第50話 侍女は、お嬢様の第一声から守りたい
王宮へ向かう朝、机の上は小さな戦場になっていた。
招待状。返答案の控え。慰問茶会の確認メモ。扇。手袋。髪飾り。
そして、使う予定のない逃げ道が一つもない。
鏡の前に座るロザリア様は、いつもより静かだった。
お嬢様は、鏡の隅に張り付いた「自分の不安」というノイズを一瞥し、まるで不渡り手形を即座に破棄するような冷徹さで、それを意識の外へ放り出した。
王宮へ行く朝に、それができる。
……困る。
少し、こちらの仕事が減る。
「リネット」
ロザリア様が扇を手に取った。
「扇は胸元の手前で止める。口元まで上げれば、相手は『防御』か『拒絶』という分類札を貼りに来る。……そうでしょう?」
私は櫛を動かす手を止めた。
「はい。余計なエラーが消えています」
「言い方が可愛くないわね」
「可愛さより事故率の低下を優先しました」
ロザリア様は扇を閉じた。
強すぎず、弱すぎず。
扇の角度、コンマ一度のズレもない。
手袋の皺、存在しない。
髪飾りの光り方、過剰ではない。
癪だわ。
一箇所くらい、王都の夫人方の前に私が直して差し上げる隙を残しておいてくれないなんて。
「……何か探しているわね」
鏡の中のロザリア様が言った。
「検品中です」
「不備は?」
「見つけたくても見つかりません」
「なぜ悔しそうなの」
「職務上の葛藤です」
「あなた、本当に面倒ね」
悔しい。
いや、正しくは嬉しい。
ただ、素直に嬉しがるとお嬢様が警戒するので、悔しそうにしておく。
「ドレスはこちらでよろしいですね」
私は、深い青灰色のドレスを示した。
公爵家から届いた書きつけには、もっと華やかな色が勧められていた。家格を示すための、重く、派手で、主張の強い色。
あれはすでに、クローゼットの奥へ減損処理済みである。
「ええ。それでいいわ」
ロザリア様は鏡の中の自分を見た。
「あちらが勧めた色は、わたくしより先に家名が廊下を歩くもの」
「はい」
「王宮へ媚びる色でも、家に飾られる色でもないものにするわ」
「承知しました」
その色なら、家名よりも先に、ロザリア・エーデルフェルトという原本が立つ。
「公爵家の方々は不満でしょうね」
「でしょうね」
「では、ちょうどいいわ」
「お嬢様」
「何」
「今の顔、とてもよろしいです」
「どんな顔よ」
「家の都合を一枚、静かに踏み潰した顔です」
「褒め方が最低ね」
「最高評価です」
ロザリア様は呆れたように扇を持ち直した。
その仕草にも、もう余計な音がない。
「第一声を確認します」
私は控え紙を取ろうとして、止めた。
何度も練習を見せすぎると、本番の切れ味が鈍る。
ここで必要なのは完成品の披露ではない。お嬢様が、自分で刃を研いでいることを確認するだけでいい。
「王宮側から奉仕祭の対応を褒められた場合、どう返しますか」
ロザリア様はすぐに答えなかった。
鏡の中の自分を見て、扇の骨を指先で一度だけ押さえる。
「……学園で得た気づきを、今後の運営改善の参考としてお伝えできればと存じます」
私は頷いた。
「完璧です。その冷たさなら、あちら側の連中は『媚び』の糸口すら見つけられずに窒息するでしょう」
「褒めているのよね」
「かなり」
「王宮に都合よく『お役に立ちたい』という札を貼られるのはごめんだもの」
「たいへんよろしいです」
「この言い方、あちら側には苦いわよね」
「相当」
「なら、それでいいわ」
ロザリア様は、ほんの少しだけ口元を上げた。
王宮へ媚びる笑みではない。
相手に飲ませる薬の苦さを、先に確かめた顔だった。
私は控え紙を握る指に力が入るのを感じた。
お嬢様が、自分で言葉を研いでいる。
私が差し出した刃物を持たせているのではない。
彼女自身が、どこを切られたくないか、どこを切り返すべきかを分かり始めている。
「リネット」
「はい」
「わたくし、まだ失敗するかもしれないわ」
その言葉は、不足している備品を数えるような、ひどく冷静で実務的な響きがあった。
「はい」
「否定しないのね」
「しません」
私は手袋の端を整えながら答えた。
「お嬢様は、王宮でもお嬢様ですので。鋭いところは鋭く、腹立たしいところではきっちり腹を立てる。完全に丸くなる予定はありません」
「ひどい言い方ね」
「ですが、前とは違います」
ロザリア様は黙った。
「今のお嬢様は、相手の言葉をそのまま飲み込まず、何を受け取り、何を返すか、自ら選べます」
「……ええ」
ロザリア様は、自分の手袋を見た。
「何を先に言うべきかくらいは、分かるわ」
派手な言葉ではなかった。
けれど、私には、封蝋を割る音よりはっきり聞こえた。
学園で最初にお嬢様の言葉を言い換えた時、私はただ火消しをしていた。燃え広がる前に消す。悪い形で残る前に直す。
