口は禍の元
朝、実にすがすがしい。
朝起きて、日光を浴び、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んで、また一日を元気に過ごす・・・実にいい日になることだろう。
実際こっちに来てからの俺は、ほぼ毎日それができていて、いい毎日を送っていた。
草履取りの頃に朝早く起きる習慣はついたし、仮に起きられない時が合っても、その時はとらか向日葵が起こしてくれた。
「・・・」
だから、俺が今こうして、ぱっと起きてみたらお日様が頂点にあったとかそう言うことが起こるわけがないのだ。
青い空と白い雲、輝く太陽、今の俺には全く持って似つかわしくない実にすがすがしい空だ。
そんな空を呆然と見つめながら俺は思った。
「・・・夢か」
そう、これは夢なのだ、夢に決まっている。
「貴久殿、随分と遅いお目覚めですね」
間抜けな顔で蒼天を仰ぐ俺に向かってにこやかに声をかけてくる景綱さん。そのにこやかな顔には若干の恐ろしさを覚えた。
「頭、痛くないですか?」
「・・・痛いです」
わかってはいる、二日酔いだ。
起きたその瞬間から頭は痛いしなんとなく目眩はするし吐き気もするしで体調は最悪もいいところだ。目の前にあると言うのに、一生手の届かない青空を見ているとむかついて余計に気分が悪くなる。
「立っていて倒れたひょうしに頭でも打ったりしたら大変です、どうぞこちらでお休みください」
そう言って俺がさっきまで寝ていた、というよりも倒れていた部屋へ戻ることを進めてくる景綱さん。
「・・・親切はありがたいんですけど・・・帰ります、長屋に」
何となく、このままここにいるとまた気絶するまで飲まされそうな気がした、だからもうここにはいたくない。
「帰れるのですか?」
まあ自力では帰れないかもしれないな。
「そこが困りどころ・・・」
くらっと来た。目の前がぼやけて足元がおぼつかなくなった。
「ほらほら、そんな状態でお返しするわけにもいかないでしょう」
景綱さんが倒れかけた俺を抱きとめて、そのまま部屋の中へ連れて行ってくれる。
「うぅ~・・・もうお酒なんて飲まない~」
やっぱり酒なんて飲むからいけないんだ。何が酒は百薬の長だ、酒なんてただの苦い水だ・・・でもなんとなく美味しかったとか思っている自分は後で戒めておこう。
「そんなこと言わずに、またお付き合いくださいな」
「・・・景綱さん・・・一応俺、これでも景虎の夫でして・・・」
「膝枕くらいがいけないと?」
そう、今俺は景綱さんに連れ戻され、そのまま膝枕へと移行している。
酔っていてまともに体が動かないがためにされるがままではあったが、俺としてはその辺に放り出しておいてもらえればよかったのだが。
「いけないなんてことはないですけど・・・やっぱり後ろめたいと言うかなんというか・・・」
最後の方は景綱さんの目を見て言えなかった。なんとなくすぐ近く、真上から見られているとやたらとドキドキしたし、好意でしてくれている景綱さんに止めてくれと言うことが申し訳ないとも思ってしまったし。
だがしかし、そんなことを考えてながら、目の前にある胸とか頭の下にある柔らかな太ももとかが性的にいけないことを考えさせてしまうからといいのが理由にあるとは口が裂けても言えない。
「ふふふ、やっぱり貴久殿は夜中のことは全く覚えてはいないのですね」
景綱さんが随分と楽しそうに笑う。
夜中・・・まさか酔った勢いで、何か変なことを口走ってしまったのだろうか。
「心配・・・した方がいいですよ。あれが本音かどうかは定かではありませんが、あれを御大将が聞いたら・・・ああ、楽しそうです!」
「教えてくれなくていいですから、絶対にそれを誰にも言わないでください」
いったい俺が何を言ったのか、それはまあ気になるが、今更それを聞いたところで喋ってしまったものはどうしようもならないし、かえって聞いてしまったら景虎の前でそれを意識してしまうかもしれない、そうなったらそれが景虎に伝わることは確実だろう。怖い怖い。
「では、「俺実は胸がそこそこある景虎よりも、小さめの晴信やくーちゃんの方が好きなんだよね~」という昨夜のお言葉は私の胸の内だけにしまっておきますね」
「絶対にしまっておいてください!」
自分で叫んで頭がずきずきくらくらするがそんなことはどうでもいいくらい恐るべきことを言っていた。
先に言っておくが今のは間違っている! 俺は皆の個人個人にあったお胸様が好きなのであって、別に大きさ自体は濃尾平野でも春日山でもどっちでもいいのだ・・・いや、さすがに地元で例えようとは思ったが、くぼんでいるのは嫌かもしれないな。
