第52話 王宮では、名前より先に評判が届いています
扉が開いた瞬間、控えの間の空気が一斉にこちらを検品しにきた。
磨き上げられた床。音を吸う厚い絨毯。香りの薄い花。椅子の角度。窓から落ちる光。女官たちの立ち位置。
すべてが、コンマ一ミリのずれも許さない冷徹な格子の中に収まっている。
ロザリア様が一歩入る。
控えていた女官たちが、揃って礼をした。
角度も、呼吸も、布の擦れる音さえ揃っている。揃いすぎていて、歓迎の温度が混ざっていない。事前に配られた注意書きを、全員がきっちり読み込んできた手つきだった。
ああ。
届いている。
ロザリア様の名前より先に、ロザリア様の評判が。
「ロザリア・エーデルフェルト様。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
年長の女官が進み出た。
淡い藤色の衣装。銀糸の縁取り。立ち方に無駄がない。王宮の廊下で何年も人を案内し、何年も人を測ってきた足元だ。
「女官長補佐のマリエル・オルファンでございます。本日のお茶席まで、ご案内を務めさせていただきます」
声は柔らかい。
柔らかすぎる。
布団をかぶせた書類ほど、下に何が入っているか分からない。
「お疲れではございませんか。もしご緊張がございましたら、入室前に少しお時間をお取りできます」
出た。
親切の顔をした最初の札。
休ませる形で、ロザリア様を「乱れるかもしれない令嬢」の椅子へ座らせに来た。
女官が差し出した柔らかい座布団には、針が入っている。
ロザリア様は、扇を胸元で止めたまま返した。
「お気遣いありがとうございます。道中は問題ございませんでした。入室のお時間も、予定通りでお願いいたします」
よし。
座らなかった。
蹴りもしなかった。
横へずらした。
マリエルの完璧な微笑みの奥で、呼吸が一瞬だけ引っかかった。想定外のゼロ回答を突きつけられ、手元の帳簿の数字が合わなくなった時の反応だ。
「承知いたしました。では、予定通りご案内いたします」
予定通り。
その言葉の後ろで、女官たちの配置が一つだけ組み替わった。
茶器の位置を直す者。扉側へ立つ者。奥の椅子へ視線を飛ばす者。
ロザリア様を休ませる手順が、いま消された。
よろしい。
最初の針は踏まなかった。
控えの間には、すでに数人の貴婦人と令嬢がいた。
誰も露骨にこちらを見ない。誰も小声を落とさない。学園なら、ここで噂が床へ転がる。王宮では転がさない。
代わりに、視線の先だけが動く。
扇の高さ。ドレスの色。ロザリア様の口元。私の位置。
そのうち一人だけ、ロザリア様の顔へ行く前に、手元の扇を見た。
記録。
慈善事業関係者か、礼法にうるさい家の者。昨年冬の慰問茶会の話を知っている可能性あり。
脳内の控え欄に、仮印を押しておく。
奥の椅子に腰かけていた貴婦人が、ゆるやかに立ち上がった。
濃い葡萄色のドレス。胸元の宝石は控えめだが、指輪だけが高価すぎる。手元を見せる癖のある方だ。つまり、持ち物で黙らせるのが得意な種類。
「ロザリア様。奉仕祭でのご対応、王宮でもよい評判でございましたわ」
微笑みは綺麗だった。
言葉も綺麗だ。
ただ、「王宮でも」の二文字に、余計な紐が結ばれている。
学園で変わった評判が、こちらまで届きました。
こちらでは、前の評判との差分も見ています。
さて、本当に変わったのかしら。
そういう紐だ。
ロザリア様は、わずかに扇を下げた。
「ありがとうございます。多くの方がそれぞれの持ち場を守ってくださったからこそ、無事に終えられました」
受け取った。
抱え込まなかった。
自分だけの功績として飾らなかった。
いい。
相手は「高慢」の札を貼れない。
貴婦人は、ゆったりと微笑みを深めた。
「ご謙遜なさるのですね。以前は、もう少しはっきりおっしゃる方だと伺っておりましたから」
来た。
綿に包んだ針。
以前は。
はっきり。
伺っておりました。
訳すなら「きつい方だと聞いていました」である。たいへん上品な悪口だ。王宮の言い回しは、刃物を絹で包むのが本当に好きらしい。包んだところで刃物は刃物です。
私は指先を動かしかけた。
