我が家 弐―別れ、甲斐躑躅ヶ崎館―
「・・・」
甲斐、躑躅ヶ崎館を出てすでに数刻、俺はほとんど言葉を発していなかった。
理由は簡単、躑躅ヶ崎館を発つ直前にあった晴信との会話が原因だ。
あれで普通に見送ったと言われても、とても信じられるものではない。
嬉しそうでも悲しそうでもない無表情、何か焦っているようなまくしたてるような喋り方、とても普通の状態ではなかった。
最後の最後は俺にとっては一生忘れられないような感動的な別れ方ではあったが、思い返してみれば、やはり最初のあれはおかしかったと言うほかにない。
すでに佐久間街道を通って八ヶ岳を迂回している最中だ、もうここから躑躅ヶ崎館に戻るという選択肢はさすがに取れない。
「今日は小諸城まで行く予定です。もし行けるようなら、このまま上田城まで行くつもりではありませけど」
段蔵が今日の予定を話している。館を出発する前に話し合ったことだ。
今日からの予定では、武田の領内の街道はかなり整備されているから今日中に小諸城へ、そして明日は海津城に泊まるかもしくは善光寺で一晩軒を借りる予定だ。もしかしたら、疲れを取るために翌日も海津城辺りでもう一泊するかもしれない。
そして、あとは北陸道を北上していけばすぐに越後領内だ。もしかしたら、近くに城がないから黒姫山か妙高山あたりの山の中で一晩野宿することがあるかもしれないが、その翌日にはとうとう春日山城に帰れる。
あとおおよそ一週間もあれば越後の春日山で、我が家で、今までのように幸せな暮らしをしていけることだろう。
「・・・」
次に甲斐に行くのがいつになるのか、それはまだ決まっていない。
「・・・晴信」
どうしたのだろうか。
「晴信はこられないのか?」
朝餉の場に、晴信は姿を現さなかった。
信繁の話によると、可及の用事ができたため、どうしても席をはずせなかったとのことだ。
晴信は甲斐の国の国主だ、こんなこともあるのだろう。それがたまたま今日のこの時だったと、そういうことだ。
そして時は今、こうして俺たちは躑躅ヶ崎館の門の前に立っている。もちろんこれから甲斐を発って越後に向かうからだ。
せめて見送りとまではいかなくとも、最後に晴信の顔を一目見ておきたかった。
もしかしたら越後からとんぼ返りと言うこともあり得ない話ではないが、恐らくはまた一月周期での往復生活の始まりだろう。そうなれば、次に晴信に会うのは、移動も含めるとだいたい四十日後になってしまう。
「すみません、間に合うようなら来ると言われてはいたのですが」
信繁さんが申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「いやいや、信繁が頭を下げる必要なんてないよ。晴信は甲斐の国の国主なんだ、こんなことだってあるさ」
でもやっぱり最後にせめて一目、晴信の笑顔・・・とまでは言わないが、普通に顔を合わせて「行ってきます」くらいのことは言っておきたかった。
「少し出発を延ばそうか? 俺たちはそこまで急いではいないんだ、別に多少遅れても構わないし、明日になったって構わないんだ」
やっぱり会えないのは寂しい。早く越後まで帰りたいという思いはあるが、晴信との時間を犠牲にしてまでと言う気持ちは無い。
「いえ、明日は本当に都合が悪いのです。出発を遅らせるだけならまだかまいませんが、今日中には発っていただきたいのです」
「・・・そっか」
向こうにはやんごとなき理由があるようだ。
だが、そうなるとここを出る時間はかなり早くなる。今日中に小諸城にはついておきたい、そのためには、遅くても昼前には出ていないととてもではないが間に合わない。正直あまり時間がない、この面子だと、昼前ではかなり怪しいかたぶん無理だ。
「とりあえず、もう少し待ってみるよ、それで来なければ諦める。俺の都合だからな」
俺の勝手で晴信を急かせるのもいけない。晴信は今、国のために頑張っているのだから。
そんなわけで、とりあえず四半刻ほど待っては見たのだが、晴信は現れなかった。
「貴久様、そろそろ」
段蔵が出発を促して来た。
四半刻、たったの三十分しか待っていない。デートの待ち合わせだったら、俺なら余裕で一時間は待つ。それ以上になってくると、相手の身が心配になって待ってなどいられないから、待たずに何かしらの行動を起こすけど。