「おやおや、本気で焦っているところを見ると、もしかして本当のことだったのですか?」
にやにやと嫌な笑みを浮かべながら聞いてくる景綱さん。今までそんなに深いかかわりもなければ、こんなに長々と話したこともなかったからわからなかったが・・・そりゃ景虎と一緒にいるのだ、こうやって傷口を広げに来るのも当たり前というものだろう。
「いや本当か嘘かで言えば嘘ですよ。俺が焦ったのは、それが景虎に伝わったりしたら「ちょっとそこまで虎を狩りに行ってくるわ」とか言って戦でも始めそうな気がしたもので」
「おお、そこまで自分が愛されていると自負しているとは、お熱いことで」
「・・・もう放っておいて下さい」
この人と長々と話していてはいけない、一晩かけて学んだ教訓だ。特にお酒が絡むと致命的なことを口走ってしまう可能性が非常に上がる。しかもそのお酒は半強制的に飲まされるのだからたちが悪い。
「そう言えば貴久殿が長屋に住まわせている子たちは皆・・・」
「それを向日葵の前で言わないでくださいよ、あれを立ち直らせるのは大変なんですから」
長屋の面々のお胸様が小さいのは決して俺がそう言う子を集めているわけではなく、たまたま見つけた子がそう言う子だっただけだ。また小さいと言ってもそれは年相応なのであって、これから大きくなるかもしれないのだからあれこれ言ってはいけないのだ。
「と、言うことは、前に言ったことがあると」
本当にこの人の前では迂闊にものを言えない。景虎の前でもそうなのだが。
「では貴久殿、このまま休みながら聞いていただきたいのですが・・・」
ここまでの流れ的にあんまり聞きたくもないのだが、雰囲気と表情がまともなものに変わったから聞かざるを得ない。
「私や御大将は、貴久殿の言葉に対して、割と思ったことをその場で返していますが、武田や北条はそうではないかもしれません。ため込まれているのかもしれません。ちゃんと気遣ってあげないといけませんよ」
「・・・」
こうしてさっきまでの話からいきなりまとも、というよりも気にしていることを言われてもまた困ってしまう。とても二日酔いの頭、寝転がった体制、さっきまでの話の流れでするような会話ではない。
「あまり考え込まないでくださいね、そのために昨日さんざんに飲ませて、この状態を作って、さっきまでの話をしてきたのですから」
ここまで全てが予定通りの流れだって? 恐ろしいことだ。
「・・・今日は景綱さんの休みで、景綱さんのために俺はここに来たつもりだったんですが」
「そんなこと、勝手に決めないでください。それに、せっかくのお休みです、たまのお休みくらい私のしたいことをさせて下さい。そもそも、こうして今、私は私のしたいことをしているのです、何も問題はないでしょう?」
したいことはしている、ね。
「・・・景綱さんのしたいことって?」
「もちろん、御大将と貴久殿の幸せのためにできること全てです」
当たり前のようにそんなことを言ってくる景綱さん。
事実家臣としてこの返答はまさに模範解答と言ったところなのだろう。
ここでちょっと思い出すのは昔景虎が言ったあの言葉。
「私は、私のことを思ってくれる臣よりも、民のことを思ってくれる臣の方が欲しいのよ」
こんなことを言ったのは、確かまだ景虎と懇意になる前だった。景虎が、せめて自分の周りの人たちだけでも助けて見せるとか言い、俺がお前は誰が助けてくれるんだと聞いた時、そんなことを言った。
「なんだ、いるじゃないか」
「誰がですか?」
小さく、思わず口を突いて出てしまった言葉だが、さすがに膝枕をしている景綱さんには聞こえてしまったようだ。
「さあ、誰でしょう」
「気になるではないですか、教えてくださいよ」
言えるわけがない。
景虎曰く、そんなことを考えている臣は要らない、捨てるとのことだった。
だから、絶対に言うわけにはいかない、こんなことを聞いたら、景綱さんは絶対に景虎のことを叱りに行くと思うか。そうしたら、景虎にその事実が伝わってしまうから。
「教えてくれないのなら、昨晩加藤殿が言ったとんでもないこと、いろいろと御大将に教えてしまうますよ~」
「どうぞ」
さすがにどうぞとは言いすぎかもしれないが、それでも言いたくはない。こういう人は、特に景綱さんは、間違いなく景虎に必要な人だから。
「・・・ふふふ、いったい何のことなのかはわかりませんが、随分と楽しそうな顔をしていますよ」
分かっている、今の俺は、たいそう楽しそうで嬉しそうな顔をしていることだろう。それだけ、景虎の幸せを願ってくれる人がいたころが嬉しいのだ。
