こういうやつ
「・・・」
「・・・」
部屋に残された俺と景綱さんは二人で景虎が出て行った障子、そしてその先に広がる小さな中庭を、少なくとも俺はただ茫然と見ながら、しばらくの間固まっていた。
「御大将が悪い、おかしい、それは誰が見てもそうだったでしょうね」
しばしの間続いた無言の時、先にこの重苦しい空気を破ったのは景綱さんの方だった。
「御大将の言葉、行動、どちらも普段の御大将とは明らかに違いました」
そして重苦しい空気を消してくれた代わりに、俺の心をぎゅうぎゅうと締め付けてくる。
景虎の方がおかしかった、確かにそう言ってはいるが、さすがにその言葉をそのまま受け取れるほど今の俺はのんきではない。
この部屋を出ていった時の景虎のことを思い出せば、夫としてのんきにしてるのは、それこそおかしいとしか思えない。
「だからこそ、夫であるあなたが、何かしてあげるべきだったのではありませんか?」
おおよそ予想通りの言葉がきた。
口調はいたって優しく、諭すように。しかし俺にはこれまでになく、景綱さんの言葉が強く鋭利なものに聞こえ、事実俺の心臓の辺りはずきずきと痛みを訴えた。
「情けないことに、こういう経験が全くない俺には、いったいどうしたらいいのか、わかりません」
実に情けない、奥さんの様子が明らかにおかしいって言うのに、やるべきことが全く分からないとは。
今すぐに後を追いかけて声をかければいいのか、それとも今すぐではなく、いくらか時間をおいてから声をかけた方が良いのか、はたまたそのどちらでもなく、景虎が自分で何とかするのを待った方がいいのか、俺には全く分からない。
そんな思いが顔に出ていたのだろう、先ほどの言葉と合わせて景綱さんが、静かな鬼のような形相で声をかけてきた。
「それで、貴久殿はこのまま御大将を放っておくのですか?」
「まさか」
そんなはずはない、どうしたらいいのかなんてわからないが、どうしたいかならよくわかる。
「景綱さん、俺ちょっと行かなきゃいけないところがあるんで、失礼します」
景綱さんの返事も聞かずに、俺は景虎の後を追って部屋を飛び出した。
「ええいくそ、走ってはいないと思っていたんだけどな」
景虎を追って直江屋敷を飛び出した・・・そう飛び出してしまった。
周りを見回して目につくには、城下の町まで続いている一本の道とその両側にそびえたつ木、そして草くらいだ。
俺と景綱さんは何も何分も話していたわけではない、長くても一分話していないはずだ。それなのに、俺は屋敷を飛び出しても景虎に追いつかなかった。
「走ったとして、いったいどこに行った」
様子はおかしかった、だから走っていてもおかしくはない、だがそうだとすると、俺が一体どこに行けばいいのかが全く分からない。
景虎は頭を冷やすと言っていたのだから、春日山城や自分の屋敷、俺たちの住んでいる長屋などの自分のことをよく知っている人がいるところに行くなんてことはないだろう。
先の三つを除いて考えると、俺が思いつくのはたったの二か所だけだ。
一か所目は、俺たちの思い出の茶屋。あそこは言っちゃ悪いが普段はそんなに客が入らないし、俺たちがあんなことをして以来、普通の民草にはなおさら入りづらい場所となって客足が遠のいているそうだから人目を気にしなくてすむ。俺たちが旅から帰って来た時にもいたところだし、結構頻繁に訪れていることも予想できる。
二か所目は、俺と景虎が初めて会ったあの場所。あそこはそもそも人があまり通らないし、町中と違って周りに人がいなくて本当に静かだから、一人で頭を冷やすには割とうってつけなのかもしれない。つい先日も行ったばかりだが、それだけに景虎にとってあの場所がどれほど大切な場所なのか思い知ったような気がする。
