第43話 お嬢様は、褒め言葉の受け取り方を知りません
褒め言葉というものは、思ったより危険だった。
「ロザリア様、奉仕祭では本当にありがとうございました」
廊下の隅で、補助生徒が両手を胸の前で揃え、深々と頭を下げた。
「あの時、控え札の確認を先にと言っていただけなければ、私、たぶん入口で詰まらせていました。あの、本当に助かりました」
ロザリア様は足を止めた。
止めたまま、動かない。
お嬢様は、まるで帳簿に存在しない「架空の負債」を突きつけられた会計係のような、ひどく無様なフリーズを起こしていた。
「……そう」
補助生徒の笑顔が、困惑へ変わる。
「は、はい」
沈黙。
相手の好意が、机の端から床へ落ちた。
音はしない。だが、私の中の事務員が確かに聞いた。ぱさり、と乾いた紙が落ちるような音を。
補助生徒は、どうしていいか分からない顔で礼をして去っていった。
ロザリア様はその背を見送り、ぽつりと言う。
「何かしら」
「お嬢様」
「何」
「今の返答は、相手の善意を未処理のまま廊下へ放置しました」
「未処理」
「はい。拾った方がよろしいです」
ロザリア様は、心底面倒そうに私を見た。
「感謝されたのだから、受け取ったでしょう」
「受け取っていません。確認印だけ押して、相手へ返却したようなものです」
「確認印なら十分ではなくて?」
「社交では不足です」
その直後、奉仕祭の監督教師が廊下の向こうから近づいてきた。
「ロザリア嬢。先日の動線修正、改めて見事だった。君の判断がなければ、来賓の流れはかなり乱れていただろう」
教師側からの評価確認。学園評価へ繋がる、使える一言。
私は内心で赤ペンを構えた。
ロザリア様は教師を見て、ほんの少し間を空ける。
「当然のことをしただけですわ」
教師の口が閉じた。
「……そうか」
教師はそれ以上踏み込まず、軽く礼をして去っていく。
私は手帳を開いた。
書き込む必要はない。脳内の損益欄に、もう赤字が出ている。
「加点機会の破棄、確認」
「何を確認しているの」
「お嬢様、今すぐ部屋へ戻りますわよ」
「なぜ」
「これ以上、廊下に資産をばら撒かせるわけにはいきません」
「資産?」
「評判です。放置すれば目減りします」
「あなた、本当に嫌な言い方をするわね」
「緊急研修です」
ロザリア様は、まるで新種の害虫でも見つけたような目で私を見た。
「褒め言葉にまで、練習が必要なの」
「必要です」
「そんなことまで?」
「そんなことまで、です。注意する言葉だけでは足りません。受け取る言葉も整えなければなりません」
「面倒ね」
「褒め言葉は、放置すると別の評価へ化けます」
「怖いことを言うわね」
「怖いです。今の教師の件など、王都なら“褒めても突き返す高慢な令嬢”に加工されかねません」
「……ありそうで嫌だわ」
お嬢様の顔が、ようやく真面目になった。
その日の放課後、私はロザリア様の部屋の机に紙を広げた。
表題は、
褒め言葉受領手順 暫定版
である。
ロザリア様は、その紙を呪いの魔導書でも見るような顔で見下ろしていた。右手には扇。開くでも閉じるでもなく、指先だけでぎりぎりと端を押さえている。かなり嫌がっている証拠だ。
「暫定版って何」
「運用しながら改訂します」
「改訂されるの?」
「されます。褒め言葉にも種類がありますので」
「本当に面倒ね」
私は紙の上を指で叩いた。
「まず受け取る。相手へ返す。次へ繋げる。この三段階です」
「褒められただけなのに?」
「褒められただけで終わらないのが社交です」
「社交って嫌ね」
「はい」
そこは全面的に同意する。
「教師から、“見事な判断でした”と言われました」
「当然ですわ」
「相手の離反率が上がります」
「離反率」
「褒めた側が“言わなければよかった”と感じる確率です」
「嫌な数値を出さないで」
「現実です」
「では、必要なことをしただけです」
「評価を返却しています」
「では何と」
私は見本を読み上げる。
「ありがとうございます。皆さまがすぐ動いてくださったおかげです。今後も気を引き締めます」
ロザリア様は扇を握る指に力を入れた。
ぱき、と小さく嫌な音がする。
「長いわ」
「社交とは、必要な無駄を美しく挟む技術です」
「無駄と言い切ったわね」
「はい。ですが必要です」
「こんな恥ずかしい台詞、公文書の前でしか言いませんわよ」
「公文書は私情を挟みません。もう一度」
「あなたは侍女でしょう」
「今は公文書です」
「最悪ね」
ロザリア様は深く息を吐き、紙を睨む。
「ありがとうございます。皆さまが……すぐ動いてくださったおかげです。今後も、気を引き締めます」
棒読みだった。
非常に棒読みだった。
けれど、言えている。
「今の言い方なら、相手の心の離反を五割ほど防げます」
「五割」
「残り五割は、表情と間の取り方です」
