第34話 フォルナ様は、支えられる側にも慣れてください
準備室の空気は、浮ついた色布の匂いと、片づかない紙束の湿っぽい気配で淀んでいた。
長机のこちら側では飾り布の端をどこで折るかでもめていて、向こう側では順番札の束が、誰にも責任を持たれないまま増えている。
そして、その全部のしわ寄せが、また一人の細い腕に乗っていた。
「フォルナ様、こちらの順番札、番号順に束ね直していただけます?」
「来賓席の控え札も、ついでにお願いしてよろしいかしら」
「それからこの帳面、確認だけしていただければ」
ミレイユは笑っていた。
笑っているだけで、全然足りていない。
札の束。控え札。帳面。
腕の中の積み上がり方が、もう駄目だ。ちょっと誰かが肩をぶつければ崩れる。
私は手元の備品表から顔を上げた。案の定、その半歩先でお嬢様がもう見ている。
ロザリア様はすぐ怒鳴らなかった。
まず、ミレイユの腕の中の量を見る。
次に、頼んでいる令嬢たちの空いた手を見る。
それから歩いた。
「フォルナ様」
ミレイユが振り向く。
「は、はい」
「手は痛めていなくて?」
その入りに、私は少しだけ目を上げた。
ミレイユも驚いたらしい。
目を丸くしたまま、小さく首を振る。
「だ、大丈夫です」
「そう」
ロザリア様はそのまま一歩寄り、腕の中の帳面の端を指先で軽く押した。
ずる、と順番札が一束、危うく滑った。
ミレイユが慌てて抱え直す。その拍子に控え札まで傾く。
「ほら」
ロザリア様の声は静かだった。
「もう崩れているでしょう」
準備室のあちこちで、私語が途切れた。
「その脆弱な積み方で、“できます”なんて言わないでちょうだい」
ロザリア様は、机の上の札の束と、ミレイユの腕の中を見比べる。
「全部引き受けるのは美徳ではなくてよ」
そこで一拍置いた。
「見た目だけ丸く収まっても、あとで一人だけ潰れるのなら、ただの無能な配分ですわ」
刺さる。けれど、今日はきちんと届く刺さり方だった。
「で、でも」
頼みごとをしていた令嬢の一人が、気まずそうに口を開く。
「フォルナ様は丁寧ですし……」
「丁寧な人間にだけ雑務を押しつけるのを、合理化と呼ぶつもり?」
ロザリア様は即座に返した。
「それとも、空いた手は飾り布を撫でるために取ってあるのかしら」
数人が反射的に自分の手元を見る。
そこに何もないことに、自分で気づいた顔だった。
私はそこで初めて口を挟んだ。
「はい、査定が入りました」
にこやかに言う。
「皆さま、自分の空いた手を見なさいませ。今すぐその札を三割ずつ引き取れば、お嬢様の怒りはこれ以上、上積みされません」
「リネット」
「事実ですので」
私は平然と返す。
「フォルナ様がお一人で抱え込むと、あとで混ざる、落とす、やり直す。その監査まで含めれば、全員が損です」
それでようやく、令嬢たちが動いた。
「では控え札はこちらで」
「順番札、半分持ちますわ」
「帳面は机へ置いて確認した方が……」
さっきまで“少しだけ”を押しつけていた手が、今度は少しずつ伸びてくる。
遅い。でも、ゼロよりはましだ。
ミレイユは腕の中の重みが減っていくのを、まだ半信半疑みたいな顔で見ていた。
ロザリア様はそこでもう一歩踏み込む。
「フォルナ様」
「は、はい」
「支える側ばかりでいるのは、おやめなさい」
ロザリア様はまっすぐ言った。
「あなたが倒れたら、後ろで帳尻を合わせる人間が増えるだけです」
まだ少し硬い。けれど、その硬さの下にあるものは分かる。
「助けを受けるのも仕事のうちでしょう」
そこまで言って、ほんの一瞬だけ、お嬢様の視線が私へ滑った。
あれは確認だ。これで合っているのか、と。
私は何も言わなかった。
その代わり、書類を一枚揃える手つきだけで続きを促す。
「“いい人”でいるために損をするのは」
ロザリア様は小さく息を継ぎ、
「あまり賢くないわ」
ミレイユは、すぐには答えられなかった。
腕の中から札が減り、机の上へ帳面が置かれ、ようやく両手が空く。
その軽さに、自分で戸惑っているみたいな顔だ。
「……私」
ようやく出た声は、少しかすれていた。
「そんなに、分かりやすかったですか」
「ええ」
ロザリア様はあっさり頷く。
「断れない時の顔をしていたもの」
ミレイユは、まるで自分の帳簿の計算違いを大勢の前で指摘された会計士みたいな、ひどく居心地の悪い沈黙に落ちた。
でも、逃げなかった。
「私……」
唇が少しだけ震える。
「ロザリア様は、私のことを嫌っておられるのだと思っていました」
準備室が静かになる。
ロザリア様は、ほんの少しだけ目を細めた。
それから、いつもの、あの高いところから見下ろすみたいな顔に戻る。
「嫌いな人間に、わざわざ不備を教えるほど、わたくしは慈善事業に興味はありませんわ」
淡々と言う。
「自滅するなら勝手になさい。ただ、わたくしの視界の隅で札を散らかされるのが耐えられないだけです」
たいへんロザリア様らしい言い方だった。
不器用で、合理的で、優しさがかなり鋭利だ。
でも、その場にいた誰も、今の言葉を本気で冷たいとは受け取らなかったと思う。
ミレイユは小さく息を吐いた。
さっきまで肩に入っていた力が、ようやく抜けたのが見て分かる。
「……では」
恐る恐る、でも前よりずっと真っ直ぐに訊く。
「ちゃんと、見ていてくださったんですね」
ロザリア様は一瞬だけ黙った。
また私を見るかと思ったが、見なかった。自分で答える気らしい。
「目に入ったから言っただけよ」
ロザリア様は言う。
「次からは、“持てません”と先におっしゃい」
「……はい」
「それで角が立つ相手なら、最初から大した配分をしていない人間です」
「はい」
今度の返事は、前みたいな曖昧な笑顔つきではなかった。
まだ少し頼りない。でも、自分の重さを自分で認めた声だった。
私はそれを聞きながら、机の上に残った順番札の束を見下ろした。
よろしい。
お嬢様が“いい人”をやめる練習をしてくださるのは大変結構。ミレイユ様が支えられる側へ一歩進むのも、もちろん結構。
ただし。
この机の上に残った、番号順もいい加減な札の束。
これの監査が終わるまで、今夜は誰も帰しませんわよ。