あと行きそうと言うだけなら春日山の城下町一帯を挙げてもいいのだが、そんなところをしらみつぶしに全部見て回ってもすれ違いになったりするかもしれない、そもそもいなかったりしたら悲惨だ。
「まずは茶屋にしておくか」
そこにいるかどうかは分からないが、初めて会った場所に行っているのなら、道は一本道だ、茶屋を覗いてからならどれだけ景虎が早く帰ってきても帰りで道で鉢合わせるはずだ。
「何急いでるの?」
そんなことを考えながら春日山を下っていると不意に声をかけられた。
声のした方に目を向けてみれば、そこには呆れたような顔をしている向日葵がいた。
「朝になっても帰ってこないから心配した」
心配していたにしては随分と呆れたような顔をしてくれているな。
「心配かけてすまない、でもちょっと急いでいるんだ。説教なら帰ってから聞くから今は行かせてくれ」
景虎のことが気になる、普段通りの向日葵を見たからかさらに普段とは違った景虎のことが気になって仕方がない。
だから俺はそれだけ言い残して茶屋に向かって走り出した。
「あいつならあっち」
「え?」
そう言って向日葵が指差したのは麓の城下町ではなく森の方だった。
「さっきあいつが変な顔しながら走って行った」
指差しているのは道ではなく、すでにほとんどの葉を落として森の中だった。
「・・・だから、呆れたような顔をしているのか」
恐らく、向日葵はその変な顔をして走って行った景虎と、その後を追いかけている俺を見つけておおよそのことを察しているのだろう。
「さっさと行って終わらせて来い。そしたらあんたも心置きなく私といちゃいちゃできる」
言っていることはあれだし、きっと今でも景虎のことは嫌っているのだろう、わざわざ使う必要はないとはいえ、帰って来てからもついぞ向日葵の口から景虎という名前は聞いたことがない。
「いちゃいちゃはしないかもしれないが、まあ一緒にお昼寝なりお散歩なりするとしますか」
どうせ向日葵だっていちゃいちゃと言うよりもこんな感じのことがお望みだろう。やりすぎるときはやりすぎるが、だいたいはこっちから迫れば簡単なことで満足してしまう可愛い向日葵ちゃんなのだ。
「それとも、向日葵としては昨晩みたいなことがしたいのかな?」
とりあえず景虎の居場所が分かって安心したのだろうか、少々冗談を言う余裕が出てきた。
「なっ! ・・・な、なな・・・ち・・・ちがわい! 私があいつの居場所を教えたのは貴久と祝言を挙げるため! 貴久があいつの許しがないと駄目だってこと言っていたから仕方がなくだから! わかったならさっさと行ってなんとかしてこい!」
目的地、景虎のいる場所は分かっている。向日葵の指差した森の中をまっすぐにつっきて行くとどのあたりに出るのか、だいたいわかる。景虎がいるのは、間違いなく俺たちが初めて会ったあの場所だ、そうに違いない。
だから走り出した、向日葵が恐ろしい顔で拳を振り上げたから、俺は急いで向日葵の指差した森の中へ走って行った。
・・・向日葵が恐ろしい顔で拳を振り上げたから・・・だからだ。
「はぁ・・・はぁ・・・」
少しばかり息が苦しい。当たり前だ、全力で山の中を走ってきたのだから。
軽く火照った私の体をなでる風はとても冷たい、もう冬だ。
特に何も考えずに走って来た、考えたのは走り始めた最初の一瞬だけ。
あの場所に、あいつと初めて会った、会えた、あの場所に行きたい、そう思った。
あとは体が勝手にその場所まで連れて行ってくれた。
「はぁ・・・はー・・・すー・・・はー」
息も整ってきた。貴久と違ってやわな鍛え方なんてしていないのだ、このくらいの運動で疲れたりしていられない。
「・・・あいつのことを鍛えていたのは・・・私か」
