第37話 お嬢様、そこは怒る前に指示です
行事本番の直前というのは、小さな綻びがいっせいに牙をむくものです。
会場の正面はまだ華やかでした。白布のかかった長卓、淡い花、磨かれた銀器。けれど裏へ回った途端、その上品さは紙のように薄くなります。
小皿の不足、配膳担当の遅れ。そんな瑣末なことより、私の目を引いたのは入口近くへずれたままの大きな花台でした。あれが倒れれば、奉仕祭は開始五分で祝福どころか事故処理になります。
そして、お嬢様も同じ場所を見ていました。
近くにいた下級生が盆を抱えたまま固まり、上級生は誰に何を頼むべきか分からず声だけを上げている。教師は来賓対応に取られて不在。人はいるのに、順番だけが消えていました。
その真ん中へ、ロザリアお嬢様が出ます。
空気がひとつ、冷えました。
ああ、誰かが刺される。そう身構えたのが、こちらにも伝わってきます。お嬢様は花台、小卓、盆を抱えた下級生、その順で視線を走らせ、閉じた扇の先を軽く持ち替えました。
「責任の話は後です」
高くはない声でした。それでも、ばらけていた視線がいっせいに集まる。
「先に不足分を数えなさい。泣くのは終わってからで結構。今は、何が足りないかだけを口にしなさい」
盆を抱えた下級生がびくりと肩を揺らします。
「あなた。小皿は何枚」
「じゅ、十枚です」
「焼き菓子は何卓分」
「三卓、です」
「では飾り皿を外して白皿で揃えなさい。見た目の贅沢より、数の整合の方が先です」
……飲み込んだ。
お嬢様はいま、刺し殺したいほど苛立っていたはずの相手へ、罵倒ではなく解決策を叩きつけたのです。
私はすぐ横から補います。
「装飾皿を下げて、同じ白皿で統一しましょう。並べ方を揃えれば崩れません」
下級生がはっとして頷く。
「あなたは二人連れて倉庫へ。枚数だけでなく、同色同型が何枚あるかまで見て戻りなさい」
「はい!」
走り出す足が、さっきまでと違いました。泣くための足ではなく、間に合わせるための足です。
お嬢様はもう次へ向いています。
「その花台、誰がここへ置いたの」
「わ、私は西側回廊の前に置いたつもりで」
「つもり、は結構。今あるのはここです」
ぴしゃりと切ったあと、扇の先で入口を示しました。
「中央から外しなさい。脇卓へ回す。左右対称は人が転ばなくなってから考えます」
「ですが、見栄えが」
「見栄えのために来賓を転ばせる気ですの?」
言われた上級生が息を呑み、そのまま花台へ駆け寄る。二人、三人と手が集まり、重たい台がゆっくり持ち上がりました。
同時に、お嬢様は小卓の位置を見て眉を寄せます。
「そこも詰まっていますわね。飲み物を置く卓を半歩下げなさい。奥の列を先に通す。盆を持っている方、反論は動いてから聞きます」
言い争いかけていた二人が、条件反射のように動きました。
次の瞬間です。
詰まっていた人の流れが、無理やり通された血管みたいに、するりと動き出したのは。
たった半歩。たったそれだけで、盆がぶつからない。裾が絡まない。入口で立ち往生していた列が、一本の線に沿って滑っていく。
便利な魔法ではありません。汗と癇癪と執念で押し通した、最適化の結果です。
「配膳担当が二人足りません!」
別の上級生が青い顔で飛び込んできました。
「一人は腹痛で下がって、もう一人は呼びに行ったきり……」
「代わりは」
「まだ、決まっていません」
「では今、決めます」
お嬢様の視線が会場を横切ります。
「そこの二人。花ではなく配膳へ。最初の二巡だけ回しなさい」
「わ、私たちがですか」
「読めますわね、配膳表」
「はい」
「なら足ります。完璧にやる必要はありません。止めないことの方が大事です」