「その楽しそうな顔、崩したらとっても面白そうだと思ってしまうのですが・・・考えてみてもいいですか?」
「やめて下さいよ、どうせもうほとんど見当がついているんでしょうに」
「そこまで分かっているのでは、崩すのは難しそうですね」
諦めたふうな口をきいているが、実際のところは自分の予想が当たっていることに確信を持てたのだろう。
「景綱様」
話がちょうど一区切りついたところで、部屋の外から声がかけられる。
「どうかしましたか? 来るなと言っておいたはずですよ」
「申し訳ありません。ですが長尾様が会いたいと言っておりまして」
景虎が? いったい何の用だろう? 想像なんかしても、景綱さんのところに来たのだから政治の話だろう、俺には分かるはずもない。
「ならお通ししなさい」
「もう勝手に来たわよ」
そう言いながら障子を開けて入ってきたのは景虎だ、いくら家臣とはいえ、人様の家に入ってくるような態度ではないな。
「これはこれは御大将、何かご用ですか? 殺すのは私ではなく勝手に酔いつぶれて私を離してくれない貴久殿にしてくださいね」
さっきの俺と景虎の幸せがどうとか言っていた時の景綱さんは何処に行ってしまってのか、あっという間に見捨てられた。
「そんなことになっていると分かっていたから来たのよ」
そう言いながら俺の横まで来ると、示し合わせていたかのように膝枕を交代する二人。
「・・・なんだ、ここまで全部二人の思った通りに進んでいると言うことか?」
さっきまでの話は景綱さんの予定通りの流れだった。そして今景虎はこの状況を予想していて来てすぐに景綱さんと膝枕を交代した、全部思惑通りだとしか思えない。
「そんなわけないでしょう。私の予定では、今日の夜にでもあんたが文句を言いにくるくらいかなと思っていたのよ」
「それならどうしてこんな昼間に来たんだ?」
時間はまだまだ昼間だ、一日のうち半分が残されている、夜までは後五時間と言ったところだろうか?
「仕事が終わったのよ、絶対に終わらないと思っていたのに、どこかの誰かさんが仕組んでいたのよ」
そう言いながらどこか悔しそうな半眼で景綱さんを見る景虎。
「昨日は全く気付かせずに仕事させておいて、今朝になってみればほとんど仕事がなかったのよ、仕組まれたとしか思えないくらい順調に仕事も進んで、こうして昼間には全部終わったわ」
景虎は顔に悔しさをにじませながら淡々と語る。
隣の景綱さんのことを見てみれば、こっちは何とも楽しげな顔をしている。
「なんだ、言わないも何も、互いに分かっているのか」
景虎の欲している臣と言うものを景綱さんは理解していて、景綱さんがどういう考えで行動しているのかを景虎は理解している。俺の考え、心配など、二人には全く持って無用なようだ。
「ああ、さっき呟いていたあれのことですか」
今の俺の言葉で、景綱さんの方は、俺が一人で何を納得したのかわかったようだ。
「何よ、何の話?」
当然のことながらその場にいなかった景虎だけは知る由もない。
「何でもないよ、気にするな」
「御大将が気にすることありませんよ」
「・・・二人そろって」
だが景虎の方も追及はしない。俺と景綱さんが言っているのだからまあいいのだろう、そんな感じだ。
「では、さっそくお話ししましょうか」
「景虎が来た理由ですか?」
景綱さんは何を話すと言うのだろうか? 景虎が来た理由なら、「話す」ではなくて「聞く」だろうに。
「そんなどうでもいいことではありませんよ、話すのは、昨晩の貴久殿のいろいろです」
「ふざけないでくださいそんなこと言ったら」
「面白そうね、さっそく教えなさい」
「ん~!」
景虎が素早く俺の口を塞いだ。
と言うか、まさか景綱さんが話そうとしている昨晩の俺の話と言うのは、さっき聞いた胸がどうとか言うあの辺の話ではあるまいな? もしそうだとしたら、すでにつかまっている上に二日酔いでまともに動けない俺は完全に終わっているのだが。
「では早速・・・実は加貴久殿には胸の大きさに好みがありまして」
「んん~~!!!」
二日酔いのことなど、後のことなど考えずに必死になって声を上げようとし、暴れまくった。
「へ、へー、貴久にも・・・そりゃ好みくらいあるわよね」
景虎の笑みが随分とひきつっている気がする。
「で、その好みってどんなのなのよ」
景虎の状態がひどい。表情は引きつり、汗をだらだらと流し、俺を押さえつけている手は小刻みに震えつつもすごい力だ。
「えっとですね、大きさで言うと晴信殿の大きさが一番好みだとか」
「んんんーーーーー!」
何なんだこの人は、何の躊躇もなく言いやがったぞ! 俺と景虎の幸せを願っているのなら言わないでいいだろうに!