王都では、火がつく前の香りだけで噂が走る。
第一声という表題を汚されれば、中身まで勝手に分類される。
だから私は、お嬢様の台詞だけを整えたいのではない。
その声が届くまでの道筋を、誰の不備にも汚させたくないのだ。
「殿下は、ちゃんと来るのかしら」
ロザリア様がふと呟いた。
「招待状には同席予定とありました」
「来るだけでは足りないわ」
「はい。立つ位置、最初の言葉、視線の向け方。殿下にも提出物が山ほどあります」
「あなた、殿下に課題を出すつもりなの?」
「本人の遅れた分です」
「本人に言わないでね」
「言葉は選びます」
「言わないで」
「検討します」
「言わないで」
ロザリア様は呆れたように言ったが、表情は以前ほど硬くない。
殿下を許したわけではない。
けれど、もう見ないふりもしない。
それもまた、前進なのだろう。
部屋を出る時間が近づいた。
ロザリア様は自分で扇の位置を直し、手袋の皺を伸ばし、髪飾りが光を拾いすぎていないか鏡で確かめた。
私が手を伸ばす前に、彼女は言う。
「分かっているわ。髪飾りは少し下げるのでしょう」
「はい」
「光を拾いすぎると、王宮に媚びているように見える」
「その通りです」
「あなた、今少し嬉しそうだったわね」
「職務上の達成感です」
「そういうことにしておくわ」
ロザリア様は立ち上がった。
背筋は伸びている。
それは、他人の視線に合わせた姿勢ではなく、自分で引き直した輪郭だった。
廊下へ出ると、使用人たちが控えていた。
いつもより空気が硬い。
王宮へ向かうというだけで、人は勝手に息を詰めるらしい。
「お気をつけてお出かけくださいませ」
若い侍女が、少し緊張した声で言った。
ロザリア様は足を止めた。
昔なら、軽く頷くだけだったかもしれない。余計な摩擦を避けて、そのまま進んだかもしれない。
けれど、今日は違った。
「ありがとう」
ロザリア様は静かに言った。
「戻ったら、今日の手袋の保管をお願いするわ。皺を残したくないの」
侍女の顔が、ぱっと明るくなる。
「はい。お任せくださいませ」
感謝と役割。
ええ、お嬢様。
その采配、私が教えるまでもなく、もうご自身のものになさっているのね。
私は内心で、脳内の評価欄に真っ赤なインクで大きな丸を叩きつけた。
「今のは、とてもよかったです」
私は小声で言った。
「あなたに素直に褒められると落ち着かないわ。……撤回していいわよ」
「記録済みですので、不可能です」
「本当に記録していないでしょうね」
「脳内控えです」
「それも嫌なのよ」
ロザリア様の歩幅が、少しだけ軽くなった。
馬車寄せには、公爵家の馬車が用意されていた。
扉には重厚な家紋。
王宮へ向かうための、家の顔。
それでも、今日この箱に乗るのは家の看板ではない。
ロザリア様という、一人の人間だ。
馬車に乗り込む直前、ロザリア様がこちらを向いた。
「リネット」
「はい」
「わたくしが黙ったら」
「拾います」
「わたくしが言いすぎたら」
「整えます」
「……わたくしが、言うべきことを言えたら?」
そこで、ほんの少しだけ間が空いた。
私は頭を下げすぎず、まっすぐ答える。
「その時は、余計な手を出さずに、特等席で記録させていただきます」
ロザリア様は、静かに、そして強く頷いた。
「それでいいわ」
馬車の扉が閉まる。
車輪が動き出し、学園の門が遠ざかっていく。
窓の外を見据えるロザリア様の横顔は、次に立つ戦場を先に見定めている事務官のようだった。
王宮。
家名が先に座り、過去の噂が勝手に席を取り、沈黙にまで値札が貼られる場所。
ロザリア様は、扇を胸元で止めた。
隠れない。
差し出しもしない。
まっすぐ前を見る。
お嬢様の第一声。
その無垢な表題を汚そうとする無能がどこのどなたか、入室一秒で見極めて差し上げましょう。
まずは茶会の席順。
誰が最初にロザリア様の過去を持ち出す位置へ座らされているか。
誰が殿下の反応を盗み見る角度にいるか。
誰が笑顔で慰問茶会の古い札を差し出すか。
全員、控え欄に並べます。
そして一人ずつ、発言と視線と沈黙の矛盾を照合して差し上げますわ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第5章は、学園の中で変わり始めたロザリアの評価が、王都や家、王宮へ広がっていく章でした。
褒められることも、期待されることも、決して楽なことばかりではない。そんな中で、ロザリアが少しずつ「自分の言葉で立つ」方向へ進んでくれていたら嬉しいです。
次章からは、いよいよ王宮の場へ進みます。
ロザリアとリネットが、どんな第一声で立つのか、見守っていただけましたら幸いです。




