第33話 優しい言葉は、準備しておかないと出てきません
奉仕祭の会議から戻った夕方、机の上には分担表ではなく、真っ白な紙が一枚だけ置かれていた。
その白紙を、ロザリア様は呪いの魔導書でも見るみたいな目で見下ろしている。
「……まだやるの?」
「やります」
私は即答した。
「昼の部は実務、夜の部は言葉です」
「夜の部って何よ」
「本番用の事故防止訓練です」
「嫌な単語しか聞こえないのだけれど」
白紙の上には、見出しだけが整然と書かれていた。
本番用 言い換え手順
ロザリア様はそれを指先でつついた。
「屈辱だわ」
「必要経費です」
「私は別に、言葉が出ないわけではないのよ」
「存じております」
私は紙を引き寄せた。
「問題は、最初に何が飛び出すかです」
「ひどい侍女ね」
「正確な侍女です」
ロザリア様は椅子に深く座り直した。逃げる気はないらしい。そこは偉い。
「では始めます。
本番当日、補充箱を抱えた下級生が慌てて来客導線へ入りかけました。お嬢様、何と仰いますか」
「走らないでちょうだい。危険でしょう」
「はい。不合格です」
「早いわね!?」
「早いです。相手は“怒られた”しか受け取れません」
「怒られているのだから当然ではなくて?」
「当然でも、使えません」
私は淡々と答えた。
「下級生をそこで固めると、その後の作業効率が落ちます。泣かせればもっと落ちる。泣き止ませる時間は無駄です」
「ひどい理屈」
「実務です」
私は指で紙を二度叩いた。
「先に怪我。次に停止。叱るのはそのあと」
ロザリア様は不満そうに考え込む。
「……止まって。怪我はない?」
「はい」
「その箱は後です。こちらへ寄りなさい」
「合格ラインです」
「その言い方、腹が立つのよ」
「本番で凍結事故を起こさない、という意味では上出来です」
ロザリア様は、いかにも納得していない顔で頬を引きつらせたが、反論はしなかった。
「次。開始五分前です。飾りつけ班がまだ布の位置でもめています」
「まだ終わっていないの?」
即答だった。
次の瞬間、ご本人で止まる。
「……いえ、違うわね。あと何が残っているの」
私は少しだけ目を上げた。
今の修正は早かった。
「続けてください」
「五分で終わらないものは切りなさい。見栄えより開始時刻が先よ」
「それなら通ります」
「今のは?」
「合格です」
「あなたの採点、信用できないのよ」
私は紙の端へ短く書いた。
遅延時 残作業→優先順位→切る
「次」
私は三つ目の想定を読み上げようとした。
「分担の偏りです。同じ生徒に地味な仕事が」
「数字を先に、でしょう?」
ロザリア様が食い気味に言った。
「一人に何件集まっているか、まず数えさせる。感情より配分。そう言いたいのでしょう」
私は少しだけ黙った。
ロザリア様がそこで、ほんの少し勝ち誇った顔をする。
「……分かっているわよ、それくらい」
「失礼いたしました」
「何よ、その“少し見直しました”みたいな沈黙は」
「口にはしておりません」
「顔に出ているのよ」
私は咳払いを一つした。
「では、改めて。お嬢様」
「配分に偏りがあります。まず枚数を数えてちょうだい」
ロザリア様はすらすら言う。
「その方へ三件集まっています。善意の顔で押しつけるのはおやめなさい」
少し間を置いて、
「……叱責は後で受け取ります。今は配分を戻して」
そこで、ご本人が少し首を傾げた。
「最後はいらなかったかしら」
「ええ、少し芝居がかっています」
「感じが悪いわね」
「でも前半はかなり良いです」
「“かなり”禁止」
「では、事故率一割未満」
「もっと嫌」
その後もしばらく、私は場面だけを投げた。
受付で来賓が二組重なった時。
案内札が一枚足りなくなった時。
片付け班が一人消えた時。
ロザリア様は最初の一言で軽く刺し、二言目で止まり、三言目で言い直す。
前なら一言目で全員凍結、そのまま終了だった。今は違う。途中で自分で気づける。
