我が家 壱―しばしの別れ―
我が家。前に俺はこの言葉の意味を一番安心できる場所、と定義していた。今でもそれは間違ってはいないと思う、しかしそれにいくつか付け足しをしたいところだ。
「みんなが起きて、朝餉を食べたら発つよ」
晴信の部屋。まだ朝日がまともに顔を出していないから、お世辞にも明るいとは言えない頃合いだ。
そんな頃合いよりも随分と前、まだ真っ暗と言って差し支え無いどころか文句なしに真っ暗な頃合いから、俺と晴信はわざわざ油を使って火を起こして話をしている。
話の内容は、もっぱら俺の播州までの旅の話だ。旅の途中で見た綺麗な景色、活き活きとしていた動物、出会った個性的な人々、寂れた村や大勢の人の喧騒にあふれた町、そしてそれらを見た俺の主観、そんなことを延々と話していた。
「なら、まだ時間はある」
しかしそんな幸せな時間はもうすぐ終わる。もちろん、こんな時がもう二度と訪れないとかそんなわけではない。ただ、今こうして、晴信と話していられる当たり前が、しばらくの間、当たり前ではなくなるだけだ。
「そうだな・・・まだ、時間はあるな」
でもどうしてだか分からないが、俺は何かに急き立てられるように、会話を途切れさせることなく、こうして暗いうちから晴信と話し続けている。
「それで尾張でのことなんだけどさ、ここで・・・」
「もういい」
旅の話も後半、残すところも少なくなっている状況で、晴信が話を止めた。俺の思い出話も残り少ないと、晴信の方もわかっているだろうに。
「でも」
俺は話をやめたくない、だから話し続けようとしたのだが・・・。
「そろそろ、こっち」
そう言って晴信が押し入れの中から取り出したのは、将棋盤だった。
「こっちがいい」
「・・・そっか、こっちなら、仕方がない」
仕方がないなんてことはない、俺だって晴信と将棋を指したい。
もちろんこれまでに練習するどころか、結局祝言の後に甲斐を去ってからは景虎に一回ご教授願っただけで、それ以外は一度も将棋に触れてはいなかった。
それでも、俺は晴信と将棋を指したかった。もっと他にやりたいことだったある、もっと話もしたい。それでも、晴信とやるのなら、将棋なのではないかと思った。
「・・・」
「・・・」
だから二人で、無言なまま駒を並べ始める。
さすがに駒の並びくらいはなんとか覚えていた。二人ともつつがなく駒を並べ終える。
「・・・」
「・・・」
そして並べ終えた後でも一言も話すことなく将棋を始める。
先攻後攻を決めることはない、全部俺が先攻だ。
こういう先攻後攻がある勝負では、ほとんどの場合で先攻が有利だ。チェスなんかの場合は特に顕著で、後攻は引き分けに持っていければ上々とまで言われているほどだ。
まあこと将棋に置いてはそこまで先行有利と言うわけではないらしい。
しかし俺のような素人に毛も生えないような弱者にはたとえチェスのような大きな有利をもらったとしても関係ない。
それでも関係なくおれが先攻だ。
実力の差は歴然、勝てないことは分かりきっている。だから少しでも長い時間勝負を続けたのなら、ほんのわずかでも何でもあがかないといけない。それでほんの一秒でも晴信と将棋を指している時間が増えるのなら御の字だ。
「・・・」
「・・・」
そしてまたしばらくの間、無言の時間が続く。耳が痛くなるような本当の静寂と言うほどではない、部屋には駒を動かしている音が響いているし、部屋の外からはすでに人が働いていると思われる足音がかすかに聞こえてくる。よく耳を澄ませてみれば遠くに馬のいななきも聞こえたような気がする。
「・・・」
「・・・」
たくさん話をしたい、もっと晴信に触れていたい、もっと晴信のことを知りたい。
「・・・」
「・・・」
しかしどうしてだろう、今こうして勝てないと分かっていながらも真剣に取り組んでいる将棋はとても楽しくて。せっかく終わったのに、また無言のまま、何の迷いもなく二人して駒をもとの位置に戻していく。
「・・・」
「・・・」
実に心地良い。
他にやりたいことはいくらでもあるのに、それなのに、ただ無言で続けているこの将棋はとても心地良い。
他にやりたいことは山ほどあった。
しかし今は、こうして二人だけで、静かに、幸せな時間を過ごしていたいと思ってしまう。
明日・・・いや、もう一刻もしないうちに当たり前にはできなくなること。そう思ってしまうと無性に寂しい。
このままここに残りたい、このままいつまでも晴信と静かでささやかな幸せを享受していきたい。そう思う気持ちは決して小さくはない。
でもそれと同じくらい、俺は景虎とだって一緒にいたい。
もう11月だ。前に約束した。家が潰れてしまうほどの雪を見ると。
それは何も景虎と一緒に見ると約束したわけではない。別にここで晴信と一緒に見ることだってできるだろう。
『なら、見ればいいじゃない。ずっと・・・私と居なさいよ』
景虎と雪を見ようと約束したあの日、景虎はこう言ったんだ。だから、俺は景虎と一緒に雪が見たい。