「は・・・晴信が・・・一番・・・」
景虎の表情が引きつった笑みから魂の抜けたような空っぽの笑みに変わった。
「あと、やっぱり胸も一つの個性なのだから大きいか小さいかはっきりしている方がいいとか」
この人は駄目だ、もう絶対にこの人と酒は飲まない、余計なことも話さない、誰に頼まれても絶対にするものか!
「個性・・・」
景虎の目がうつろだ、なんだかとっても危ない感じだ。
「・・・貴久」
「・・・」
まだ口を塞がれているから何も返せない。そして俺の顔を覗き込みながら話しかけてくる景虎がとっても怖い。
「私の胸って、大きいの? それとも小さいの?」
大きくも小さくもない、それが正し表現だと思うのだが、今そんなことを言ったら、俺の言い訳を全く聞き入れないであろう景虎が何をしたものかわかったものではない。
「大きいんじゃないかな」
実際間違っても小さくはないのだ、普通なのだ、景虎の体に合ったちょうどいい美乳なのだ。
「・・・かなって言ったわね」
「大きいです大きいです大きいです!」
こいつこんなうつろな目をしているくせに言葉はしっかりと聞き取りやがって!
「ふふふ・・・そっか、貴久はこの胸が嫌いだったんだ」
「そんなことはない! 景虎の胸だぞ! 大好きだ!」
言葉の方はしっかりと聞き取ってはいたが、目がうつろなことに変わりはない。いつ何をしでかすのか不安でたまらない景虎に言葉を掛けないと言う選択肢は存在しなかった。
「大丈夫よ、貴久、急に大きくはできないけど、小さくならできるから」
「ふざけたことを言うな」
いつの間にやら俺を押さえつけていた手が外れていたから、とりあえず景虎を抱きしめた。
「もし切り落とそうとかそんなことを考えているのなら、絶対に止めろよ。一つしかない大切な体だ、粗末にしたら許さないからな」
「・・・でも、貴久の好みじゃないんでしょ? 晴信とか、長屋の子たちくらいの方がいいんでしょ?」
やっぱり変なこと考えていたな。
前に俺の周りには暴力的な方の端しかいないとか言ったが、訂正しよう、俺の周りにいるのは自分のことになると物事を深く考えなくなる人だな。
今回の景虎は俺に嫌われまいと胸を切り落とそうとした、代案としてすぐに考え付いたのは、景虎だけに逆に俺の好みの方を矯正すると言うことだ。事実景虎なら普通にしそうだ。
「前に言わなかったか? 俺は小さな胸や大きな胸が好きなんじゃなくて、好きな人の胸が好きなんだ」
男は女の胸しか見ていないとか何とか、こと胸の話になると散々ないわれようをするものだが、個人的には胸は大きくても小さくても中途半端でも何でもいい、胸はあくまでその人の個性でありその人のすべてではないのだから。
「・・・じゃあ」
小さな声ながらはっきりとつぶやきながら景虎がゆらりと立ち上がった。
「試させてもらうわ」
「試すって?」
いったい何を、どうやって試すと言うのだろうか?
一人疑問に思っていると、景虎が俺の手を掴んで歩き出した。当然のことながら俺は景虎に引きずられるようにして歩き始める。
「おい景虎、どこに」
「寝るわよ」
・・・まさか試すと言うのは胸の話で、寝ると言うのは房事の話ではあるまいな?
「待て待て景虎、寝ると言うのは」
「その時になってみれば全部わかるわ」
「ふざけんな! お前昼間から何盛ってやがる!」
こいつやる気だ! 初夜の時なんて散々なやりようだったってのにこんな時に自分からやろうとしてやがる!
「うっさいうっさいうっさい! あんたは黙って楽しんでおけばいいのよ! それでその後判断を私がする! 駄目だと思ったら一緒に死ぬ! それだけよ!」
景虎の目が血走っている、かなり危険だ。
「それだけじゃねえよ! そのそれだけがとんでもなく嫌なんだよ!」
俺の心からの叫びだったが、それが今の景虎にとってはとんでもない地雷だったようだ。
「・・・ははは」
急に景虎の体から力が抜け、乾いた笑い声が響いた。
「そっかー・・・そうよね・・・私のことが好きじゃなくても、まだ二人いるんだもんね」
・・・最近の景虎は、どうにもおかしい気がする。
「お前、最近おかしいぞ。自惚れかもしれないが、俺のことになるといくらか気が振れているように見える」
さすがに気が振れているとは言い過ぎているかもしれないが、今の景虎にはこのくらい言っておかないと全く届かない気がした。
「・・・ごめんなさい・・・ちょっと、頭冷やしてくるわ」
景虎が部屋を出て行った。その後ろ姿は、死地に赴く武士を、なんとなく想像させた。




