
周囲の夫人たちも、一度ロザリア様を見てから、王妃殿下へ視線を戻す。
余計なことを言っただろうか。
いいえ。
これは、お嬢様自身の答えだ。
私は口を挟まない。
王妃殿下は、数秒だけロザリア様を見つめたあと、ほんの少し笑みを深めた。
「そう。では、今の言葉は置き直さず、そのまま受け取りましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、ここで一度も間違えてはならないと思う必要はありません。今日は話をするための席です。正しい答えだけを持ってきても、相手の話は聞けませんから」
柔らかい。
そして、甘くない。
王妃殿下は、整った挨拶だけで合格印を押す方ではないらしい。
けれど、不合格の理由を先に探す方でもない。
厄介である。
おそらく、まともな意味で。
ロザリア様は一度だけ息を置いた。
「承知いたしました。間違えないことより、聞き違えないことを心がけます」
今度こそ、王妃殿下の笑みに温度が混ざった。
「よい心がけね」
茶会室の空気が、もう一度動く。
今度は戸惑いだけではない。
ロザリア様が何を言うか待つ空気から、次に何を話すのか聞こうとする空気へ。
ほんの少し。
けれど、確かに変わった。
アルベルト殿下が、王妃殿下の右手からこちらを見ていた。
学園で何度も見た、答えが遅れた時の顔ではない。
驚いている。
そして、その驚きを誤魔化す前に、きちんと受け止めようとしている顔だった。
視線がロザリア様へ向く。
ロザリア様も気づいた。
けれど、殿下を見て急に表情を整えることはしなかった。王妃殿下へ向けた礼を終えてから、順番どおりに軽く頭を下げる。
「アルベルト殿下にも、ご挨拶申し上げます」
「ああ。来てくれてありがとう、ロザリア」
殿下の返答は短い。
短いが、以前のように周囲の空気へ任せた声ではなかった。
ここで婚約候補らしい親しさを演じることも、距離を強調することもしない。
互いに、今日の席へ必要な分だけ言葉を置いた。
その簡素さに、周囲の何人かが少し物足りなそうな顔をする。
知りません。
勝手に恋愛欄を設けて、勝手に空欄を惜しまないでいただきたい。
「皆さまも、ロザリアと話してみたかったでしょう」
王妃殿下が茶会の客たちへ視線を向ける。
声をかけられた夫人たちは、揃って上品な笑みを作った。
「ええ、もちろんでございます」
「学園でのお話も、ぜひ伺いたいと思っておりました」
「本日は楽しみにしておりましたのよ」
たいへん美しい返答が並ぶ。
どれが本心で、どれが事前に用意された文面かは、これから分かる。
ただ一つ確かなのは、先ほどまでのようにロザリア様を見物するだけでは済まなくなったことだ。
話しかければ、返事が来る。
しかも、自分たちが予想していたより、ずっと穏やかな声で。
マリエルが一歩進み、席の方へ手を向けた。
「ロザリア様、お席へご案内いたします」
「お願いいたします」
ロザリア様が歩き出す。
私の前を通る一瞬、深紅の瞳だけがこちらへ動いた。
どうだった。
そう尋ねる目だった。
私は礼を崩さず、指先を一度だけ閉じる。
合図ではない。
訂正なし。
その報告だ。
ロザリア様の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
誰も気づかないほど小さな変化だった。
けれど私は見た。
お嬢様が、自分の言葉で最初の扉を越えた顔を。
胸の奥に、遅れて息が戻ってくる。
越えた。
まず、第一声は越えた。
私が用意していた三つの修正文は、すべて未使用。
たいへん喜ばしく、たいへん悔しい。
だが、廃棄はしない。
王宮というところは、座る場所ひとつにも余計な意味を綴じ込む。
マリエルが示そうとしている席を見て、私は手元の控え紙を持ち直した。
第一声の欄は、訂正なし。
次は、席順の欄である。




