まず、最初に
「・・・」
大きな背中が、どんどん小さくなっていき、そして今、建物の陰に隠れて完全に見えなくなった。
「お屋形様」
信繁が私の隣までやって来て声をかけてきた。
目だけをわずかに動かし信繁を見やる。目につくのはその引き締まった肉体。張りのある肌は多少筋肉質のような気もするが、それでも女性らしい丸みに・・・そこそこの、本当に少しだけ、私よりも大きいような気がしないでもないふくらみも持っている。
少なからず、その武人としてしっかりと引き締まりつつも女性として美しいと感じさせる体に嫉妬してしまうのは、同じ女性として当然のことだろう。
「これで、よろしかったのですか」
いきなりの核心を突いた言葉。遠慮なく私の心の傷をえぐりに来たような感じもするが、これが信繁なりの気の使い方だ。信繁自身、こんな風に悩んだ時や、困った時は、まず迷わずにその内容を誰かに打ち明けて相談する。
「これで、いい」
当たり前だ、これまでにどれだけ同じことを考え、決断を下して来たのか、考えてみるが、その数はとても数え切れそうな数ではない。
貴久はもう越後に向かって発ったのだ、いまさら何を思おうと、それは本当にいまさらなこと、こうして行動に起こしたからには、後戻りなどしない。
「それでも、到着は明日の夜の予定です。兄上様が言ってくださっていたのですから、せめて明日出立と言うことにしてもよかったのでは」
「信繁」
こればかりは、少々語気を強めてしまった。
曲げてはいけないことだから、ここでそんなことを妥協していたら、それに甘えてしまいそうで、もし失敗しても、最後にはもしかしたらと言う抱いてはいけない希望を抱いてしまうから。
「・・・本当に、よろしいのですね」
「くどい」
「・・・」
信繁はすぐには言葉を返さない。
これだけ私に確認を求めておいて、自分の方はまだ決めきれていないのではないだろうか。
もしかしたら、この問いかけも、いまだ心を決めきれないでいる信繁の方が、相談をしているようなものなのかもしれない。
「私はやる」
だからこの場は、先ほどの問いかけに答えるのと一緒に、信繁の迷いすらも吹っ切るような強い言葉を言うべきだ。
「貴久と景虎にとっての障害となる者を、すべて消す」
これが、私が決めたこと。
貴久が本当に求めていたのは、私ではない。
私が求めれば、貴久は過剰にもほどがあるほどの答えを返してくれた。
でもそれは、何も私に限ったことではない。
景虎だって同じだ。景虎が求めれば、貴久はきっと私と同じようにしたことだろう。
そして、それは私たち以外の人でも同じこと。あの小さな四人の子、護衛としてついていった二人と先に小田原に帰った一人、誰にだって、貴久は同じように返すに違いない。それが私が愛した人だから。
だが、考えなければならないことがある。
貴久は、私たちが求めてくれれば、誰にだって答えてくれる。なら、貴久自身は、誰に求め、誰に答えてほしいのか。
初めて川中島で会った時、祝言のために甲斐に来た時、甲斐が攻められた時・・・いつだって、貴久の隣には景虎がいた、もしくは考えの中心にいた。
私が景虎と祝言の日取りでもめた時、貴久は迷わず景虎を選んだ。
確かに先に約束していたからと言われれば、なかなか反論しづらいところだ。
でも不可能だったわけでもない。私の方が好きだと言えれば、私との祝言が先になっただろう。
それに、貴久は私たち武田の陣内にいた時から、気にかけていたのは戦のことではなく、景虎がけがをしていないかなどの景虎の心配だった気がする。
祝言のために甲斐に来た時、貴久は景虎と三人の女の子を連れてきた。三人とも、貴久によく懐いていた。特にあの向日葵とか言った子は、特に気持ちが強かったような気がする。あとの二人はまだ「いい人だな」くらいの気持ちだったように思える。今となってはその二人も好きになっているとみて間違いなさそうだったが。
恐らくだが、あの三人を連れてきたのは、景虎を連れてくることに対するごまかしなのではないだろうか。私から招待状を送った以上これは邪推かもしれないが、ああしてたくさんの人を連れてくれば、景虎と言う意中の人物一人を連れてくるのに比べて角か立ちにくいし、景虎だけが特別だと言う気持ちがあったとしてもなかなか見えづらくなる。
甲斐が攻められた時、あの時はかなり顕著だったような気がする。
部屋に来るのが遅れた時、貴久は私の部屋に来たと言うのにまず最初に景虎の名前を出した、困った時に出したのも景虎の名前だった。
「・・・お屋形様が、そうお決めになられたのなら」