「・・・もう、発たないと間に合わないか?」
「いえ、まだ大丈夫だとは思いますけど・・・」
まだ待てるけど出発じようと言ってくる、俺が待ちたいと思っていると分かっているのだろうに。つまり、これ以上待っていると、俺が晴信に会うまで出発できなくなるのではないかと考えているのだろう。
「・・・わかった。それじゃあ、出発し・・・」
俺が断腸の思いで決断したところで、それが視界に入った。
館の柱の陰に隠れているようでほとんど隠れられていない小さな影。
注視しなくたってよくわかる、あれは俺の奥さんだ。
いったいあんなところで何をしているのだろうか? と言うかあれは隠れているのだろうか? いや、隠れられてなどいない、こちらが気付かなかったことがおかしいくらい隠れられていない。なんとなく『家政婦は〇た!』みたいな格好をしているが、全く隠れられていないから、格好は違うがどちらかと言うとチョッ〇ーに近い感じがする。
「・・・」
なんだか向こうも俺が気付いたことに気付いたようだ。
なんとなくそんな感じはしたのだが、晴信は全く動かない。柱の陰でじっとこちらを見ているだけだ。
仕方がないので俺の方から近付いていくことにした。もしこれで逃げられでもしたら捕まえるまで永遠に追い続けよう。
「何しているんだ、晴信」
柱を挟んで目の前まで来てみたが、晴信は顔を俺に向けているだけで体制は変えていない。もちろん言葉も発していない。
このままにらめっこをしているのも俺としては面白そうだから構わないのだが、そんなことをしても俺が負けることは確定だし、何より時間がない。
だから晴信の顔を両手で挟み込んでむにむにしてみた。
晴信のやーらかいほっぺたがぐにぐにと形を変える。もちもちとしている肌に触れていると、もうこの手を離そうと言う気が起こらなくなってくるし、何だか手がほっぺにくっついてしまったような錯覚を覚える。
「こにょみゃま、こうしちぇる?」
晴信が反応を示した。
いけない、せっかく話をするためにこうして四半刻も待っていたと言うのに、晴信のほっぺの感触に夢中になって、本代を忘れるところだった。
「晴信、いつからこうしていたんだ」
とりあえずここから聞いておこう、かなり気になっていることだ。
「だいふぁい、しふぁんふぉくまふぇ」
いけない、俺の手が晴信のほっぺから離れない。このあまりにも幸せな感触を手放すことができない。
まあわざわざこの感触を手放すことはないだろう、晴信が嫌がったりしない限りはこうしていよう。
そしてだ、さっき晴信は何と言ったのだろうか? 俺には四半刻前とか聞こえたのだが?
四半刻前と言ったら俺たちが晴信を門の前で待ち始めた時間と同じだ、これが本当なのなら、ちょっといただけない。
「晴信、もしかしなくても、俺たちが晴信のことを待っているの、ずっと見ていたのか?」
「・・・」
晴信の目が俺からそれた。
「は~る~の~ぶ~」
ちょっと怒ってしまおう、これは怒ってもいいはずだ。
お仕置きと言うわけではないが、思いっきり晴信のほっぺをむにむにする。本当にお仕置きではなくて、俺がやりたいだけだと言ってしまって問題ない。
そして数秒ほど俺がこの素晴らしい感触を堪能していると、晴信が反撃だとでも言いたげな目をして俺の頬に向かって手を伸ばしてくる。
「・・・」
しかし、ここで俺はやらかした。ついつい反射的に体を後ろに軽くそらして逃げてしまった。
するとどうなるのか? 簡単なことだが、晴信の手が俺に届かない。それはつまりどういうことかと言うと・・・。
「・・・」
「・・・」
なんとなく身長差のせいで届かないような状態になってしまう。
そしてこの状態は、晴信の自尊心を傷つけるのには十分だったようだ。
晴信の顔がとっても怖いです、とっても怒っているような感じがします。
晴信が一体何に怒っているのかはわからない。自分の身長の低さが憎いのか、俺の身長が高いのが憎いのか、もしかして俺が逃げてしまったことが憎いのか、いずれにしても晴信が怒っていることは変わらない。
とりあえず機嫌を取るには・・・。
俺はいまだに伸ばされたままの手に向かって顔を近づけた。
するとなんということでしょう! つい先ほどまでの怒りの形相は何処へやら、お気に入りのおもちゃを手に入れた子どものようなあどけない笑顔を浮かべているではありませんか!