私はすぐに続けました。
「最初の二巡だけで結構です。その間に本来の担当が戻れば引き継げます」
二人が顔を見合わせて走る。その背中を、お嬢様はもう見ていません。
「報告は短く。足りない物、人手、それだけでいいわ」
そこまで言って、お嬢様は自分で言葉を切り直しました。
「いいえ。物と人手で結構。動線は私が見ます」
その修正の速さに、背筋がぞくりとしました。
前なら勢いで全部を抱え込み、全部に棘を立てていたはずです。今日は違う。抱え込みかけた瞬間に、自分で切り分けている。しかも、現場が止まらない。
教師がひとり、来賓対応から戻ってきました。けれど目の前の動きを見た途端、口を挟み損ねた顔になります。
下級生が報告へ戻る。
「ロザリア様、小皿は八枚確保できました。残り二枚は同型がなく」
「中央卓の一品を減らして左右へ散らしなさい。高さを揃えれば足りなく見えません」
「はい!」
「雑に置けば目立ちます。置き直しは丁寧に」
「……はい!」
別の子が来る。
「花台、移しました。ただ脇卓の布が余ります」
「折り返して丈を揃えなさい。余りを隠すのではなく、最初からその長さだったように見せるの」
さらに別の子。
「配膳表、二巡目から戻した方が」
「ええ。最初の詰まりさえ抜ければ、それで勝ちです」
怖がっているだけの相手には、こんなふうに次々確認は来ません。叱られるだけだと思っている相手には、報告しか持ってこられない。けれど今、お嬢様の前へ集まってくるのは、答えを取りに来る顔でした。
その中で、ひとり下級生が言いよどみます。
「……すみません、私、最初に不足を隠してしまって」
「でしょうね」
お嬢様は容赦なく返しました。
「感心しません」
その子の肩が跳ねる。
「ただし今は、泣いている時間の方が邪魔です。終了後、記録を持って来なさい。叱るのはその時です」
「は、はい……!」
お嬢様の牙はそのままでした。少しも丸くなっていない。けれど今日は、むやみに人を裂くためではなく、膿んだ場所だけを切り開くために使われている。
よろしい。
これなら、あとでいくらでも記録の歪みを縫い直せます。
開始の鐘が近いことを告げる声が、廊下の向こうから聞こえました。ざわついていた会場が、ようやく一本の流れへまとまっていく。
白皿は所定の位置へ収まり、脇へ逃がした花台はむしろ動線を整え、小卓の列はもう人を詰まらせていません。
私は中央卓の高さを見て、布の折り返しを直し、配膳表の控えへ小さく修正を書き込みます。指先がやけに軽い。こういう時の私は、だいたい機嫌がいいのです。
その時、すぐ後ろを誰かが通り過ぎました。
「……今のやり取りは、記録に値するな」
低い独り言。
振り返るまでもありません。あの筆記好きの声音は一つしかない。ユリウス様でしょう。けれど私はそちらを見ませんでした。見る暇がなかったとも言えます。
今はまだ、紙を整える方が先です。
「リネット」
「はい」
「中央卓、菓子の高さが右だけ違うわ」
「すぐ直します」
「それと、配膳表の控え。最初の二巡だけ書き換えておいて」
「もう済ませました」
「結構」
その一言だけで、口元がゆるみそうになりました。
さて。舞台はどうにか持ちこたえました。
ここから先は、始まったあとに誰かが好き勝手な要約で汚さないよう、私の仕事です。
お嬢様が現場で引いた正解の線を、そのまま紙の上にも残さなければならない。
誰が何を見落とし、誰がどう立て直し、誰の指示で流れが戻ったのか。
その事実を、あとで誰にも都合よく書き換えさせないために。
私は配膳表の控えを胸に抱え直し、ペン先を確かめました。
まだ終わってなどいません。むしろ、ここからです。