信繁が目で頷いて返事をする。言葉にしていない辺りに、いまだに決めかねていると思わせるが、それでも返事をした以上、信繁はやり切るだろう。それが武田信繁だと理解している。
「名目は」
「天下取り。これ以外にないし、実質的にそうなる」
名目。貴久と景虎にとっての障害となる者を、すべて消すために起こす行動を他のみんなになんと説明するのか、これがかなり大切だ。ここで皆に納得してもらえるような名目を示せなければ、どこからどう見ても私利私欲で動く暗君だ。
今回の旅で、貴久は多くのつながりを作ってしまった。それを消すために最も手っ取り早いのは、文字通り消してしまうことだ。
消すためにどうするのか、戦で負かして首をはねればいい。
戦で負かして、相手の首をはねる。これは要するに侵略だ。
侵略、その結果、相手の領土は武田のものになる。障害をすべて消し終わったころには、勝手に天下統一は成っているだろう。
今回の貴久の旅は、行きに越後から越中・加賀・越前・近江・京・堺・播磨を通り、帰りは播磨・堺・京・近江・美濃・尾張・美濃・甲斐・越後と通って来た。
そして、その中で貴久が繋がりと呼べる繋がりを作ったのは、自ら行きたいと言って通った近江、その近江を拠点とする浅井、恐らくは隠居した久政ではなく賢政の方だろう。
次に都の将軍様。さすがにこれは最後になるだろうが、武田が天下統一を果たした末には、天下を乱した罪人とすることもできるから、最後になるだけで消すことに特に大きな問題はない。
堺の商人たちとの集まりとも繋がりがあるかもしれないが、ここは相手が商人なのだからお金で何とかしよう。お金だけで何とかできると言うのなら安いものだ。
そして今回の旅の目的地、播磨。ここに行った目的は黒田官兵衛だと聞いている。そしてそれは本当だったようで、貴久はそこで黒田官兵衛と出会った時に、あまりの嬉しさに気を失ってしまったのだとか。
つまり、この黒田官兵衛は何をおいても必ず消さないといけないと言うことだ。この存在が、貴久と景虎にとって、よくない影響を与えることは間違いない。仮に良い理由が見つからなかったとしても、何としてでも消す。
次は帰りの道のりの話だ。
ここで貴久は、行きと同じ道を通ることなく、東海道を使って尾張と甲斐を通って越後に帰る道を選んだ。理由は、尾張の情報収集のためだと聞いている。
そして問題はその尾張だ。
・・・いや、実に腹立たしいことではあるが、今この時に限っては都合がいいこと極まりない。
貴久は尾張で盗人と間違えられて捕らえられ、拷問を受けたと言う。
最初にこのことを昌幸から聞いた時は、あまりの怒りに刀をもって一人尾張まで切り込みにかかるところだった。
だが今は、尾張のその行動に感謝しよう。おかげで、日ノ本全土を巻き込み、貴久とのつながりを持つ勢力の大半を一気に殲滅できる大戦を起こすことができるのだから。
勝負は二つ。
一つ目は、上手く情報を操作して、貴久とのつながりを持つ勢力を敵方に集めること。
そして二つ目はもちろん、その大戦に勝つことだ。
勢力の分け方の理想は、武田・長尾に対して、織田・松平・浅井・小寺、となることだ。
織田・松平の連合はいまだまともに戦ができる状態ではないと思われるから、特に脅威とはみなしていない。言うなれば数だけの烏合の衆だ。
浅井は六角に完全服従の状態で、世事に関心の薄い六角が、こんな大きな戦でどちらか一方に大きく肩入れすることは嫌うはずだから、六角には長尾・武田の連合が圧倒的に有利だという情報を流しておく。そうすれば六角自身はこちら側に、保険として浅井を織田方に派遣してくるだろう。
小寺家には、六角に流した情報とは反対の情報を流しておこう。こうしておけば、恐らく小寺家としては、こちら側に付きたいと考えることはないはずだ。
そしてこの意見に黒田官兵衛は騙されることはないはずだから、反対意見を出すに違いない。
ここで主に逆らうものとして打ち首にでもされていれば好都合だが、たとえそうならなくても、反対意見を出す者を自由にしておくことはないはずだ、よくて屋敷に軟禁、悪くて投獄にはなるだろう。
これで、厄介な敵である黒田官兵衛を相手にしなくて済むうえに、もし貴久が何か言ってきたとしても、黒田官兵衛を助けるためで通すこともできるだろう。
そして戦が終わった後には、敵国の将だからと言う十分な理由で殺すことができる。
これが思い通りに行ってくれれば、この一度の戦で、障害のほとんどを一度に消すことができる。さすがにここまでうまくいくとは考えていないが、少なくとも織田だけは確実に消すことができる。
