酒の力
「貴久」
長屋の前、時刻は昼を過ぎたころ。
りんたちの借金を返して、茶屋で少々団子を食べながら談笑をした後、長屋に戻ってみると笑顔の景虎が待っていた。
「すまない景虎、ちょっと用事が」
「逃げたら刺すわよ」
まさか本当に刺したりは・・・するな、うん、当たり前に。
「で、その怒りの原因は何だ、教えてもらえないと」
「御大将」
分からない、そう言おうとしたら俺の背後から何ともおどろおどろしい声が聞こえてきた。
「ひ!」
そして景虎が俺の背後を見ながら体を硬直させた。
「御大将、またお仕事を放り出して、どこに行こうとしていたんですか? 何をしようとしていたんですか?」
御大将と言う呼び方、声、振り向かなくてもこの声の主は景綱さんで決定だろう。
「え、いや・・・あの・・・そう! ちょっと貴久」
「言い訳ですか?」
なんとなく言葉自体は優しいような気もするが、声がとっても怒りをはらんでいる。聞いているだけで本当に恐ろしい。
「私、言いましたよね? 今日中に何とかしてほしいお仕事について、朝から口を酸っぱくして言いましたよね?」
「ごごめんなさい景綱! いい今から! 今からちゃんとするから!」
「なら早く戻ってください。もし私が城に着くまでに追いついてこなかったら・・・壊しますからね?」
そして何となく背後から人の気配と言うかなんというか・・・怖いものが消えたような気がする。
「あいつが怖がっている・・・まずい、嬉しくてにやけてくる」
隣に並んでいた向日葵を目だけでちらりと見てみると、たいそう愉快そうな顔をした向日葵がいた。
「何があったんだ、景虎」
とりあえず景虎の方は全部わかっているみたいだからな、刺されるかもしれないが聞いておこう。
「・・・あんたが・・・」
俺が?
「ちゃんと頼んでおいたのに・・・」
はて、何のことだろうか?
「景綱のところに行くように言っておいたのに、今日行くって言ってたのに・・・」
ああ、言っていたな、そんなこと。
そうすると何か? 今日の景綱さんのお怒りは、もとはと言えば景虎のおかげで溜まっていた憂さなり鬱憤なりが原因ってことか?
「・・・とりあえず今から行ってきます」
なんとなく全部景虎が悪い気はしたが、まあ約束だから行っておこう。
「今行っても景綱は屋敷にいないじゃない!」
ばれたか。
「じゃあいつ行けば?」
「今夜よ今夜! 後で明日は一日休みにするって伝えておくから!」
そんなことをすると俺で何とかしようとしているのがまるわかりだからあまりよろしくはないと思うのだが・・・まあいいか、怖い思いをするのは景虎だけだし。
「分かった、じゃあ日の落ちる前くらいに屋敷に行くよ」
俺の返答を聞いて、景虎は返事も何もなくはじかれたように城に向かって走って行った。よほど景綱さんが怖いのだろう、実力では景虎の圧勝のような雰囲気もあるだけに不思議なものだ。
「で、御大将に言われてのこのことここに来たと」
「・・・はい」
夜、と言っていいのか少々微妙な時間だ、確かに空はかなり暗くなってきてはいるのだがいまいち真っ暗とも形容しがたいびみょ~な色。場所の関係もあり喧噪なんてものは聞こえてこないが、それでも来る途中に寄った城下の町が寝静まっているような感じもしない。
「馬鹿なんですか? 死にたいんですか?」
そして景虎との約束通り、こうして景綱さんの屋敷に足を運んできたわけなのだが・・・。
「いいですか、そんな風に、こんなことで御大将を甘やかしてはいけません、これではいつまでたっても御大将が成長しません」
「はい」
想像していたのは前回みたいに景綱さんの愚痴を聞くと言うものだった。しかし実際に来てみれば、まずは俺、そして後ろに用意されていた酒を見て、とりあえず従者を追い返した景綱さんは俺を部屋まで連れてきてお説教を開始した。内容は景虎にいいように使われているだけではいけない、と言うものだ。
「では早速飲みましょうか」
どうして今さっきまでお説教されていたのにいきなり飲もうなんて話になるのか・・・お酒が好きなんだろうな。
「せっかくあの我儘な御大将が暇とお酒を用意してくれたのです、目的のことを考えると少々癪に障るところはありますが、お酒に罪はありません。さあさあ貴久殿、とりあえずぐいっといきましょう」
そう言いながらいつの間にか用意されていた酒樽に柄杓を突っ込む景綱さん。
「さあどうぞ」
そして当たり前の様にその柄杓を差し出す景綱さん・・・いやまさかそれで飲めと?