あの時は大きな勘違いからの言葉だった。それでも、あれだけ真剣に、本気の言葉をぶつけての会話、忘れることはできない。
「・・・」
パチン
駒を置く音が部屋に響いた。プラスチックとは違って、木の駒と盤がぶつかる音は、まるで一つの楽器が奏でている音のようで、とても美しい。
「・・・」
パチン
俺も真似をしていい音を出そうと意識してみた。
かなり似た音を出せていたと思う。それでも、晴信と全く同じ音でもなければ、それよりもいい音が出たというわけでもない。
「・・・」
パチン
晴信がわずかに笑顔になった気がする。晴信がわずかに意識していい音を鳴らした気がする。
「・・・」
パチン
俺もいい音を鳴らそうとしてみる。それでもやっぱり、晴信にはかなわなくて。
「・・・」
パチン
また晴信がいい音を鳴らしてくる。その顔は笑顔で、そして勝ち誇っていて、可愛くて。
今度は俺がとられていた歩を盤に新たに置いてきた。
全く予想していなかった手だ。もうこのまま盤面にある駒を動かしていても、あと数手で俺は完全に積んでいたと思われる。この手は明らかに俺の寿命を縮めに来た一手だ。
「・・・」
・・・。
俺は次の手を打てないでいる。理由は単純にして明快、すべて晴信の勝ち誇った顔が物語っている。
そう、詰んでいるのだ。
もうどう動かしていっても王を取られることは確定だ。動かして逃げる、相手の駒を取って防ぐ、間に何か駒を挟む俺の考え付く簡単な手はすでに摘み取られていて、俺はなんとか次も駒を動かすことはできるが、そこで詰むことが確定している。この勝負はここで終わりのようだ。
「・・・あれ?」
せめてもの悪足掻きとして、目の前の歩を取っておこうとわざと残されていたのであろう玉将の両隣に残された飛車と角のどちらかを使おうとしたのだが・・・
「・・・?」
俺の異変を感じ取ったのか、晴信も俺にならって盤面をのぞき込んできた。
「・・・」
「・・・」
そしてしばらくの静寂の後・・・。
「えい」
晴信が一切の躊躇なく盤面をひっくり返した。
「・・・」
「・・・」
初歩的な反則があった。それは『二歩』と呼ばれる反則だ。
二歩とは、すでに、自分の歩がある縦の列に歩を打つことはできない、と言う決まりのことだ。
晴信が先ほど勝ち誇った顔で俺の寿命を知事めるために打った手が、初心者でもあまりしないと言われる反則になったいたのだ。
「・・・」
「・・・」
俺と晴信の間で横倒しにされている将棋盤、そしてそこから重力に引かれて、下にきれいに積み重なっている駒たち。
だがそんな静寂がいつまでも続くわけもなく。
「まいりました」
晴信が投了した。
どう考えても負けていたのは俺であっただけに、この結末はなんだかすっきりしなかったが、なんだかんだと言っても師匠に勝てたことは素直に嬉しかったりもする。
「・・・もう、将棋もお終い」
晴信がさっきまでの勝ち誇ったような笑みを消して、今度は明らかに沈んだ顔をしながら言ってくる。
「別にお終いじゃなくてもいいだろ」
まだ時間はあるのだ、俺だってあんな形で終わるよりも、どうせ負けるにしたってしっかりと負けてすっきりと終りたい。
「駄目」
「どうして」
「このまま終わった方が、貴久の頭に残るから」
「・・・そっか」
ここで終われば、一応俺が勝ったし、しかも晴信の反則負けと言うまずありえない勝ち方で終わることになる。これ以上頭に残る様な勝ち方と言ったら、本気の勝負で、俺が晴信に勝つ以外ないのではないだろうか。
「お屋形様、朝餉の支度が出来ました」
ちょうどその時、障子の向こう側から信繁の声が聞こえてきた。
声のした方に顔を向けてみれば、障子から明るい朝日が差し込んできていた。
日は昇るのも落ちるのも早い、もしかしたらそんなに時間は経っていないのかもしれない。
「先に行っていて。私も片付けたら行く」
そう言って晴信が駒を箱に収め始めた。
俺も手伝おうかとも思ったが、片付けと言っても、やることは駒を箱に入れて、将棋盤と一緒に押し入れに戻すだけで、やることがない。
「ここで待つよ、すぐだろ」
「・・・」
しかし、ここで俺の言葉を聞いた晴信が一瞬だけ硬直してしまう。そしてすぐに何事もなかったかのように言葉を発した。
「少し、やりたいこともある。だから・・・」
最後は何か言いたいことがあったのだろか、とても言いたそうな顔をしていたような気がする。
でも晴信が先に行けと言っているのだ、残ると言っても断ったのだ、何か言えない理由でもあるのだろう。だから分かったとだけ告げて、俺は晴信の部屋を後にした。
「・・・」
だから・・・いったい何と続けようとしたのだろうか。
自分に呆れてしまった、未練がましいにもほどがある。
あれだけ強い決意をして、あれほどの確信を持てて、それをつい先日決意しなおしたばかりだと言うのに。
「・・・」
とりあえず手を動かして、将棋を片付ける。
「・・・」
