第49話 王都の空気は、笑顔のまま刺してきます
招待状の余白に書かれていた一文は、見れば見るほど性格が悪かった。
本文は丁寧だ。
王宮礼務局らしい、整いすぎた文字。誰が読んでも失礼のない、どこにも棘の見えない文面。
けれど余白の端に、わざとらしく小さく添えられている。
昨年冬の慰問茶会における御発言についても、必要に応じ確認のこと。
必要に応じ。
便利な言葉だ。
責任を取らずに古傷を開ける時、人はだいたいこういう柔らかい布を使う。
「今から調べるの?」
ロザリア様は、招待状を見下ろしたまま言った。
「はい」
「まだ朝よ」
「王都の噂は、放置すると発酵します」
「嫌な保存食みたいね」
「食べられない上に、臭いだけ残ります」
ロザリア様は、扇を開きかけて止めた。
前話の訓練が効いている。
怒りを隠す動作すら、今は警戒の対象になっているのだろう。
とてもよい。
ただし、本人には言わない。言うと余計に嫌な顔をなさる。
「慰問茶会の件は、わたくしも覚えているわ」
「では、なおさら確認が必要です」
「わたくしの記憶だけでは足りないのね」
「王都は、本人の記憶より、他人が楽しそうに加工した記憶の方を好みますので」
ロザリア様の声は、期限切れの帳簿を突き返す時のような、ひどく乾燥した拒絶の音になった。
「最悪ね」
「はい。ですので、先に蓋を開けます」
私は招待状の写しを取り、部屋を出た。
向かう先は、使用人控え室だ。
王都の空気は、表にいる人間ほど綺麗に語る。
けれど、綺麗すぎる言葉は大抵、肝心な部分を削っている。
本当に知りたいことは、茶器棚の前、馬車寄せの隅、控え室の火鉢のそば、そういう場所に落ちている。
控え室へ入ると、マーサさんが茶葉の缶を仕分けていた。
相変わらず手元は正確で、口元は嫌なほど楽しそうだ。
「あら。今朝も顔が怖いわね」
「おはようございます」
「挨拶は丁寧なのに、目が帳簿を焼きそう」
「燃やす前に確認します」
私は招待状の写しを机に置いた。
マーサさんは、余白の一文を見ただけで口の端を引いた。
「昨年冬の慰問茶会」
「ご存じですか」
「王都にいた使用人なら、だいたい聞いているわ」
「やはり」
「ええ。あれ、まだ残っているのね」
まだ残っている。
その言い方に、私は椅子を引く手を止めた。
「どのように残っています?」
「上品に言うなら、“少し強い物言いをなさった件”」
「上品ではない言い方なら」
「“公爵令嬢が、慰問先で相手の面目を潰した”」
「捏造の匂いがします」
「完全な捏造ではないのが、たちが悪いのよ」
マーサさんは茶葉の缶を一つ閉じた。
金属の蓋が、かちりと小さく鳴る。
「当時、ロザリア様は何をおっしゃったのですか」
「慰問先で、寄付品の分配順がおかしかったらしいわ。暖を取る毛布が足りない部屋へ回されず、見栄えのいい玄関側へ積まれていた」
「最悪ですね」
「ロザリア様は、それを見て言ったそうよ。“見せるための慈善なら、積む場所を間違えておりますわ”って」
「正論です」
「ええ。正論」
「問題は」
「言った相手が、王宮慈善事業の古い顔役の夫人だったことね」
私は招待状の余白を見た。
見せるための慈善なら、積む場所を間違えている。
ロザリア様らしい。
鋭い。正しい。場を凍らせる。
そして、王都の連中が喜んで「気位が高い」「面目を潰した」と書き換えそうな言葉だ。
「ロザリア様は間違っていません」
「そこは、たぶん誰も真正面から否定しないわ」
「では、なぜ残るのです」
「正しさで恥をかかされた人間は、あとから礼儀の帳簿で殴り返すのよ」
マーサさんは、嫌なほど淡々と言った。
「今の王都は?」
「割れているわ。奉仕祭の記録を見て“やはり公爵家の令嬢は有能だった”と言う人もいる。使える、と見た人たちね」
「歓迎に見せた値踏み」
「そう。あとは警戒。ロザリア様が悪役の棚に入っていた方が楽だった家もあるもの」
「冷笑は」
「しつこいわよ」
マーサさんは茶葉の缶を棚へ戻した。
「“最近のロザリア様は、本当にお変わりになったのですね”くらいは言われるでしょうね」
「以前は悪かった、と言いたい」
「そう。“昨年の慰問茶会の頃とは、ずいぶん印象が違いますこと”も来るわ」
「古傷を笑顔で掘る言葉ですね」
私は控え紙を出しかけて、やめた。
書くまでもない。
