第44話 悪役でいてくれた方が楽だった人たち
回廊の角を曲がった瞬間、話し声がほどけて落ちてきた。
「最近のロザリア様、少し印象が違いますわね」
ロザリア様の足は止まらない。
私だけが、半歩後ろで耳をそちらへ向けた。
柱陰に、数人の令嬢がいた。奉仕祭の後片づけに関する資料を持っている。けれど手は動いていない。紙を持っているだけで仕事をしている顔になると思っているらしい。安い仮装だ。
「奉仕祭では、随分と評価されたそうですもの」
「でも、本質まで変わったわけではないでしょう?」
「ええ。少し言葉を整えるようになっただけでは?」
「急に持ち上げすぎるのも、どうかと思いますわ」
なるほど。
お嬢様が正しく残ったせいで、彼女たちの古い分類表が使い物にならなくなったらしい。
ロザリア様は、聞こえているはずなのに表情を変えない。
そのまま通り過ぎようとする。
けれど、次の言葉で、歩幅がわずかに乱れた。
「ロザリア様があまり高く評価されると、王太子殿下の周囲も落ち着きませんわよね」
「フォルナ様との空気も、これまでとは違って見られてしまいますもの」
「厳しい婚約候補がいて、そこへ優しい令嬢がいる。そういう分かりやすさがあったのに」
分かりやすさ。
私は控え紙の角を、危うく握り潰しかけた。
お嬢様を「絶対悪」というゴミ箱へ放り込んでおくことで、自分たちの小さな悪意を清算していたわけね。
杜撰な会計だ。
今すぐ差し押さえて、関係者全員に未払い分の利息まで請求してやりたい。
「それに」
別の令嬢が、声を少し潜める。
「母が申しておりましたの。エーデルフェルト公爵家がまた強く出てくるのではないかと」
「ロザリア様の評価が戻れば、婚約候補としての序列にも影響しますものね」
「だからこそ、急に評価を変えるのは危ういのではありません?」
「そうですわ。これまでの空気というものもありますし」
これまでの空気。
責任者不在のまま人を押し潰す時に使う、やわらかくて汚い布。
ロザリア様の足が止まった。
背後から突き刺さる無責任な言葉の群れに、彼女の矜持が静かにきしんだ音がした気がした。
「お嬢様」
私は低く声をかけた。
「面倒ね」
ロザリア様は前を向いたまま言った。
いつもの切り捨てる声だ。
けれど今日は、刃ではなく、薄く乾いた紙の端みたいな声だった。
「悪く言われるだけなら、まだ分かりやすいわ」
ロザリア様は続ける。
「でも、悪くいてくれた方が楽だと思われるのは、少し疲れるわね」
その一言で、私の中の帳簿が一冊、音を立てて開いた。
私は控え紙を取り出す。
この場で令嬢たちへ噛みつくのは簡単だ。
けれど今必要なのは、怒鳴り声ではない。
誰が、何を、どの都合で、ロザリア様を古い役割へ戻そうとしているのか。
そこを残すことだ。
私は余白へ書き込んだ。
再評価反発層。理由、立場維持。
悪役令嬢像を必要とする者あり。
家の思惑、混入。
筆圧が強くなる。
紙の繊維が、ペン先の下で少しだけ毛羽立った。
「リネット」
「はい」
「今、何を書いているの」
「不快な空気の在庫表です」
「捨てなさい」
「いずれ燃やします」
ロザリア様は呆れたように息を吐いた。
止めはしない。
その時だった。
「……あの」
小さな声が、回廊の別の方からした。
ミレイユ・フォルナだった。
彼女は資料を抱えたまま、令嬢たちの輪の手前で立ち止まっていた。どうやら、今の会話の後半を聞いてしまったらしい。
以前の彼女なら、曖昧に笑って通り過ぎただろう。
誰も傷つけず、誰にも逆らわず、自分だけが少し苦しくなる方法を選んだはずだ。
だが、今日は違った。
ミレイユは資料を胸に抱き直し、令嬢たちへ向き直る。
「ロザリア様は、私を困らせたのではありません」
声は大きくない。
けれど、逃げていない。
「奉仕祭でも、その前も。むしろ、助けてくださいました」
令嬢たちが黙った。
