第36話 本番前ほど、人は雑になります
準備室へ入った瞬間、リネットは机の上の札束で眉間が痛くなった。
番号順に揃えておいたはずの順番札が、半端にずれたまま積まれている。乾ききらない糊の匂い。色布の切れ端。誰かが急いでめくった帳面の端。
そして、その札束の真ん中に、昨日回収したはずの旧版が一枚、平然と混じっていた。
「それ、私は聞いていません」
「でも昨日の時点で回したはずですわ」
「回ってきていないから困っているんです」
「案内札の差し替えは、そちらの担当でしょう?」
怒鳴り声ではない。もっと質が悪い。
机の端から端へ、責任だけを押しつけていく粘ついた声だ。自分の持ち場以外は一字たりとも触りたくないという逃げ腰が、気持ち悪いくらい透けて見える。
ロザリアはその机へまっすぐ歩いた。
「細かすぎます」
上級生の一人が、疲れを隠す気もなく言う。
「今それを言われても困ります。もう本番は明日なんです」
ロザリアは答えなかった。
札束から旧版を一枚引き抜き、その娘の目の前へ突き出す。
「これが明日、入口を三十分止める爆弾よ」
静かな声だった。
「来賓席の番号が一つずれれば、案内が止まる。止まれば後ろが詰まる。配布卓も巻き込んで、全員が揃って立ち往生。……それでも“細かい”と言い切るかしら」
相手の口が、きれいに閉じた。
「新版は左。旧版は右。混ざった束は全部ほどいて」
ロザリアはそのまま机を指で叩く。
「控え札の照合を先。飾り布は後ですわ」
「でも布の長さが」
「垂れ方が半寸ずれても人は死にません」
今度は視線だけで黙らせる。
「番号がずれれば流れが死ぬの。優先順位を間違えないで」
ぴたりと、手が止まる。
いや、止まったのは一瞬だけだった。
その次の瞬間、廊下から狂ったような靴音が飛び込んできた。
「控え札が一枚足りません!」
「新版の案内表と列番号が噛んでいなくて……!」
「補充箱の位置も昨日と違います!」
感情で揉めている暇は消えた。
報告の方が、ずっと性質の悪い悲鳴だったからだ。
「控え札が先です」
ロザリアの声が落ちる。
「列番号が狂えば入口から全部ずれる。最終版を出して」
リネットも横から拾う。
「旧版は私へ。照合済みは中央。勝手に束ね直した方、今すぐ手を止めてください」
「補充箱は!?」
「裏へ回しなさい」
ロザリアが即答した。
「入口に置く理由がないでしょう。見栄えより、手の届く位置が先ですわ」
準備室じゅうが一斉に動き出す。
札を分ける手。
控え札を机へ並べる音。
布をいったん抱え上げて、通路を空ける気配。
ついさっきまで文句を言っていた口が、今は指示を求めて金魚みたいに開いている。……ええ、そうでしょうとも。その無能な頭で、うちのお嬢様の正論という劇薬を、一滴も残さず飲み干しなさいな。
「来賓席四番、旧版です!」
「七番も!」
「補充箱、こちらへずらしました!」
「そのまま。案内札は壁際へ寄せて」
ロザリアの指示は短い。
「控え札は番号順に開いて置いて。探す時間がいちばん無駄よ」
半刻もかからず、崩れかけた準備室の流れが戻る。
戻したのは、言い訳ではない。お嬢様の一言ずつだ。
その場の修正がひと段落した頃、リネットは控え札の束を抱えたまま廊下へ出た。ロザリアもすぐ後ろについてくる。
「今の言い方」
リネットは歩きながら言う。
「医療器具ではなく、ほぼ処刑具でしたわ」
ロザリアがじろりと見る。
「まだ文句があるの」
「あります」
リネットは真顔だった。
「旧版の札を爆弾扱いしたところまでは満点です。その後の“優先順位を間違えないで”に、だいぶ殺意が乗りました」
「乗るでしょうよ。無能だったもの」
「そこを純粋な効率に偽装してください」
「あなた、本当に感じが悪いわね」
「お嬢様ほどでは」
リネットはさらりと返した。
「全部は止めません。最初の一太刀だけ、記録に残しても問題ない形へ整えていただければ」
ロザリアは鼻で息を吐く。
「分かっているわ。でも腹立たしいものは腹立たしいのよ」
「ええ」
「雑な仕事を見ると、黙っていられないの」
「存じております」
そこで足音がした。
補助生徒が一人、顔色をなくして走ってくる。
「ロザリア様、リネット様!」
「走らないで、と言いたいところだけれど今は言わないわ。何」
ロザリアの返しは速かった。少なくとも、相手を最初の一言で凍らせてはいない。上出来だ。
補助生徒は肩で息をしながら言った。
「本番当日の朝、王宮側の随行人数が増えるそうです! 来賓席の配置変更が入ります!」
リネットの頭の中で、座席表が一気に組み替わる。
通路幅。札の差し替え。案内の持ち場。控え札の再配置。
面倒だが、まだ処理できる。
だが補助生徒の声は、まだ止まらなかった。
「それと……」
その言い淀み方が嫌だった。
数字より先に、匂いで分かる類の嫌さだ。
「会場図を確認しようとしたら、導線札が一部、昨日の位置へ戻っていて……」
ロザリアが、そこで初めて足を止めた。
補助生徒の手元の簡易図を、リネットは半ば奪うように受け取る。
入口脇。配布卓の手前。補充の抜け道。
昨日、半歩だけずらしたはずの札が、きれいに元へ戻されている。
ただの置き忘れではない。
直した場所を知っている人間が、直した順番まで知ったうえで、戻している。
「……誰が触ったの」
ロザリアの声が低く落ちる。
その声で、廊下の温度が数度下がった。
なるほど。
不手際ではなく、悪意の混入。
リネットは控え札の余白へ、短く一行だけ刻んだ。
導線札復元者。要監査。廃棄候補。