処理対象は、すでに頭の中で赤く光っている。
「その程度なら」
私は言った。
「“皆様の記憶力が、奉仕祭の記録という最新の事実に追いついていないだけですわ”と返したくなりますね」
「言ったら刺し返しよ」
「分かっています。言いません」
「本当に?」
「言い方を変えます」
マーサさんが笑った。
「あなた、怖いわね」
「お嬢様を笑顔で刺そうとする方々に比べれば、まだ事務的です」
「王都ではね、刺す時に笑うのよ。そうすると、刺された方が怒れば“褒めただけですのに”で逃げられる」
「笑顔を盾にした無責任な刺傷事件ですね」
「よくあることよ」
よくあってたまるか。
私は控え紙に、短く書いた。
笑顔の刺し言葉。処理順、要設計。
マーサさんが、それを横目で見て笑う。
「本当に戦う気ね」
「お嬢様が刺される前に、刃物の出所を洗います」
「刃物なんて出さないわよ」
「笑顔の裏に隠した刃物も、私の帳簿では刃物です」
控え室を出る前に、もう一つ確認した。
「慰問茶会の記録は、どこに残っていますか」
「王宮礼務局の慈善事業摘要。あとは、その場にいた夫人たちの私的な覚え書き」
「私的な」
「表に出ないから厄介なの。正式記録より、茶会の控え室で語られる“あの時の話”の方が長生きする」
「虫のようですね」
「潰しにくいわよ」
控え室を出たあと、私は資料室へ向かった。
念のため、書記局側の匂いも嗅いでおく必要がある。
資料室では、ユリウスが棚の間で古い記録を戻していた。
こちらに気づくと、彼は楽しそうに目を細めた。
「随分と殺気だった歩き方ですね」
「資料を探しています」
「人を探す顔ですよ」
「場合によっては」
私は招待状の写しを見せた。
ユリウスは余白の一文を読んで、軽く口笛を吹きそうな顔をした。吹かなかっただけ、多少の分別はあるらしい。
「昨年冬の慰問茶会ですか」
「王宮側の照会で使われますか」
「使われるでしょうね」
「王宮は、今のお嬢様を見る気があるのですか」
「ありますよ。ただし、過去の札を首に掛けたまま見ようとしている」
ユリウスは棚から薄い綴りを一冊抜き、開かずに表紙だけをこちらへ見せた。
「慈善事業関係の摘要は、きれいに整っています。整いすぎているくらいに」
「嫌な言い方ですね」
「お嬢様の正論を“失言”に加工した箇所だけ、妙に筆圧が揺れているんです」
「筆圧」
「書いた人間も分かっていたんでしょうね。正論をねじ曲げている、と」
それは、面白い。
敵の動揺が紙に残っているなら、そこは傷口だ。
傷口は広げられる。
「閲覧できますか」
「普通は面倒です」
「普通でない方法は」
「殿下の名を使えば早いでしょう」
「燃料に続き、鍵ですか」
「便利ですね、殿下」
「便利で終わらせると本人が気の毒なので、“使用責任ありの鍵”にしておきます」
「あなた、本当に容赦がない」
私は否定しなかった。
ユリウスは綴りを棚に戻す。
「笑顔の社交界は厄介ですよ。刃物を出さずに人を切りますから」
「でしたら、こちらは証拠の紙束で殴ります」
「あなたはいつも通りですね」
「それが一番安定します」
資料室を出た。
王都の噂は、喉の奥にこびりついた古いインクのように、どれだけ吐き出そうとしても消えない粘り気があるらしい。
真正面から殴ってくる者より面倒だ。
殴られたと言えば、相手は微笑んで言うのだろう。
褒めただけですのに、と。
ロザリア様の部屋へ戻ると、お嬢様は招待状を机の上に置き、扇の開閉を一人で試していた。
おや。
練習している。
私が入った瞬間、ロザリア様は何事もなかったように扇を閉じた。
「何か」
「いえ」
「今、何か言いたそうな顔をしたわ」
「大変よい傾向です」
「言ったわね」
「はい」
ロザリア様は少しだけ頬を固くした。
照れ隠しを、怒りの形に加工しようとしている。実にお嬢様らしい。
「報告を」
「はい」
私は控え紙を机に置いた。
「お嬢様。王都の空気は、笑顔のまま刺してきます」
「物騒な報告ね」
「表面上は歓迎です。中身は、歓迎、警戒、様子見、冷笑が混ざっています」
「混ぜないでほしいわね」
「王都は混ぜ物が好きです」
ロザリア様は椅子に座り直した。
「具体的には」
「二つ、特に警戒してください」
私は控え紙を指で叩いた。
「“最近はお変わりになったのですね”」
