別れ
「景虎!」
やっとこさ景虎を視界にとらえた。景虎のところまであと十秒もあればたどり着けるだろう。
慣れない山の中を走って来たから体は火照っているが、手の指先はこれでもかと言うくらい冷たくなっている。もう冬だ。
「はぁ・・・はぁ・・・景虎」
息が上がって苦しい。からからに乾いたのどには、この冬の乾燥した空気は少々痛い。
初めて会ったあの場所、あの時は緑が美しい森だった。つい先日訪れたこの場所は、葉は茶色に変わりはらはらと舞い散る秋だった。そして今、思い出のあの場所は数日しかたっていないと言うのに、あたりの木々についていた葉はほとんど落ちて、まさに冬と言った感じだ。
そんな化粧をしていない冬景色の中に立つ愛しい奥さん、長尾景虎。
「・・・」
どうしたらいいのかなんてわからないが、どうしたいかならよくわかる。それは間違いない。何をしたら景虎にとって良いのか、それは分からない、だが、俺は今、景虎と一緒にいたかった。
何もできなかったとしても、せめて、傍に居るくらいは。
「向日葵」
「え?」
景虎が言葉を発した。しかしそれは、この場にはいない、この状況にも関係がないと思われる人物の名前だった。
「好きなんでしょ」
「な、なにを言っているんだ?」
「聞いたわよ、段蔵から。あんた、向日葵と祝言の約束をしたそうじゃない」
ドクンと心臓が跳ねた。いや、正確に言うと、今も張り裂けんばかりに激しく鼓動している。
「しかも、それを反故にしたとか」
段蔵は何も悪くない、段蔵は主である景虎に旅の次第を報告しただけだ、俺と向日葵の話も、俺と景虎の約束など知りもしない段蔵なら普通に話すだろう。
「・・・いいじゃない、挙げなさいよ」
そしてさらに、俺の心臓を壊さんばかりに鼓動させる一言が発せられた。
景虎が、俺と向日葵の祝言を認めた? それどころか勧めている?
ありえない、とまでは言わないながらも、明らかにおかしいと言える言葉だった。
「景虎、お前おかしいぞ、何があった」
「・・・」
景虎は答えなかった。何も言わず、ただ遠くに浮かんでいる雲を、ただただ眺めていた。
何か悩んでいるのだろうか、困っているのだろうか、なんにしても今俺に何ができるのか、何をしたらいいのは、今この時になってもわからない。
「・・・」
だから俺も、隣に並んで雲を眺めてみた。
もともと何かしようと思って来たわけではない、何もできないからこそ、せめて隣にいようと思ってこうして追いかけてきたのだ。だからこうしていよう。
遠くに浮かんでいる雲は、眺めているうちにさらに遠くへと流されていった。
あの雲は何処へ行くのだろう、どこまで行けるのだろう。そんな感じのつまらない疑問が浮かんでは消え、また浮かんでは消えて行った。
「・・・貴久」
いくつもの疑問が浮かんでは消え、いつしかただ雲を眺めるだけの作業をしていた俺に、景虎が話しかけてきた。
「どうした」
「・・・」
声をかけておきながら、景虎はなかなか話しださなかった。
何か話したいことがあったのか、それともただ名前を呼んだだけなのか、そう考え始めたところで、景虎がようやく話し出した。
「・・・貴久は、私と一緒にいて・・・幸せ?」
そして思いもよらないことを聞いてきた。
「どういうつもりで聞いているのかわからないから、とりあえず怒らないでおく。だから教えてくれ、どうしてそんなことを聞いたんだ? 俺が景虎のことを愛していないと、お前にそう思わせてしまっていたのか?」
普通に言おうと努めたつもりだったが、それでも自分の耳が聞き取った自分の声は、普段に比べていくらかとがった言い方になってしまっていた。
確かに俺は奥さんを増やしてしまったし、景虎のことを置いて旅にも出た。しれが原因で信じられないと言われれば言い返すことはできないが、それでもそれなら俺が帰って来たその時にでも言われているはずだ、それが今この場で言ったのだから、帰って来てから今日までのことを考えれば、それが原因ではなかったと思う。
つまり、もし今俺のことを疑っているのなら、それは日ごろの俺を見てそう考えていると言うことだろう。だから、今までそれを言ってくれなかった、直す機会をくれなかった、俺がその駄目なところを直すと信じてくれなかった景虎に怒りを覚えた。
「違う・・・違うの、そうじゃないの・・・」