そしてそのまま触らせ続けていていると、何と晴信ちゃんが柱の陰から出てきたではありませんか! 恐らくは柱の陰からではやりにくかったのでしょう、柱の陰から出てきた晴信ちゃんはさっきにもましてせわしなく手を動かしています。
「・・・」
て、晴信はこんなことをしていて楽しいのだろうか? 俺は晴信のほっぺならいつまででも触っていたいと思えるが、俺のほっぺなんて触っていても気持ちよくもなんともないだろう。どうしてこんなにも楽しそうにしているのかが分からない。
「ひゃるのぶ、ちょっとひゃみぇてくりぇないかな」
俺もとても話しづらい、互いにこんなことをしていたらまともに会話ができない。
だから俺は晴信のほっぺから手を離す、そうしたら晴信も手を離して会話ができると思ったから。
「・・・」
しかし晴信は手を離さなかった、それはそれは幸せそうな笑顔のまま俺のほっぺをいじり続けている。
この幸せそうな晴信の邪魔をすることにちょっと抵抗はあったが、これではいつまでたっても目的を達成できないので、悪いとは思いつつも晴信の両腕を掴んで引きはがした。
これで晴信がちょっとは悲しそうな顔でもするかなと思って覚悟したのだが・・・。
「もう帰るの?」
なんだか普通な感じだ。
これが当たり前なのか? 昨日のうちに今日帰ると言っておいたし、今朝になってからも、朝餉を食べたら発つと言ってあった。それ以前に、晴信自身俺がここに着く前に、すでにそう何日も滞在しないであろうことは予想していたのではないだろうか?
「ああ、だから最後にどうしても晴信に会っておきたかったんだ」
自分で言っていてなんだか恥ずかしい気がしてきたが、もうこっちに来てからの俺のことを思えば今更だ、気にするほどのことでもないことになっている。
「私に会って、どうするの? 食べるの?」
この子は何を言っているのだろうか? 食べる? もう朝餉は食べたのになー、あはははー。
「そんなことをするつもりなんてないよ」
「つまりそうする価値もないと」
どうしてこんなとんでもないところで言葉をぶった切るのかな、こんな風に返されるとこっちは困るなんてものじゃないんだけどな。
でもなんだか晴信の顔が真剣だ、とてもじゃないがふざけて返せるような雰囲気ではない。
「そんなわけないだろ、晴信にその価値がなかったら、俺にとってその価値がある女性なんていないよ」
晴信と景虎は同列だからな、だから晴信が駄目なら必然的に景虎も駄目になるのだ、だから言い方はこれであっているはずだ。
「じゃあさっそく」
「するわけないだろ! 腕に力を入れるな! 俺じゃ勝てないんだから!」
晴信の腕が少しづつ下に下がっていったから驚いた。すぐにとめてくれて本当に安心した。
この子の頭の中を一度覗いてみたい、普段はお花畑でちょうちょでも追いかけていそうな感じなのに、突然頭のねじが抜けたのか何なのかものすごく積極的になるときがある、あれはちょっと怖いと思うことがある。
「じゃあ、会って、どうするつもりだったの?」
「普通に一目会いたかったのと、一言、言っておきたいことがあったんだよ」
「一言・・・なに?」
「行ってきます」
「・・・」
これを一言言っておきたかった、これで奥さんに「いってらっしゃ」と送り出してもらえたら、それは幸せなことだろう。少なくとも俺はとっても幸せだ。
「・・・行ってきます・・・なら、帰ってくるの?」
何を聞いているのだろうか? これは怒っていいのだろうか?