あいつが旅先で何かしていたのなら知らないが、帰って来てから見たあいつの体は特に鍛えた跡も何もなかった。少しばかり痩せていて、引き締まっていたが、それはあれだけの長旅をしたのだから当然だろう。だから、あいつがまともに体を鍛えたのは私とした剣の鍛練くらいのものだろう。
「やわなのは・・・私のせいか」
いけない、また悪い方悪い方へと考え方が偏ってきてしまっている、とてもいけない傾向だ。
こんな風に、いろいろと悪い方へと考え始めるようになってしまったのは、あいつが播州へと旅立ってから少し経った頃だった。
最初は違ったのだ、ただただあいつの身が心配だった、それだけだったのだ。
それだけならよかったと言うわけでもないのだが、とにかく、一度心配を始めたらとにかくいろいろなことが心配になって来た。変なやつらに絡まれてはいないだろうか? まさか怪我でもしていないだろうか? あいつは誰にだって優しいから、きっと旅先でも女に優しくして、その後始末に苦労しているのではないだろうか・・・私との約束のために。
そして案の定、段蔵から旅のおおよその話を聞いてみれば驚かされたものだ。
自分から寄りたいと言っていた近江でいきなり次期当主を引っかけて、帰りに近江によるまで何ともできなかった。京では下郎に絡まれ、将軍の目に留まり、堺でも似たような感じで下郎に絡まれている。
そして段蔵だからだろうか、隠さずに話してくれたが、あいつは一度向日葵と祝言の約束をしたと言う。
「・・・私がいけないのか」
でもあいつはあろうことか、一度した祝言の約束を反故にしたと言う。理由は分からないと報告を受けた。
でも私にはわかる、あいつは間違いなく私との約束のために、向日葵との約束を反故にしたのだ。
あいつは向日葵のことを憎からず・・・いや、それどころかかなり好いていたはずだ、小さい子が可愛いとかそんな感じではなく、間違いなく女として好いていたはずだ。
それなのに・・・。
「私が・・・私があの二人の幸せを奪ったんだ」
して良いことではないし、したいことでもない。私はただ、私の周りにいる人だけでもいいから、ほんのわずかな人たちだけでも助けたい幸せにしたい、そう思っていたはずなのに・・・。
私がしたこととは何だろう、最も近く、夫のためにしてあげられたこととは。
「・・・」
本当に、何だろうか。
私はもらってばかりだ。初めて会ったあの時から。
貴久と言う最愛の夫をもらった。賑やかな仲間をもらった。佐渡の金山をもらった。武田との友好を取り付けた、このままいけばもうぐ北条とも結べることだろう。それから・・・幸せな日々を貰った。
もらってばかりだ。それなのに、私が貴久のためにしてあげられたこととはいったい何なのだろう。
無理やり草履取りにし、言葉で丸め込んで夫にし、私が自分で何とかしろと言ってしまったがために嫁を増やさせてしまい負担を増やした。武田と北条との戦にも巻き込み、北条に攫われた。旅に出れば愛する人を私のせいで嫁にできず、旅の目的であった小寺との一時も私との約束のために早々に切り上げさせてしまった。帰りには織田につかまってひどい目にあい、故郷だと言うのにまた長居はできなかった、これもまた織田との関係を恐れたから。
いったいいくつ、私はあいつの幸せを壊したのだろうか。
そしてまた今、幸せと呼ぶほどのことではないのかもしれないが、また一つ、私はあいつに迷惑を、苦労を掛けている。
あいつを景綱と飲ませたのは私だ。景綱と飲めばどうなるのか、だいたいの予想はついていた。
結果として景綱に踊らされただけだが、二日酔いでふらふらだったあいつに膝枕をした。
・・・そしてその後、私は逃げ出した。
考えなくてもわかってしまう、だってあいつは・・・。
「景虎!」
こういうやつなのだから。
日は頂点から少し傾いた位置にある。