なら、どういう意味なのか。そう問いかけたかったが、景虎が何やらまだ話そうとしていたからその問いを飲み込んだ。
「あなたが、私のことを好いてくれている、それは信じているわ・・・でもね、それは幸せかどうかとは別でしょう」
なるほど、これは勘違いしてしまったようだ。
確かに、たとえいくら互いのことを愛し合っていたとしても、それが幸せと同義であるとは限らない。
だから、景虎は聞いたのだろう。向日葵との祝言を、愛する人のために反故にしてしまっている俺に、幸せかどうかを。
「幸せだよ」
お前と一緒だから、お前がいるから、そんなことは言えなかった。そう言ってもいいと思えるほどに、俺は景虎のことを好いているが、それなら今すぐ晴信やくーちゃんと離縁しろと、言われてそうできるかと言われればそうもいかない。そう言う駄目な俺なのだ。
「なら・・・」
ここで初めて、景虎が俺のことを見た。
「晴信と、氏政と・・・離縁して」
「・・・」
俺は、自分の耳に届いた一言を、信じたくなかった。
武田晴信、北条氏政、二人と離縁しろ。
景虎が言った。他でもない景虎が言った。
俺が、勝手に菜種を見に行かなければ、勝手に茶屋に出かけなければ、そうすれば起こらなかった事態。
俺が、景虎に一切の非がなく、俺だけが全てにおいて悪いこと。だから、景虎がそう望むのなら、本当にそう望んでいるのなら、俺はそうするべきなのだろう、俺が悪いのだから。
「もし」
俺がぐるぐると考えているうちに、景虎が次の言葉を発する。
「もし、そうしてくれるのなら・・・」
そう言って、景虎は両手を広げて、俺のことを見た。
「抱きしめて」
向かい合った俺と景虎の間は一メートルもない、手を伸ばせばとどくし、一歩進めば抱きしめられるだろう。
「・・・」
しかし、今の俺には、この互いに向き合った彼我の距離一メートルが、この上なく遠かった。
進めない、詰められない、この一歩が。
「・・・そう」
景虎が腕を下ろした。
「分かっていたわ、あなたが・・・抱きしめてはくれないって」
「・・・」
何と言っていいのかわからない。俺は景虎の望みに応えられなかった。そして、景虎はそれは分かっていたことだと・・・とてもすっきりしたような笑顔で告げた。
最悪の予想が頭をよぎる。この次に、何を言われるのか。初めて会ったこの場所で、景虎の望みに応えられなかったこの時、景虎のすっきりしたような・・・諦めたような笑顔が、俺に最悪の予想をさせる。
「貴久、お願いがあるの」
そして、その最悪の予想につなげることができる言葉を、景虎が紡ぐ。
「離縁しましょう」
そして、景虎は何の躊躇もなく、俺の最悪の予想を現実のものとした。
「・・・」
頭が真っ白になった。
いくら最悪の予想だとはいえ、信じたくはないことだとはいえ、頭にあった事態だった。その事態を今迎えて、俺の頭は真っ白になり、俺は何も言えず、動けなくなっていた。
「貴久」
なおも景虎は続けた。
これ以上何を言いたいと言うのだろうか。俺には何も考えられなかった。
「大好きよ」
「っ! なら! ならどうして!」
久しぶりに動いた俺の口が発した言葉は疑問だった。先の景虎の問いに答えるでも、この状況を何とかするでもなく、疑問なんかを口にした。
「好きなんだろ! 俺も好きだ! なのにどうして!」
「貴久!」
「っ!」
俺の勢いは、景虎の一喝で、それだけで、脆くも消え去った。
「出て行って」
そして続けられた言葉、それは紛れもなく・・・いや先の言葉で、すでに景虎の意志は見えていた・・・。
「出て行きなさい。あなたはもう、私の夫ではないの。だからもう、城に入ることも許さないわ」
景虎が俺の横を素通りしていく。俺の詰められなかったたった一歩の距離を、景虎はあっさりと詰めた。しかし、俺と景虎が交わることはなかった。
決別、それは俺となのか、それとも俺といた過去のなのか、はたまた自分となのか。
何も分からない、どうして互いに好きあっているのに、それが分かっているのに、別れなくてはいけないのか・・・いや、そう言うことか。
「・・・景虎は・・・幸せじゃなかったのか」
理由は分からない、それにどうでもいい。今大切なのは、景虎が俺といて幸せだと感じてくれていなかったってことだ。
「・・・」
景虎にも聞こえていたはずだ、俺は聞こえるように言ったのだから。
しかし背後から聞こえてくるのは、規則正しく、枯葉を踏み潰す音だけだった。