「何を変なことを聞いているんだ? 帰ってくるに決まっているだろ? ここに晴信がいるんだから」
我が家、辞書にでも載せるのなら、こんな風にしたらどうだろうか?
『・我が家――一番安心できる場所。または大切な人が迎えてくれる場所。』
こんな感じでどうだろうか、俺にはこれでいい気がする。
俺にとって一番安心できる場所っていうのは景虎のいる場所だった。でもだからと言って晴信のいるところでは安心できないわけではない。
なら付け足しておこう。『大切な人が迎えてくれる場所』これなら晴信のいる場所も、しっかりと我が家だし、くーちゃんがいるであろう小田原だって我が家だ。
「・・・ここにいて」
「え?」
「・・・何でもない」
晴信が小さくつぶやいた言葉、それはとてもではないが聞き流すことのできない言葉だった。
「何でもないなんてことないだろ。どうしたんだ? 何かあったのか?」
昨日はわざわざ俺の帰りを速めてきたほどだ、なのに今は何でもないといった顔をしながらも行くなと言ってきた。
これは俺の推測だが、晴信は何か無理をしているのではないだろうか。
昨日のどこかぼーとした態度、何をするでもなくとりあえず俺とくっついていたこと、そしてあんなに朝早くからの会話に思い出の将棋、もしかして晴信は・・・。
「奥さんが、夫と一緒にいたいと思うのは、いけないこと?」
俺がなんとなく最悪の結論にたどりつこうとした直前、晴信の言葉によって、俺は現実に引き戻された。
「私は、もっと貴久と一緒にいたい、だからここにいてほしいと言った。言ってしまった。これはいけないこと? 貴久のためを思って我慢してきたけど、思ってはいけなかったの? 言ってもよかったことなの?」
これが、晴信の本音だろうか。
俺と一緒にいたい、だけど俺は越後に行きたがっている、だからここにいてほしいと思いつつも、それを今の今まで表に出さないように努めていたということなのだろうか。
言葉が浮かばなかった。晴信はこんなにも俺のことを思ってくれている。それなのに俺はそんな奥さんを残して遠くへ行こうとしている。こんなひどい仕打ちなんてないだろう。
「・・・だから、言いたくなかった、何でもないって言ったのに」
晴信がどこか呆れたような、ほっとしたような顔をして呟く。今度は俺にもはっきりと聞き取れる大きさの声で。
「こんなことを聞くと、貴久が帰りにくくなる、だから言いたくなかった。ついこぼれてしまった時も何でもないって言った」
ついこぼれたって・・・そんな奥さんを置いていくだなんて・・・。
「大丈夫、そのための一日だったから、貴久成分は一生分補充しておいたから大丈夫」
そんな、そんな嬉しそうな、子どもがおもちゃを自慢するような可愛い笑顔でそんなことを言うなよ。
「そんなこと言うなよ」
俺は掴んでいたままだった腕を離して、晴信を抱きしめた。
「そのための一日だったって・・・一生分だなんて、そんなこと言うなよ」
こういった方がいい気がした。こう言いたかった。
「別れ際に奥さんが、ここにいてって言っちゃいけないだなんて、悲しいこと言うなよ」
こうすれば、晴信はきっとあんな風に返してくれそうな気がしたから。
「今まで、こんな風に夫を送り出したことがない」
だって初めて会ったあの時に、あんなことを言ってくれたんだから。
「だから分からない。こんな時、どんな顔をして夫を送り出したらいいのか、分からないの」
だから俺はこう答えようと決めていたし、こう送り出してもらいたかった。
「笑えば、いいと思うよ」
笑顔がいい。またしばらく会えなくなってしまう大好きな奥さんなんだ、最後に見るのは、やっぱり笑顔がいい。
「・・・」
俺は満足して踵を返した。
晴信は、一言も話さなかった。
でも離れた後に見た顔は、俺を送り出してくれた顔は・・・。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
最高の笑顔だった。