「あの・・・景綱さん?」
「何か?」
「俺がお酒得意じゃないってこと・・・覚えてますか?」
「はい」
ならどうしてそんな渡し方するかな。
「ですが御大将が私のためによこした人柱でしょう?」
人柱ですかそうですかそう来ましたか・・・たぶんその通りなんだろうな。
「飲めばいいんでしょう飲めば」
今後の景虎と景綱さんのために、今日は本当に潰れるまで飲もう、俺はそう決めた。
「~~~美味くない!」
「いい飲みっぷりです。たとえ今は美味しくなくても、飲んで飲んで飲みまくっていれば、そのうち美味しいと思い始めますから、ささ、どんどんお飲みください」
景綱さん、それはもうお酒のせいで頭がどうにかなってしまっているのではないでしょうか? それとももっといって体中の血液、さらに言うと水分が全て酒にでも変わってしまっているのではないですか?
「さあ、飲みますよー!」
そう言いながら景綱さんが早速酒樽から柄杓で酒を一すくいして一息にのんでいる。
「・・・はぁ~、幸せ味です~」
そしてそんな感想を漏らしながらさらにもう一すくい。
そして止まることなく五回ほど救ったところで一息つく景綱さん・・・この人と一緒に飲んではいけない、本能がそんなことを訴えかけてきた。
「何をしているのですか、貴久殿? ささ、もっと飲んでください」
そう言いながら自分の飲んでいた柄杓で酒をすくって差し出してくる景綱さん。もうドキドキとかはしないが・・・いや、するな、なんだか怖くなってきた。
「い、いただきます」
だがこれは景虎に対する恩返し、二両分は働こうではないか。
「・・・・・・いや不味い」
はっきり言おう、酒なんて口とか喉とかがひりひりするだけの不味い水くらいのものではないのだろうか? いや多少は甘いとかそんな感じもするのだが・・・。
「大丈夫です大丈夫です、飲めばすべて大丈夫です」
・・・そうか、飲めばいいのか。
「あ~、景虎が、景虎のやつがこんなこと頼まなければ・・・いや金借りた俺の方が悪いんだけどさ~」
「そうですよね~、御大将は本当に困った人ですよね~」
「そうなんですよ! この前の上杉憲政様との話し合いの時のことは聞いていますか?」
酒の力のおかげだろうか? なんだかとっても話しやすい。
「聞いてます聞いてます、あの人関東管領に向かって刀を抜いたとか。本当に、あの後大変だったんですよ。とりあえず関東管領のご機嫌取りをして、周りにこの話が漏れないように手をまわして・・・ついでに御大将も叱っておいたのですが、その時なんて返して来たと思います?」
景綱さんの方も酒を飲んでいるのに・・・いるから? まあとにかく舌がよく回っている。
「どうせ「相手が気に入らなかったから」とか何とか言ったんでしょ」
「そうなんですよ! それは確かに、自分の愛する夫のことを軽んじられて何もするなと言うのは酷な話かもしれませんけど・・・それでも真正面から切りかかることはないと思いませんか!」
景綱さんがすでに何杯目かもわからない・・・いや本当に何敗目かわからないんだが、とりあえず飲んで、そして柄杓を酒樽にたたきつけながら熱弁をふるってきた。
「そうなんですよね~、やるにしても、せめて人目に付かないところでスパッと殺ればいいものを」
「そうなんですよ、誰にも見られていないところなんていくらでもあるでしょうに。そこでさっさと殺ってしまえばこちらも手間をかけずにすむと言うもの」
「もっと人のこと考えろって言うんだよ」
「その通りです」
これは間違いなく酔っているな、俺。
今のところはまだ記憶もしっかりしているし、自分が酔っていると言う自覚はあるが、この先どうなる事やら。
「ふふ~、貴久殿は酔うと思ったことがどんどん出てきてしまう方なんですね~」
「景綱さんだって人のこと・・・言えますね」
景綱さんの場合は割と普段から言いたいことは言っている。
「ところで貴久殿」
「近い近い近い、離れて下さいもう酒臭いです」
まだ飲み始めていくらも経っていないと言うのに、すでに景綱さんからはかなりお酒の匂いがしていた。まあ時間はともかく飲んだ量はすごいからな。
「貴久殿は、御大将のどこが好きで一緒に付いて来て、どこが好きで夫婦になって、どこが好きで夫婦を続けていて、どこが好きで武田や北条とも夫婦になっても御大将と夫婦でいて下さるのですか?」