「そんなに残っているの」
「初回としては、損失を半分まで圧縮できました」
「褒めているの?」
「かなり褒めています」
ロザリア様は納得のいかない顔で扇を机に置いた。置き方が少し乱暴だ。
「次です」
「まだあるの」
「下級生から“助かりました”と言われました」
「そう。次からは自分で気づきなさい」
「相手が後悔します」
「だめなの?」
「だめです。感謝に追加指導を重ねると、相手は“褒めるのではなかった”と学習します」
「そんなことまで気を遣わなきゃいけないの」
「はい」
「助けたのはこちらでしょう」
「はい」
「それなのに、褒められた後の相手の気分まで?」
「はい」
「社交って、ほとんど罰ではなくて?」
「否定しません」
ロザリア様は本気で嫌そうに扇を持ち直した。
今度は折れそうなほど握っている。
「返答案です。“無事に終わってよかったわ。あなたもよく動きました”」
「……無事に終わってよかったわ。あなたも、よく動きました」
また少し棒読みだ。
だが、先ほどより柔らかい。
「それなら、相手は次も報告してくる可能性があります」
「あなたの褒め方、資料みたいなのよ」
「職業病です」
ロザリア様はしばらく黙り、それから小さく同じ言葉を繰り返した。
「無事に終わってよかったわ。あなたも、よく動きました」
今度は、ほんの少しだけ自然だった。
私は思わずペンを止めた。
「今のは使えます」
「本当でしょうね」
「はい。相手の善意を廊下に落とさず、机の上へ戻せています」
「その例え、嫌なのよ」
「正確です」
翌日、その練習は思ったより早く試された。
廊下の角で、ミレイユがロザリア様を見つけ、少し迷ってから近づいてきたのだ。
「あの、ロザリア様」
「何かしら」
ロザリア様の声は、少し硬い。
私は横で黙る。ここで助け舟を出したら、この研修はただの紙遊びになる。
ミレイユは両手を胸の前で握りしめた。
「奉仕祭の時、私が慌てていたのを助けてくださって……ありがとうございました。ロザリア様が、先に状況を見なさいと仰ってくださったので、あの後、少し落ち着いて動けました」
ロザリア様が固まった。
昨日なら、ここで「そう」と言って会話を処理済みにしていた。
私は視線だけで、机に広げた暫定版を思い出せと念を送る。
ロザリア様は、一度だけゆっくり瞬きをした。
「……無事に終わってよかったわ」
ミレイユは、お嬢様の口から出た想定外の「配慮」という数字に、計算の合わない帳簿を渡された会計係のように立ち尽くした。
ロザリア様は、さらに続ける。
「あなたも、よく動いていました」
「え」
「ただし」
私は内心で少しだけ身構えた。
「次からは、抱え込む前に周囲を見なさい。困った時は、まず状況を確認すること。……その方が、あなた自身も楽でしょう」
指導が入った。
入ったが、刃先が丸い。
ミレイユは驚いた顔のまま、ゆっくり頷いた。
「はい。ありがとうございます」
声が、前より明るい。
「気をつけます」
ロザリア様はまた少し困った顔をした。
「ええ」
そこで終わりかけて、何かを思い出したように付け足す。
「……無理は、しなくてよろしいのよ」
ミレイユの肩から、目に見えない荷物がひとつ落ちたようだった。
「はい」
彼女は深く礼をして去っていく。
ロザリア様はその背を見送り、それから私を見る。
「どう」
「使えます」
「何に」
「王都以外なら、かなり」
「王都以外」
「はい。王都の貴族どもの“褒め言葉という名の毒”には、三倍の毒抜き工程が必要です」
「聞きたくなかったわ」
「聞いてください。近いうちに使います」
「本当に面倒ね」
ロザリア様の歩幅が、ほんの少しだけ軽い。
本人は気づいていない。たぶん、絶対に認めない。
よし。
これで王都用の弾薬が一発増えた。
褒め言葉を受け取る。
相手に返す。
必要なら、そのまま相手の喉元へ礼儀正しく差し返す。
いい武器だ。
部屋へ戻ると、私は机の上の紙に追記した。
褒め言葉受領 実地一件。
成果 相手の離反なし。
課題 指導成分を三割削減。
ロザリア様が覗き込んで、顔をしかめる。
「三割も?」
「はい」
「かなり削るのね」
「社交用ですので」
私はペン先を整えながら、次の欄を空けた。
学園の生徒なら、今の練習で足りる。
けれど王都は違う。あそこに飛んでくる褒め言葉は、感謝の顔をした値踏みであり、称賛の形をした首輪であり、時々、笑顔を貼り付けた毒針だ。
「では次は、王都の方々から褒められた場合の返答練習ですね」
「……まだ増えるの?」
「はい」
私は空欄に、小さく題名を書く。
王都向け受領手順 毒抜き版。
ロザリア様が、心底嫌そうにその文字を見下ろした。
「最悪ね」
「ええ」
私はペン先を、静かに研いだ。
さて。
あちら側のどなたから、この完璧な受領を試して差し上げましょうか。