計算外の証言が、きれいに並べた言い訳の山へ落ちた音がした。
ぱさり、ではない。
もっと重い。机の上の資料束が、まるごと滑り落ちる音だ。
「フォルナ様」
一人が困ったように笑う。
「でも、ロザリア様のお言葉は時々……」
「厳しいです」
ミレイユはそこを否定しなかった。
「でも、私が抱え込んでいたものを見てくださいました。私が困っているのに、笑っていたわけではありません」
ロザリア様が、ほんの少しだけ動いた。
私はお嬢様の横顔を凝視した。
さあ。
研修の成果を見せなさいませ。
その感謝、廊下に落としたら次は十倍の課題ですわよ。
ロザリア様は、一拍だけ黙った。
それから、ミレイユへ視線を向ける。
「……あなたがそう言うなら、助かるわ」
言えた。
硬い。
まだ硬い。
けれど、受け取った。
ミレイユの表情が、少し緩む。
ロザリア様はさらに続けた。
「けれど、無理はしなくてよろしいのよ。あなたが言わなければならないことではありません」
「いいえ」
ミレイユは、今度は首を振った。
「私が、言いたかったのです」
ロザリア様が固まった。
また止まった。
想定外の善意に弱すぎる。研修資料が足りない。
私は小さく咳払いをした。
ロザリア様の視線が、ちらりと私へ走る。
嫌そうな顔だ。だが、思い出したらしい。
「……ありがとう」
その一言に、ミレイユだけでなく、周囲の令嬢たちまで息を止めた。
私も少しだけ驚いた。
思ったより自然だった。
ロザリア様はすぐに扇を開いた。
ばちん、と音が鳴る。自分の言葉の甘さに耐えきれず、物理的に目隠しを作ったのだろう。分かりやすい。
「ただし」
来た。
「次からは、言葉を選ぶ前に、まず自分の立ち位置を確認なさい。庇う側に立つなら、曖昧に笑うのは危険です」
私は扇の端を横目で見た。
削減予定を思い出してください。
そう視線で刺す。
ロザリア様は不本意そうに口を閉じた。
扇の骨が、もう一度だけ小さく鳴った。
ミレイユは、少しだけ笑った。
「はい。気をつけます」
その笑顔は、以前の曖昧なものとは違った。
まだ頼りない。けれど、自分の言葉で立った人間の顔だった。
令嬢たちは、もう先ほどの話を続けられない。
ロザリア様が怖い人で、ミレイユが怯える優しい令嬢で、自分たちはその周囲にいる理解者。
その安い物語が、いま目の前で破れた。
私は控え紙へ、もう一行足す。
フォルナ嬢、証言位置変化。
悪役令嬢像、内側から崩れあり。
ロザリア様はそれを見て、また嫌そうな顔をした。
「あなた、本当に何でも書くのね」
「残さないと、また誰かが都合よく並べ替えますので」
「嫌な信頼感だわ」
「恐縮です」
その場を離れ、回廊の角を曲がる。
背後で、令嬢たちの声が小さく再開した。
けれど、先ほどの滑らかさはない。紙に混じった砂のように、どこか引っかかっている。
ロザリア様はしばらく黙って歩いた。
「悪役でいるのも」
やがて、ぽつりと言う。
「悪役でなくなるのも、どちらも面倒ね」
私は控え紙を開いた。
悪役令嬢というゴミ箱に甘えて、自分たちの怠慢を清算していた人たち。
その杜撰な会計を、今までずっと正しい処理だと思い込んでいた人たち。
よろしい。
未払い分の利息まで、まとめて請求する。
私は新しい見出しを書いた。
悪役令嬢像を必要とする者。
再評価により損をする家。
王太子周辺の空気操作。
楽をしていた者への請求書、要作成。
「リネット」
「はい」
「また嫌な顔をしているわ」
「申し訳ありません」
「謝る気のない声ね」
「ありません」
ロザリア様は、呆れたように私を見た。
「何を考えているの」
「悪役でいてくれた方が楽だった方々への、請求方法です」
「……本当に面倒ね」
「ええ」
私は控え紙を閉じた。
この楽の代償がどれほど高くつくか。
次は、利息を含めて公文書にして差し上げましょう。