すでに酔っていると思いきや、景綱さんはけろっとした顔で俺に問いかけてくる。どうやら随分とお酒に強いらしい。
「どこって言われると困りますけど・・・全部?」
まあ俺の知っている範囲で、ということにはなるが、たぶん嘘ではないだろう。
「本当ですか~? 出会った瞬間から今この時まで、本当に貴久殿は御大将のすべてが好きだと言うのですか~?」
むむむ、そんな風に言われてしまうとさすがに「はいそうです」とは言えないな。
「そうですね~・・・とりあえず、今ぱっと思いつく限りでは、俺が初めてここに来た日、あの時の評定で、俺のことをいきなり草履取りにした時のあれ、あれは正直気を疑いましたね」
「あああの時ですか。でもあの時のことは、後になって御大将の気持ちを知ったら嬉しいとか思ってしまっているのでしょう?」
「・・・そりゃあ・・・まあ・・・だって、つまりあれは、俺のことが好きだから少しでも傍に居たいとかそう言う・・・ねえ?」
今にして思うとなかなかに嬉しいような可笑しいような。
「ふふふ、本当に御大将のことを好いてくださっているのですね」
景綱さんまで俺の胸の内を読んできた。
「特別なことなんてしていませんよ。私が分かったのは、貴久殿の顔がしっかりと笑ってしまっているからですよ」
「・・・そうですか」
言われてからも自分ではいまいち理解できないが、どうやら俺は嬉しくてにやけてしまっているようだ。
「でも、そんなに好いてくださっている加藤殿に、御大将は何をやっているのだか」
これはいつかの剣の鍛練とか、礼法の勉強その他もろもろの俺が物理的に傷ついた出来事を指しているのだろうか?
「殴ったり蹴ったり叩いたり、聞いた話だと噛みついたり」
ああ、あったなー噛みつかれたこと。あれはたしか俺がくーちゃんとの祝言を景虎に認めてもらおうと頼み込んだ日の夜だったか。しかしあれに関しては当然の報いと言うか、あれだけで済ましてくれている・・・少なくとも今のところ許してくれている景虎に感謝こそしても、怒るなんてことはありえない。
「まあそのほとんどが俺のせいであって、景虎は何も悪くないどころか善意だったり被害者だったりですから」
俺がにやついたままの顔でそんなことを言うと、景綱さんが「はぁ~」と盛大にため息をついた。
「加藤殿の頭の中はお花畑しかないのですか?」
なかなかに失礼なことを言ってくれている。しかしどうしてそんな判断をしてくれたのかが気になる。
「どうしてそう思うのですか?」
「たとえ、今までの出来事が加藤殿の言ったように御大将は悪くない、むしろ被害者だと言うのであっても、やりすぎているんですよ、御大将は」
はて? 俺としては殺されても文句は言えないと言うことをいくつもいくつもやらかしてしまっていると言う感じがしているのだが? 景虎が俺に対して怒りをぶつけていることに対して、景虎がやりすぎているとはつゆほども思わないのだが?
「今、絶対に御大将はやりすぎていないとか、むしろ悪いのは一方的に自分だとか思っていたでしょう」
おっとまた心の中を読まれてしまった。
「何度も言いますけど、その考えがそもそも間違っているのです! いですか、普通互いにあれほど愛し合っている夫婦は、そんなことはしません! 痣だらけになるまで痛めつけたり、気絶させたり、武の心得もなければ特に行く意味もない夫を戦場に連れて行ったりなどなど」
う~ん言われてみればその通りのような気もするのだが、それは俺ならば思うだけであって、こっちではそうでもないのではないだろうか? 痛めつけたのは実際に戦場に行くようなことがあった時とかに死なないようにするためだし、あの時戦場に行ったのは俺の発案だったからだし、気絶したのは・・・まあただの遊びとか、実際に害があったわけでもないから気にしていない。
「ああーもう! どうせまた御大将は悪くないとか本気で考えているんでしょう!」
・・・はい、だって本当に悪くないと思っていますから。
「いいですか? もし他にも奥さんがいることが後ろめたいとか思っているのでしたら、それこそ大きな間違いなのです!」
むむ? 何が間違いだと言うのだろうか? それこそがも俺が最も景虎、さらには晴信やくーちゃんに対して最も申し訳ないと思ってしまっている事なのだが?