「以前は悪かった、という意味ね」
「はい。もう一つ。“昨年の慰問茶会の頃とは違いますこと”」
「古傷を笑顔でつつく言葉」
「その通りです」
ロザリア様は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、沈んだものではなかった。
計算している沈黙だ。
「つまり」
彼女は言った。
「相手が過去を持ち出す前に、こちらが今の立ち位置を置く必要があるのね」
「はい」
ロザリア様の視線が、招待状から控え紙へ移る。
「弁解から始めれば、過去を認めたように見える」
「その通りです」
「怒れば、やはり気難しいと言われる」
「はい」
「黙れば、都合よく解釈される」
「ええ」
「なら、なおさら順番を間違えられないわね」
私は、少しだけ言葉を失った。
リネット式の地獄研修は、ちゃんとお嬢様の中で根を張っている。
しかも、私が説明する前に、王都用へ転用された。
「その通りです」
私はできるだけ平静に答えた。
「では例を」
「待って」
ロザリア様が、扇を閉じた。
「先にわたくしが考えるわ」
おや。
私は控え紙から手を離した。
「“最近はお変わりになったのですね”と言われた場合」
ロザリア様は少し考える。
「……“そう見えるのでしたら、奉仕祭で多くの方に支えられたおかげかもしれません。今後も、場に必要なことを見落とさないよう努めますわ”」
私は黙った。
こちらの手本を待たずに、受け取り、現在へ移し、今後の姿勢を置いた。
きちんと順番が組まれている。
「何」
ロザリア様が警戒する。
「いえ」
「だめなの?」
「だめではありません」
「では何」
「少し、こちらの仕事を奪われた気分です」
「あなたにばかり働かせる気はないわ」
ずるい。
そういう言い方は、ずるい。
私は咳払いをした。
「では、次です」
「昨年の慰問茶会の頃とは違いますこと、でしょう」
「はい」
「……昨年の件を覚えていてくださったのですね。あの時も、必要な物が必要な方へ届くべきだと考えておりました。今後は、その考えが誤解なく伝わるよう、言葉の順番にも気を配りますわ」
私は、今度こそ本当に固まった。
ロザリア様がこちらを見る。
「何」
「……お嬢様」
「だめ?」
「連中の舌は根元から凍ると思います」
「あなた、言い方がひどいわね」
「褒めています」
「褒め言葉が物騒なのよ」
「過去の正当性を手放さず、現在の改善も示し、相手に“失敗を認めた”と持ち帰らせない返答でした」
「長い」
「すごくよかったです」
「最初からそれでいいのよ」
ロザリア様は少しだけ、口元を緩めた。
その表情を、王都の誰にも勝手に加工されたくないと思った。
だからこそ、準備が必要なのだ。
「お嬢様」
「何」
「王宮茶会では、私が後ろで拾います。お嬢様は、前だけを見てください」
いつもの形のつもりだった。
ロザリア様が前へ出る。
私は後ろで言葉を拾い、整え、余計な悪意を払う。
けれど、ロザリア様は静かに首を振った。
「いいえ」
「お嬢様?」
「次は、あなたの後ろではなく、隣で立つわよ」
その言葉は、王都のどんな褒め言葉より扱いが難しかった。
受け取りそこねれば、お嬢様は照れて引っ込める。
持ち上げすぎれば、扇で顔を隠す。
茶化せば怒る。
真面目に受け取れば、こちらが負ける。
私は、一瞬だけ返事に迷った。
ロザリア様は、私を見ている。
逃げていない。
なら、こちらも逃げるわけにはいかない。
「承知しました」
私は言った。
「では、隣に立つための動線確認から始めましょう」
「あなた、本当に余韻を壊す天才ね」
「王都に余韻を渡すと、勝手に加工されますので」
「少しは味わいなさい」
「後で厳重保管します」
ロザリア様は呆れたように笑った。
私は机の端に置いた、昨年冬の慰問茶会の確認メモへ視線を落とす。
王都が笑顔で古傷を刺すつもりなら、こちらはその刺し口を先に塞いでおかなければならない。
そして今度は、リネットの後ろに隠すのではない。
ロザリア様本人が、隣で立つ。
ならば必要な準備は、これまでより多い。
けれど、不思議と面倒だとは思わなかった。
少なくとも、少しだけ。
私は控え紙の端を指で押さえた。
王都の空気が笑顔で刺してくるなら、こちらはその笑顔の裏側にある不備を、皮一枚残さず剥いで差し上げましょう。