そしてそうなれば、もう天下はとったも同然、私たちに逆らえる勢力はいない。貴久に言い寄ろうとする人物も、こちらが奥の管理をすると言うことで、自由に選別することもできる。
「・・・」
そして最後に大きな問題が二つ残っている・・・将軍の存在と、北条だ。
先に言ったように、将軍に関しては最終的に戦乱の世の責任を取ってもらうとしても、そう簡単に責任を取ってもらえるかどうかは怪しい。
かと言って、敵についてもらって責任を取らせると言うのも不味い。将軍にはこちら側についてもらわないと都合が悪いのだ。
将軍が敵についてしまうと、西の毛利や尼子、北の伊達なんかも敵になってしまうかもしれない。そうなってしまうとこの大戦に勝てるかどうかも怪しくなってくるし、責任を取らせて殺しまくると言うのも後の治安のことを考えると難しくなってきてしまう。
もし将軍が味方なら、逆に東の毛利や尼子、小寺などは京からこちらには来ないだろう。さらに言うと、将軍がいるだけで、こちらが官軍だと言い張れるから楽なものだ。これだと最後の責任の取らせ方が難しい以外は特に問題はない。
いっそ中立であってくれるなら、それほど楽なことはない。北の脅威に悩むことはなく、西の脅威に関しては毛利や尼子が参戦してこないのであれば、十分な壁を用意してもある。将軍が呼びかけない以上そんな大税力が動くとも思えなが。
さらに最後の将軍の処遇に関しても、「これだけのことが起きているのに将軍は何もしていなかった」と言うことで文句なしの罪ができる。
将軍に関しては、今どうこう考えても、味方になってくれたらいいなぐらいにしか言えないから、そうなるように手を打つと言うだけで終わりにしておこう。
問題は北条なのだ。
あれだけの強大な勢力を野放しにしておくことはできないし、すでに織田に使者を送っているし、その織田とも武田とも長尾とも領土が接している以上、無視を決め込むことも難しいだろう。
本人同士の口約束ではあるが貴久の正室になると約束もしていることから、まず間違いなくこちらに着くことが予想できるし、貴久と昌幸の話からも、北条氏政にはこちら側につく意思があるらしい。
こちら側としても、もし北条が敵になるだなんてことになったら、この戦は間違いなく負け戦になってしまうだろうし、私たちの命もないだろう。だから敵になることだけは困る。
しかし、かと言って味方になってもらっても困るのだ。
理由は簡単なことで、北条を消すことが難しいからだ。
敵にはできないから敵国の人物として処罰することはできない。味方にしたら、それこそどうやって消せばいいのかわからなくなってしまう。
だから北条には、難しいが無視を決め込んでもらいたいのだ。
最初から関わってくれなければ、無事に戦に勝って、障害を消せる。そして、無視を決め込んでさえくれれば、あとは奥の管理と称して、北条を跳ね除けることができる。完全には無理だとしても、最悪まで行っても、今の関係以上には発展させないことができる、絶対に貴久の奥さんになんてさせはしない。
しかし、北条に無視、静観してもらいたくても、どうしたらいいのかが思いつかない。迎え入れることはできないし、かといって突っぱねることなどできるはずもない。
「・・・」
話すしかないだろうか。できることならしたくはなかったし、相手がこの条件を飲んでくれるかと聞かれたら、たぶん飲んではくれないだろう。だって、相手も、北条氏政も、加藤貴久と言う人を愛している一人なのだから。
それでも、今は話してみる以外に方法がない。ギリギリまではほかの方法がないか模索してみるが、最終的には話すしかないだろう。もし駄目だったら、すべては話さないようにして、味方になってもらったうえで、先ほどの奥の管理と言う方向に逃げよう。戦が終わった後ならば、北条単体の攻撃くらいなら何とか
できる。
唯一望みを持つとしたら、現当主である北条氏康殿に話してみることではあるが、これは失敗した時に敵方につかれる危険が高すぎるから避けたい。
「お屋形様」
後ろから声がした。信繁はまだ隣にいるから信繁ではない。声を聴く限り昌秀だと思うが。
振り返ってみれば、そこには厳しい顔をした昌秀だいた。
「先ほど、先触れが参りました」
「どこから」
「斎藤家とのことです」
「わかった」
これから起こる大戦。負けるわけにはいかないし、失敗なんてできない。そのためには、下準備が大切だ。
「まず、最初に」




