第39話 今度は、きちんと残りました
奉仕祭の翌朝、書記局へ向かう廊下で、私は綴り紐を指に巻きつけすぎていた。
「そんなに引っ張らなくても、紙は逃げませんわよ」
隣を歩くロザリア様が、いかにも他人事の声で言う。
「逃げるのは紙ではありません」
「ええ、事実でしょう?」
「でしたらなおさらです」
お嬢様は少しだけ笑った。軽く、乾いた笑いだった。
「どうせ何か削られているわ」
「削られていたら、原本と照合します」
「ええ」
「それでも足りなければ、誰がどこを触ったか、一人ずつ吊るします」
「怖い侍女」
「今さらです」
強気に言ったくせに、綴り紐から指が離れない。
胸が高鳴る、なんて綺麗なものではなかった。喉の奥に古いインクの塊でも詰まっているみたいに、息の通りが悪い。期待と警戒が喧嘩している時は、だいたいこんな感じになる。
書記局の閲覧台は、相変わらず虫が好かないほど整っていた。紙の角、背表紙、記録札の位置。ここはいつだって体裁だけは立派だ。
受付で綴りを受け取り、閲覧台へ置く。
奉仕祭準備および当日対応要約。
表紙の文字は妙に普通で、そこがかえって不気味だった。
開く。
最初の数行で、指が止まった。
「……お嬢様」
声が少し掠れた。自分でも驚くほど、情けない音だった。
「何」
「見てください」
綴りを半歩ぶん寄せる。
ロザリア様の視線が落ちる。
その瞬間、お嬢様の指先が紙の上で止まった。
書かれていたのは、あの安い札ではなかった。
高圧的。威圧的。強い叱責。
読む側の思考をそこで終わらせるための、あの手垢まみれの言葉ではない。
混乱の収束。
公平な再配置。
事故防止を優先した迅速な対応。
お嬢様の名前の下に、そんな文字が並んでいる。
乾ききったインクの上で、その語だけが妙に鋭く見えた。細い針みたいに整っているのに、今までのどんな記録よりも乱暴に、こちらの神経へ刺さってくる。
私は思わず、その一行へ指を置いた。震えているのを隠すには、その方が都合がよかった。
「……何これ」
ロザリア様の声は低かった。
低いまま、二行、三行と目で追っていく。
「ちゃんと、したことが先にある」
「はい」
「“怖かった”ではなくて」
「はい」
「“収束”」
その語を口にする時だけ、わずかに間が空く。
「こんな記録、初めてだわ」
私はもう一度、記録を見た。
行の順番もまともだ。主語も消えていない。削っていいところと削ってはいけないところの区別が、ようやく人間の手で行われたらしい。
紙の上のまともな文字を見て、こんなに手が冷えるのかと思う。
破り捨てたい衝動がない。差し戻したい怒りもない。ただ、ずっと詰まっていた水路が急に開いたみたいに、胸の奥のどこかが気持ち悪く軋む。
「お嬢様のしたことが」
私はゆっくり言った。
「お嬢様のした順番で書かれています」
ロザリア様は返事をしなかった。
返事の代わりに、綴りの端を少しだけ強く押さえる。
その沈黙の脇から、気の抜けた声が差し込んだ。
「これは、なかなか見ものですね」
ユリウスだった。
面倒な監査から抜け出してきた役人みたいな、あの薄っぺらい仕草で両手を広げている。
「感動に水を差すなら、今すぐ沈めますよ」
私が言うと、ユリウスは肩を軽く揺らした。
「差していません。むしろ、よくここまで持ってきましたね」
綴りへ目を落とす。
「清書した連中の顔を見たかったですよ。いつもの棚へ押し込めようとしたら、後ろにあなたみたいな執念深い亡霊が立っていた。あれは、だいぶ筆が震えたでしょう」
趣味の悪い言い方だ。
だが、それで十分だった。
書記局の連中が困った。
棚に押し込めるための語が使えなかった。
今回は、そうとしか読めない。
ロザリア様は、そこでようやく顔を上げた。
「……困るわね」
「勝ったのに?」
私が聞くと、お嬢様はまだ綴りから目を離さない。
「こういうふうに残ると、今度は外が面倒でしょう」
その言葉に、ユリウスが少しだけ笑う。
「ええ。これまでの“高圧的な婚約候補”という帳簿は、もう使い物になりません」
声は軽いのに、言っていることは重い。
「書き換えられた物語を読まされる方々が、どんな顔をするのか。少し楽しみですね」
それだけ言って、ユリウスはそれ以上説明しなかった。
その方がよほど嫌だった。紙の流れを細かく教えられるより、次にどこがざわつくのかだけ示される方が、想像の余地が大きい。
ロザリア様は綴りを閉じるでもなく、開いた頁を見つめたままだった。
罠でも仕掛けられた書類を見る人の顔だ。喜ぶべきだと頭では分かっているのに、長いこと歪んだ帳簿ばかり見せられてきたせいで、まともな文字の受け取り方が分からない。
「嫌ではないわ」
小さな声だった。
「でも、慣れない」
「私もです」
それしか言えなかった。
綴りを閉じる。
紙の束が、前よりずっと重く感じる。
腹立たしさの重みではない。波紋の重みだ。この一冊で、どこまでの顔色が変わるのか。どこの机の上で、誰の予定表が狂うのか。
上等です。
次は、この真っ当すぎる記録を読んで顔を青くするのが、王宮のどなたかを確認しに行けばいい。
私は綴りを閉じた。静かな音がした。
獲物の名簿へ、ようやく一人目を書き込める時の音だった。