合図を出すために。
けれど、ロザリア様の扇は動かなかった。
動かす必要がなかったのだ。
「必要なことをはっきり申し上げる場面は、今後もあるかと存じます」
控えの間の空気が、ほんの少し薄くなる。
ロザリア様は続けた。
「ただ、場に届く順番は、以前より考えるようになりました」
私の合図より早かった。
悔しい。
そして今すぐこの返答を額装したい。
自分の鋭さを捨てていない。過去を丸ごと失敗として差し出していない。変わった部分だけを、自分の言葉で置いた。
貴婦人は一拍、言葉を止めた。
微笑みは崩れない。
だが、扇を持つ手の力が一瞬だけ強くなった。骨が小さく鳴る。
最初の探りが、綺麗に跳ね返された音だ。
「まあ。頼もしいこと」
「恐れ入ります」
ロザリア様はそこで会話を広げなかった。
これもいい。
相手の皿に勝手に盛られた話題へ、こちらから菓子を追加しない。茶会前の控えの間で腹を膨らませてどうする。必要な返答だけ置いて、次へ進む。
私は控えの間全体へ視線を走らせた。
誰もロザリア様を悪役令嬢とは呼ばない。
ただ、悪役令嬢用の椅子だけが先に用意されている。
きつい婚約候補。
扱いに注意すべき公爵令嬢。
慰問茶会で場を凍らせた娘。
その棚へ入れようとする視線が、部屋の奥から三つ。扉側から一つ。さきほどの葡萄色の貴婦人から、もう一つ。
よろしい。
棚の位置は分かった。あとは誰が最初に札を貼りに来るかだ。
「ロザリア様」
先ほどとは別の令嬢が、少し離れた位置から声をかけた。
若い。年はロザリア様と近いだろう。薄桃色のドレスに、控えめな真珠。声に悪意は薄いが、好奇心が少し濃い。
「本日は、王太子殿下もお越しになるとか」
殿下。
その名が出た瞬間、控えの間の中でいくつかの視線が動いた。
ロザリア様へ。
奥の扉へ。
そして、私へ。
私を見るな。侍女で関係を測るな。採寸の仕方が雑です。
ロザリア様は、扇の骨に指を置いたまま返した。
「そのように伺っております」
「お心強いですわね」
令嬢は微笑む。
その一言には、殿下がいるから安心でしょう、という甘い皮がついている。中身は、殿下との距離を測る針だ。
ロザリア様は、その針を指で摘んで横へ置くような声で言った。
「本日は、王妃殿下のお茶席にお招きいただいております。場にふさわしく臨みたいと存じます」
殿下との関係に乗らない。
今日の主語を王妃殿下のお茶席へ戻した。
うわ。
私の出番がない。
腹立たしいほど、ない。
薄桃色の令嬢は「そうですわね」と返し、すぐに唇を閉じた。
周囲の視線に流されやすい軽い紙ね。油断はしないけれど、今は後回しでいい。
「お時間でございます」
マリエルが戻ってきた。
控えの間の空気が、音もなく引き締まる。
「王妃殿下のお茶席へご案内いたします」
王妃殿下。
その名が出た瞬間、貴婦人たちの背筋が揃った。先ほどまで柔らかく笑っていた口元も、扇の位置も、ひとつ上の規格へ切り替わる。
ここから先が本番。
マリエルは扉へ向かい、女官の一人が先に進んだ。
ロザリア様は、ほんの少しだけ扇を下げた。
余計な防御に見せないための下げ方だ。
そして、小さく私を呼ぶ。
「リネット」
「はい」
ロザリア様は扉の方を見たまま言った。
「最初の一言だけは、自分で言うわ」
声は静かだった。
けれど、どこにも迷子札はついていない。
私は頭を下げすぎずに答える。
「承知しました。では私は、最初の一言に勝手な注釈をつける方を記録します」
「本当にあなたは、支える時まで刺々しいわね」
「刺さらないように支えております」
「それなら、許すわ」
その言葉を聞いて、私は控え紙を持つ指をゆるめた。
ロザリア様が自分の声で最初の表題を置く。
私は、その表題を汚そうとする手の指紋を取る。
役割分担として、たいへん美しい。
扉が開いた。
茶の香りが流れてくる。花の香り。磨かれた銀器の光。整った視線。
王妃殿下のお茶席。
よろしい。
その最高難度の帳簿、お嬢様が完璧な表題を置く瞬間に、邪魔なノイズを挟み込もうとする無能の指紋を、皮一枚残さず剥ぎ取って差し上げましょう。
ロザリア様は、扉の向こうへ進んだ。