だって普通そうではないのか? こっちでは嫁が複数人いることはざらにあることなのかもしれないが、それでも正室が三人と言うのはまずいない。
今更ながら正室が三人という状況に目眩がしてきた・・・酒のせいということにしておこう。
「いいですか貴久殿! 貴久殿がどう思っていても、御大将も他の奥様方もそれを良しとして、それでもいいからと貴久殿を選んでいるのです! そして貴久殿はその方たち全員を等しく愛しているのです! だから、むしろ貴久殿は感謝こそされども、逆に後ろめたさを感じる必要などありはしないのです! おかしいのです!」
景綱さんが声を大きくして熱弁をふるってくる。
景綱さんの考えも理解できないわけではない。確かに俺は皆のことを本気で愛しているし、みんなも俺がこういう人だと、こういう状況だと分かっていて今の状況を選んだのも事実だ。だから景綱さんの言っていることも間違ってはいないと理解はできるのだが・・・。
「でもまあ、これは本人同士の問題と言うことで」
俺がにこやかにそんなことを言うと、景綱さんがまた盛大にため息をついた。
「そんなことを言っていると、そのうち無茶なこと言われますよ? 「私だけのものになれ」とか何とか、言われる前に自分はお前の夫だってことを、対等な立場、もしくは上の立場なんだってことを示しておかないと、いつかひどい目にあいますよ」
対等な立場、ねー。俺の中では景虎と俺が対等だと思ってはいるのだが・・・少なくとも同じ一個の人間としては。まあもっと身分的な話をすれば、景虎は越後の国主で、俺は特に身分も何もないんだけどな。
「そんなことを言われるってことは、それだけ景虎が俺に対して不満を持っているってことでしょう? だから、俺としてはそう言われないように、精一杯できる限りのことをしていくだけです」
「あーもうこの度し難い馬鹿はー!」
そう絶叫しながら酒樽から何杯も酒をすくっては飲みすくっては飲み・・・いい加減景綱さんの体のどこにそんなにたくさんの酒が入っているのか気になってきた。
「貴久殿!」
「はい!」
柄杓を俺の目の前に突き付けながら名前を呼ばれた。結構な量の酒が飛んできて結構濡れた。
「さっきから全然飲んでいないではないですか! それだからまだまだ本音が出ていないのですね! さあ飲みなさい!」
そう言いながらおもむろに俺の首根っこを掴んで立ち上がり酒樽に向かって引っ張っていく景綱さん。
されるがままに酒樽の前まで・・・手が離れないのはどうしたことか?
「では盛大に・・・いってみましょう!」
「ぶふ!」
そしてそのまま勢いよく景綱さんは俺の頭を酒の中に突っ込んだ。
「ぶぶぶぐぼ!」
ええいこっちの人はどうしてこんなにも馬鹿力が多いのだ! 必死になってもがいていると言うのに全く抜け出せない。
しばらく本気で抵抗していたのだが、だんだんと酸欠になって力が抜けてきた・・・死ぬかも。
「ぶは!」
そんな死を軽く覚悟した瞬間に景綱さんが俺を引き上げた。
「げほ! おれっ!」
「あははは! さあさあもっと飲んでもらいますよ~」
「飲みます! 飲みますから!」
そう叫んで自ら手で酒樽からたっぷりと酒をすくって飲みまくる。
「おお、いい飲みっぷりです!」
またさっきみたいに頭ごと沈められていては、絶対にそのうち死んでしまう。それならまだこうして喉を焼きながらでも盛大に飲んでさっさと潰れてしまおう。
「これでもうしばらくすれば、やっと加藤殿の本音も聞けそうですね」
・・・もしこの後、酔った勢いで何かとんでもないことを言ってしまったらどうしようか。
「ん? 手がとまっていますよ?」
ええい酔った後のことなど知らん! とにかく今は目の前に危機を回避するのだ!
そしてできることなら景綱さんもこのまま酔いつぶれて、俺の酔ったうえでの言葉など忘れてもらいたいところだ。
そして俺は飲みまくった。今後絶対にないであろう量を飲んだ。
そして気がつけば朝だった。




