第30話 侍女は、お嬢様の役を取り返したい
寮の居間には、死んだインクの匂いが澱んでいた。
机の上には、書記局から持ち帰った控え、控え札の写し、走り書きのメモ。几帳面に整えられた紙の山。中身がここまで腐っているくせに、体裁だけはきれいだ。その欺瞞が、吐き気がするほど癪に障る。
「……それで?」
ロザリア様が先に口を開いた。
椅子に浅く腰かけたまま、机上の綴りを見ている。静かな顔だ。静かすぎる。こういう時のお嬢様は、怒るより先に飲み込む。
「仕組みの説明は省きます」
私は一番上の綴りを指で押さえた。
「要するに、お嬢様は最初から『悪役』という出荷先が決まったベルトコンベアに乗せられていました」
ロザリア様の視線が、ほんの少しだけ上がる。
「現場、補助生徒、教師、書記局。関わった全員の、怠慢と手抜きと無意識の加担。その積み重ねです」
「ずいぶん嫌な言い方ね」
「嫌な話ですから」
私は即答した。
「お嬢様が何を言ったかより、お嬢様がどういう人に見えると都合がいいか。そちらが先に決まっていたんです」
ロザリア様はしばらく黙っていた。
やがて、自分の名前が入った控えを一枚引き寄せる。指先で紙の端をなぞり、そこで止まった。
「……最初から、わたくしの名前は毒入りのインクで書かれていたのね」
小さな声だった。
「それなら、どんなに言葉を尽くしても、滲んで消えるだけでしょうね」
それだけで十分だった。
長く語らない。嘆かない。
なのに、その一言で、どれだけ慣れてしまっているのかが分かる。そこがいちばん痛い。
「いいえ」
私は間を置かずに返した。
ロザリア様がこちらを見る。
「消えません」
「そう言うと思ったわ」
「ええ。言います」
机に手をつく。
「お嬢様は悪役ではありません。悪役に見えるよう、雑に梱包されていただけです」
「リネット」
「帳簿の不備です。しかも相当ひどい」
私は綴りの角を揃えた。
「なら、差し戻すだけです」
ロザリア様は少しだけ目を細めた。
「簡単に言うのね」
「簡単ではありません」
「では、なぜそんな顔ができるの」
「数字と事実に裏切りはありません」
私は答えた。
「失敗するのは、感情を計算式に混ぜる無能だけです」
その言い方に、ロザリア様は呆れたように息をつく。
「本当に面倒ね」
「今さらです」
私は机の上の紙束を三つに分けるふりをして、結局すべてを一つの山に戻した。
「順番に片づけます。まず、この嘘に頷いた承認印の筆跡を洗う。教師摘要の癖を拾う。王宮へ流れる評価書の文面とインクを照合する。誰がどこで、お嬢様を“それらしく”見せる余計な手を入れたのか、全部です」
ロザリア様の眉が上がる。
「全部?」
「全部です」
「あなた、今夜は寝る気がないの?」
「お嬢様もです」
「……は?」
「今夜は眠らせませんわよ」
私は真顔で言った。
「まずは、あの無能な殿下の読み間違い一覧から検品します。どこで何を見落とし、どの言葉を勝手に膨らませ、どの場面で都合よく目を逸らしたのか。基礎資料として必要です」
「必要なのは分かるけれど、言い方というものがあるでしょう」
「ありません」
「あるのよ」
「では柔らかく言い直します」
一息置いて、にこりともせず続ける。
「殿下の勘違い一覧を、今夜中に作成いたします」
「全然柔らかくなっていないじゃない」
少しだけ、部屋の空気がほどけた。
ロザリア様はそれでもすぐに笑わず、私を見たまま言う。
「……役を変えるのではないのね」
「変えません」
「おとなしく、愛想よく、誰にでも好かれる娘のふりをしろという話でもなく」
「まったく違います」
「そう」
そこで私は、机の上の紙から手を離した。
「役を変えるのではありません」
まっすぐロザリア様を見る。
「お嬢様の役そのものを、取り返すんです」
ロザリア様は、すぐには返事をしなかった。
その代わり、縋る場所を探すみたいに、自分の袖口を指で強く握る。珍しい癖だった。私は気づかないふりをして、散った紙をもう一度揃えた。
「……大きく出るのね」
「帳簿を正しい棚へ戻すだけです」
「その言い方、好きね」
「好きではありません。必要なだけです」
私は綴りの端をぴたりと合わせる。
「お嬢様を悪役の棚へ勝手に突っ込んだ連中がいる。なら、そこから引きずり出して、本来あるべき場所へ戻す」
「簡単ではないわ」
「知っています」
「相手は一人ではないのよ」
「ええ」
「書記局も、教師も、学園の空気も、王宮側の目もある」
「全部まとめて監査対象です」
ロザリア様は、そこでようやく小さく口元を緩めた。
困ったような、呆れたような、でも少しだけ助かったみたいな顔だった。
「……本当に、面倒な侍女だこと」
「光栄です」
「それに、ひどくうるさい」
「仕事ですので」
「そういうところが面倒なのよ」
「承知しております」
ロザリア様は袖口から手を離し、机の上の紙を一枚取った。
「では、その“読み間違い一覧”とやらを見せなさい」
「まだ下書きです」
「下書きで結構」
「かなり分厚いですよ」
「あなたが作るものだもの。今さらでしょう」
「ええ。今さらです」
私は新しい紙を引き寄せ、見出しを書いた。
アルベルト殿下 読み間違い一覧
その下へ、赤と青の印を入れる欄を作る。
殿下の勘違い。筆記者の悪意。教師の怠慢。書記局の整形。
今夜は長くなる。
けれど、もう迷いはなかった。
お嬢様の言葉だけを守るのでは足りない。
お嬢様の強さが、正当な強さとして残る形まで、こちらで設計し直す。
私はペン先を整え、次の行へ書き足す。
承認印照合。摘要語彙の偏り。王宮評価書流入経路。
それから、ほんの少しだけ口元を上げた。
「さて、お嬢様。まずは殿下の無能さから、一緒に仕分けしてまいりましょう」
第3章までお読みいただき、ありがとうございます。
この章では、リネットが「その場を切り抜ける侍女」から、記録や印象の流れそのものを見に行く側へ少し進みました。
ロザリアがなぜあのように見られてきたのか、その輪郭がようやく見え始めた章でもあります。
次章では、学園の中だけでなく、もう少し外側の流れにも踏み込んでいく予定です。
引き続き、主従のやり取りを楽しんでいただけましたら嬉しいです。
いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。