どうしてこんなにもてせっせと片付けているのだろうか? これでもう後は押し入れにしまうだけで片付けは終わってしまう。これでは貴久を先に行かせた意味がない、真後ろをついていくだけになってしまう。
もちろんやりたいことがあるだなんていうのは嘘だ。貴久を先に行かせたかっただけ・・・貴久と一緒にいたくなかっただけ。
あのまま一緒にいたら、たぶん貴久を送り出してあげられない。
「・・・」
あとは朝餉だけ、それさえ終われば・・・。
「・・・」
終われば・・・なんだと言うのか。
決まっている、貴久が越後へと帰るのだ、それ以外の何でもない・・・何でもないのだ。
「・・・」
無事に隠し通すことができるだろうか? すでに今の段階で、貴久はかなり怪しんでいるような感じがする。このまま猿芝居を続けていたら、もしかしたらばれてしまうかもしれない。
ここまでも、信繁に助けられた場面があった。あれが意図してやったことなのかどうなのか、そこまでは分からないが、そのおかげでいまだに貴久にばれてはいないのだから・・・これで、いいはずだ。
「・・・」
それよりも、いっそ仕事があるとでも言って、朝餉を食べなければ、もうこのまま貴久に会わずに芝居を終わることができる。
もしかしなくても、これが一番いい選択なのではないだろうか? これで貴久も私も、会えないのだからごちゃごちゃといろんなことで尾を引くこともない。強いて引くことがあると言うのなら、最後の別れ際に会えなかった、それくらいのことだろう。
「・・・」
しかし、頭では分かっていても、体は正直なようだ。ごちゃごちゃといろいろなことを考えていながらも、しっかりと片づけを終えていた。
これでもう貴久の後を追いかけていい、他にやることもないし、もうすぐ貴久が越後へと帰ってしまうのだから、今すぐにでも追いかけて、貴久と一緒にいる時を少しでも増やしたい、そう思っている。
頭でいくら否定しても、体はすでに障子に手をかけ、開き、障子を閉めることさえ忘れて、貴久を追いかけ始めている。
さすがに走ったりはしない。それでも、幾分足は早足になってしまう。
廊下の角を曲がったところで貴久の背中を見つけた。隣には信繁がいる。
二人は特に何を話しているわけでもなく、かと言って何か雰囲気が悪いと言うこともない。恐らく、すでに世間話のようなものは終わってしまったのだろう。
「・・・」
恐らくだが、信繁は私がここにいることは気がついている、貴久は気がついていない。
「・・・」
すでに気づかれている、ならばこうしていることは不自然だ、すぐに二人の元へ行くべきだ、声をかけるべきだ。
体はすぐに動き出した、何も考えることもなく、ただ貴久に向かって足を動かしていた。
「兄ちゃん発見!」
貴久に向かって、数歩だけ歩きだした時だった、小さな影が貴久に向かって飛び込んできた。
「おお、りょうじゃないか、こんなところでどうしたんだ?」
「なんだか兄ちゃんがいそうな気がしたんだ」
りょうと呼ばれている女の子が、貴久に抱き付いている。貴久も当たり前のようにその子を抱き返し、嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「おはよう。襲われなかった?」
「おはようございます、貴久様」
「おはようございます!」
小さな女の子たちが貴久に挨拶をした。二人は祝言の時に見た顔だ、確か名前は向日葵ととら、そして昨日の夕餉を共にしたイリスと言う異国の女の子。
「おお、みんなもおはよう」
そして貴久が幸せそうな笑顔でみんなに挨拶を返している。
「・・・」
恐らくは信繁以外、私の存在に気付いている者はいない。
「・・・」
だから私はそっと踵を返した。誰にも気づかれないように。
「・・・」
朝餉は自分の部屋でとろう。貴久には悪いけど、一緒には食べない。
「・・・」
来た道を戻り、廊下の角を曲がる瞬間に、もう一度だけ貴久の方をちらりと見る。
そして、何事もなかったかのようにそのまま角を曲がり、部屋に向かう。
私は安心できた、貴久は笑顔だったから。
景虎一人だけにできないことに不安もあるが、それは些末な問題であろう。
想像できる、しっかりと。
貴久と景虎が、貴久とあの四人が、とても幸せそうに暮らしている日常を。
「・・・」
とても幸せな気持ちになれた。嘘じゃない。
好きな人が、とてもとても大好きな人が、とてもとても幸せそうに、奥さんと、家族と一緒に平和な日常を過ごしている。これほどまでに幸せなことはないだろう。
ここから越後までは、馬で行くのだからそれほど時間はかからないはずだ、恐らくは10日もあれば、ちゃんと越後まで帰れているだろう。
そしてそこには、きっとさっき思い浮かべたような幸せがそこかしこに転がっているに違いない。
・・・奥さんの務めは、夫に尽くすこと。
だからこれは正しいのだ、絶対に間違ってはいない。
「・・・」
だからこれは何かおかしいのだ、こんなことが起こるはずがないのだ。
「・・・」
どうしても、胸の奥にある熱い何かが、袖を濡らしてしまう。




