第51話 王宮へ向かう朝は、沈黙まで整えます
馬車の車輪の音が、少しずつ変わっていく。
学園前の石畳では、軽く跳ねる音だった。王宮へ続く大通りへ入ると、音は硬く、薄く、余計な響きを削られていった。
窓の外を流れる景色も変わる。焼き菓子を売る店先の声、学生たちの笑い声、荷車を押す商人の掛け声。そういう生活の音が後ろへ遠ざかり、代わりに、磨かれた石壁、揃いすぎた植え込み、紋章付きの馬車、一定の距離で立つ衛兵たちが増えていく。
王宮が近づくほど、人は黙る。
そして、黙った人間ほどこちらを見る。
「静かね」
ロザリア様が窓の外を見たまま言った。
「はい」
「学園の沈黙とは違うわ」
「こちらは、記録係の前で全員が息を潜めているような沈黙です」
ロザリア様は、かすかに嫌そうな顔をした。
「嫌な例えね」
「王宮に似合うかと」
「似合ってしまうのが嫌なのよ」
お嬢様は膝の上の扇へ視線を落とした。
扇は、胸元の少し手前。口元まで上げない。隠れない。差し出しもしない。そこに置かれた扇は、私の指示の名残ではなく、お嬢様自身の判断で止められている。
たいへん癪だ。
私が直す余白が、また一つ減っている。
ロザリア様は、窓の外を横切る他家の馬車をじっと見ていた。車体の紋章、御者の姿勢、先触れの人数、後続の侍女の配置。視線が順に滑る。美しい景色を眺める令嬢の目ではなく、帳簿の欄外に紛れた不自然な数字を拾う時の目だ。
おや。
私が口を開く前に、お嬢様は実戦の検品を始めている。
「今の馬車」
ロザリア様が言った。
「門へ入る前に、案内役が二度確認していたわ」
「はい」
「あの家は、今日の席順に少し不安があるのかしら」
「可能性はあります」
「それとも、呼び上げの順番を気にしている」
「その線もあります」
私は脳内の添削欄を見下ろした。
空白。
たいへん不愉快で、たいへん喜ばしい進捗である。
「リネット」
「はい」
「あなた、今、仕事を奪われた顔をしたわね」
「お嬢様が先に現場を読まれるので、赤字を入れる隙がありません」
「空欄を喜びなさい」
「努力します」
「努力が足りない顔よ」
「職務上の喪失感です」
ロザリア様は、ほんの少しだけ口元を動かした。
馬車がゆるやかに曲がる。窓の外に、王宮の外壁が見え始めた。白い石。高い門。整いすぎた植え込み。人の手が入りすぎていて、かえって息苦しい景色。
ロザリア様の指先が、手袋の端を一度だけ整えた。
「緊張されていますね」
「しているわ」
「隠しませんね」
「隠すと、あなたが余計な検品を始めるでしょう」
「すでにしています」
「知っていたわ」
ロザリア様は窓の外を見た。
「また、わたくしではない何かとして見られるのが面倒なのよ」
お嬢様の声は、期限切れの帳簿を突き返す時のような、ひどく乾燥した拒絶の音がした。あちら側の無能どもが、ロザリア・エーデルフェルトという原本を読まず、都合の良い写しとして処理しようと手ぐすね引いていることへの、冷徹な不快感だ。
「今日は、その見方を一つずつ差し戻します」
「一つずつ?」
「まとめて処理すると、相手が逃げますので」
「逃がさないのね」
「不備を抱えたまま逃げられると、後処理が増えます」
「あなたらしいわ」
馬車が止まった。
外から、御者の声が聞こえる。続いて、衛兵の靴音。
扉の向こうで、誰かがはっきりと告げた。
「エーデルフェルト公爵家、ロザリア様ご到着」
ほら来た。
ロザリア様本人より先に、家名が門をくぐった。
王宮は人間を読む前に、まず表紙を読む。その表紙が立派であればあるほど、中身を見る前に勝手な分類を始める。実に王宮らしい杜撰さだ。表紙だけ読んで本文を語る者は、総じて要監査である。
ロザリア様は息を一つ置いた。