そして、四つ目の紙で、ようやくお嬢様が本気で嫌そうな顔になった。
「本番中、下級生が案内札を落として、半分泣きそうです。責任感が強く、もう自分で自分を責めています。お嬢様、何と」
「泣いても仕方がないでしょう」
「はい、不採用」
「最後まで言わせなさいよ」
「言い終わる前に被害が確定しましたので」
私は容赦なく返した。
「この場面で必要なのは慰めではありません。復旧です」
「……慰めではないの?」
「慰めだけでは復旧しません」
私は淡々と続けた。
「相手に“まだ立て直せる”と認識させれば、作業へ戻れます。泣き続けると手が止まる。手が止まると周囲も巻き込みます。だから先に、復旧可能だと分からせる」
「優しさの理由が最低なのよ」
「最高に効率的です」
ロザリア様は紙を睨んだ。
「……怪我はない?」
「はい」
「札は後で拾えます。まず落ち着きなさい」
ここまではすぐ出た。
「今の分は立て直せるわ」
その先で少しだけ間が空く。
「次からは、一人で抱え込まないこと」
私はすぐには返事をしなかった。
「何よ」
「その言い方なら、相手の離職を防げます」
「離職って何」
「心が仕事から抜けることです」
「本当に最低な侍女ね」
「ですが有効です」
ロザリア様は額に手をやる代わりに、紙の端を爪の先で軽く叩いた。
不満と納得が半分ずつ混ざった時の癖だ。
「では最後です」
私は新しい紙を差し出す。
「受付が混乱。補充係は泣きそう。開始時刻も押しています。お嬢様、どうぞ」
ロザリア様は、今度はすぐに答えなかった。
視線が机を滑る。
昼間の会議。さっきまでの白紙。私の書いた短い語。
怪我。状況。配分。優先順位。
「怪我はない?」
まずそこ。
「泣くのは後です。今は何が足りないか先に言いなさい」
硬い。だが順番がいい。
「補充は私が回します。あなたは持ち場へ戻って」
そこで一度だけ息を継いで、
「責めるのは後でします。今は立て直す方が先よ」
言い終えたあと、ロザリア様は私を見た。
採点待ちの顔が、ひどく不本意そうで、少しだけ面白い。
「どう」
「合格です」
「本当に?」
「ええ。しかも実戦投入可能」
「……珍しく、はっきり言うのね」
「今のは良かったです」
私は頷いた。
「正しさを相手の頭へ叩きつける前に、足場を返している」
「足場」
「ええ。相手が立てる場所です」
ロザリア様はその言葉をしばらく反芻していた。
それから、白紙を引き寄せる。
「先に怪我」
一行。
「先に状況」
もう一行。
「先に相手の立場」
そこで止まり、少しだけ目を細める。
「……順番の問題なのね」
「はい」
「怒らないことが正解なのではなく」
「ええ」
「先に、相手が動ける場所を作る」
「その通りです」
ロザリア様はさらに書き足した。
怪我
状況
指示
あとで叱る
「まったく上品ではないわね」
「でも使えます」
「あなた、本当にこういう手順が好きなのね」
「好きではありません。事故が嫌いなだけです」
「同じよ」
「違います」
ロザリア様は紙を半分に折った。
持ち歩く気らしい。よろしい。大変よろしい。
「リネット」
「はい」
「本番で私が最初の一言を間違えたら」
「速やかに修正いたします」
「迷いがないのね」
「昼の部の特訓は以上ですから」
「……昼の部?」
私は静かに紙束をまとめた。
「はい。さて、お嬢様」
「嫌な予感しかしないのだけれど」
「大正解です」
私は机の端から、昼間に印をつけた予算配分表を引き寄せた。
「次は夜の部です。布装飾に偏った予算の死体を解剖します」
ロザリア様が本気で青ざめる。
「今から!?」
「今からです」
「あなた本当に容赦がないわね」
「事故は待ってくれませんので」
「私は寝たいのだけれど」
「その前に、奉仕祭の爆心地をもう一つ潰します」
私は予算表の余白を、静かに指で叩いた。
「さあ、お嬢様。次は数字です」