落ち着けるための間ではない。相手の呼び上げを受け取り、こちらの速度へ戻すための、きわめて計算された空白だった。
御者が扉を開く。外の光が差し込む。
私は先に降り、手を差し出した。
ロザリア様はその手を取り、ゆっくり地面へ足を置いた。
靴音は小さい。けれど逃げていない。
王宮の入口前には、すでにいくつかの馬車が停まっていた。紋章。控える使用人。案内役。それから、見ていないふりをする視線。
学園なら、ここで誰かが小声を落とす。王宮では落とさない。代わりに、目だけが帳簿のように動く。
ドレスの色。扇の位置。私との距離。ロザリア様の足取り。呼吸の乱れ。
全部、勝手に記入しようとしている。
やめていただきたい。まだこちらの確認印がない。
「少し右」
ロザリア様が小声で言った。
「右ですか」
「あなたの立ち位置よ。後ろに下がりすぎ。私の横の余白を空けておきなさい」
「侍女の立ち位置からはみ出します」
「はみ出さないぎりぎりで」
「かなり高度な要求です」
「あなたならできるでしょう」
「職務範囲が不当に拡大されています」
「記録しておきなさい」
私は、半歩だけ位置を直した。
侍女としての線は越えない。けれど、お嬢様を孤立させる距離にも置かない。
数寸。
この数寸が、今日の私の戦場だ。
案内役が近づいてきた。
「ロザリア・エーデルフェルト様。控えの間へご案内いたします」
言葉は丁寧だ。
だが、目は先に家紋を見た。次にドレス。最後にロザリア様本人。
なるほど。
ここでも順番が間違っている。
私は案内役の視線の動きを、脳内の控え欄へ静かに記入した。
ロザリア様は、その視線に気づいていた。気づいた上で、口元を動かさない。
すぐ返事をしない。睨まない。微笑みすぎない。
案内役の指先が、ほんのわずかに袖を握った。待たされたのではない。測り返されたのだと、今さら気づいた顔だった。
「お願いいたします」
短く、整った返答だった。
余計な棘はない。従順に見える甘さもない。
案内役が一瞬だけ反応に迷い、すぐ礼をする。
よろしい。
最初に動揺したのは、こちらではなく案内役の方だ。
王宮の廊下へ進む。
床は磨き上げられていて、靴音がよく響く。壁には花が飾られ、窓から入る光まで計算されている。
美しい。
そして、ひどく監視に向いている。
どの角度から見ても姿勢が分かる。どの距離からでも歩幅が測れる。どの沈黙も、逃げ場なく床に反射する。
私はロザリア様の半歩後ろ、けれど完全には離れすぎない位置を保った。
お嬢様が求めた横の余白を、誰にも踏ませないための距離。
控えの間の扉が見えてきた。
扉の前には、別の案内役が立っている。その奥に、声がある。低い話し声。上品な笑い。扇が閉じる小さな音。
王都の空気が、すでに向こうで待っている。
ロザリア様は、扉の手前で一度だけ私の位置を見た。
言葉はない。
私の立つ場所を、目だけで指定する。
ここ。
下がりすぎるな。
出すぎるな。
私の声が届く位置にいなさい。
はい、お嬢様。
その命令なら、喜んで。
扉の前の案内役が、姿勢を正す。
「エーデルフェルト公爵家ロザリア様、控えの間へ」
家名から始まる呼び上げは、もう驚くほどでもない。
ロザリア様は、扇を胸元で止めた。
口元は隠さない。視線は下げない。靴先は迷わない。
呼び上げの最後の音が消えるよりわずかに遅く、ロザリア様は歩き出した。早すぎれば焦り。遅すぎれば怯え。どちらの札も貼らせない、嫌になるほど美しい間だった。
案内役の喉が、小さく動いた。
その一つで十分だ。
王宮の人間が、最初に飲み込んだ。
私は手元の控え紙を閉じる。
入室一秒。
誰がロザリア様の第一声に泥を混ぜようとする最初の不備か、席順と視線と沈黙の置き場で逆引きして差し上げます。控え欄は空けてありますので、どうぞ遠慮なく、無能の署名を残してください。




