小さな夢
お風呂場から晴信の部屋まで帰って来た。現在は晴信とのんびりと夕餉が運ばれてくるのを待っている。
来る途中に見た外の景色はきれいな夕焼けだった。お風呂で暖まった体に11月の夕暮れの風は少々冷たかったが、それが体の熱をいい具合に取ってくれて俺にとってはとても心地よい。
「まさか石鹸があったとは、知らなかった」
さっぱりした。
久しく感じたことのなかったぬるっとしたあの感触。そしてそれを洗い流した後のさっぱりした気持ちがいい感覚、最高だ。
石鹸で洗ってもらって、ちょっと熱めのお湯にゆっくりとつかって疲れを癒す、最高の贅沢と言っていいかもしれない。正直に言うと、ここに風呂上がりの牛乳があったら文句なしなんだけどな。あれは美味しすぎる、あれのためならちょっと高い瓶一本で300円するような牛乳でも迷わずに買えてしまうな、うん。
ゆっくりとお湯につかっていると疲れが取れる、あれは本当だ、なんとなくではなくて、ちゃんと説明ができる。まあ説明と言っても、単に温かいお湯につかっていれば、体が暖められて全身の血の巡りが良くなるし、体にかかる水圧のおかげで普段下半身に溜まってしまっている血が心臓に向かって押し上げられるからむくみが取れる、さらに浮力のおかげで身体にかかる重力が十分の一程度になってくれるから足とおしりの筋肉の緊張を和らげてくれるってだけだ。
つまるところ、お風呂は疲れを取るのに最も有効な手段の一つであると言えるわけだ!
だがひねくれている俺は毎回思ってしまう、『“最も”有効な“手段の一つ”』と言うのはおかしいと。
だって最もなんだろ? 一番なんだろ? なのにその中の一つって・・・なんですか? 幼稚園の運動会か何かですか? みんな頑張ったからみんな一番ですか?
でも、俺も使いそうなんだよな、この言葉。だって奥さんに聞かれたらさ、たぶん言ってしまうと思うんだよ、たとえば「晴信は俺の最も大切な人の一人だ」とか普通に言ってしまいそうなんだよな、だって間違ってはいないし。
景虎も晴信もくーちゃんも、もちろんりょうに向日葵にとら、みんなみんな俺にとっては一番大切な人なのだから。
「せっけん・・・なに、それ?」
おっと、思考の海に沈んでしまっていた、全く何も考えずに廊下を歩いていたはずなのに何にもぶつからなかったのは幸運だったのだろう、だって俺まだ躑躅ヶ崎館の構造を体で覚えてしまうほど歩き回ってないし。
にしても石鹸・・・まだこの名前は使っていなかったか、うっかりだ。
この時代は「せっけん」ではなくて、異国の人が言っている「しゃぼん」をそのまま使っているんだっけ? ていうかこの時代は石鹸としてではなく主に下剤として使われているんだったか?
「さっき使ってたぬるぬるぶくぶくしてたあれだ」
「あれは、しゃぼん」
「ああ、こっちではそう呼ぶみたいだな。あっちでは石鹸って言うんだ。洗濯の時なんかにも使うんだよ、多少原料は違うと思うけどな」
あー、そういえばこっちではまだ石鹸は一般には出回ってないか。こっちで安く生産出来たら儲けられそうだな、今度材料があるか聞いて見よう。
「石鹸」
なんだか晴信が難しい顔をしている。
「どうしたんだ?」
「石鹸は、結構値が張る」
そうだな、具体的にどのくらいの値段だったのかは知らないが、このころ石鹸は公家や大名といった極々限られた人たちしか使えなかった超高級品だ。
だからこそ、安く作って儲けられないかとか考えたわけだが。
「だから、またやろうにも、もう石鹸がない」
そんなに嬉しそうに見えていたのか? 確かにやってほしいとは思っているんだが。
まあ実際にやってもらってことと言えば、本当にただ体を洗ってもらっただけではあるのだが・・・まあ、その・・・ね? 気持ちよかったんだよ、幸せだったんだよ!
・・・あれだけ期待させといて結局エロいことは何にもなかったけどな。
「貴久の助平心を満たすには、あれくらいはしないといけない」
「おい、俺はそこまで助平じゃない」
「でもこうやって発散させてあげないと、そのうち貴久が誰彼かまわずに手を出すただの気持ち悪い人になってしまう」
「んなわけあるか!」
さすがに声を荒げてしまった。まさか実の奥さんにこんなひどい言われようをしようとは・・・俺はそこまで信用がなかったのか。
それと鋳物を聞いて思い出したが、それってまんま本田元亘のことなんじゃないのか? 晴信に元亘のことを話してみようか? なんだかおもしろそうな気がする。
「でも、放っておいたら嫁は増えた。景虎と私との祝言の前後では増えていない。そして今回の旅でも、道半ばの辺りまで進んだ近江までは何ともなかったのに、その近江で嫁・・・候補が増えた」
うわ~なんだか説得力がある気がしてくるな、こうして言って聞かされると。
て言うか誰だよ、長政たちのこと喋ったの・・・たぶん昌幸辺りが報告したんだろなー。昌幸は晴信の家臣なんだから、報告するのは当たり前なんだけど。
「長政は嫁でも何でもないよ。呼び方も久兄様だし」
兄様だからな、恋愛感情なんて・・・少なくとも今はないだろう。
それに、次に会うのは当分先のことだろうしな、そのころには互いに変な意識をすることなんてないだろう。
「でも、少なくとも一人、増えている」
誰だ? 向日葵のことは昌幸の報告がどうなっていたのかは知らないが、あのやり取りは見ていたはずだから、わざわざ嫁だと報告することはないと思うのだが・・・。
「あの髪が金色で、目の色が青い子」
「ちょっと待て! 昌幸にどんな報告を受けた! 俺とイリスはそんな中じゃない! 大体呼び方だってパパだっただろ!」
「ぱぱって、どういう意味なの」
ぐわ! パパの意味は分からないか、当たり前のことなのにうっかりしていた。
「・・・ぱぱ?」
「・・・」
効果は抜群だ!
いかんいかん、あまりの可愛らしさに思わずぎゅっとしてしまった。
絶妙な角度で傾けられた首、「わかりません」みたいな感じを如実に表している目、後晴信がもともと持っているほんわかした感じの雰囲気! あまりにも可愛らしくてぎゅっとしてしまった。
「ぱぱ」
「晴信、やめてくれ。あまりの可愛らしさにどうにかなってしまいそうだ」
「後ろ」
・・・後ろ?
はて、ここは晴信のお部屋だぞ? 誰かが勝手に入ってくることはない。
だがこうして晴信が普通にしているのだから、刺客か何かが勝手に入ってきたわけではないのだろう。つまり、俺が声をかけられたのに気がつかなかった、そういうことに違いない。晴信の方は町中でも普通にくっついてきたほどだ、今更家臣に見られても問題ないとか考えているかもしれない。
「パパ?」
・・・パパ?
声が後ろから聞こえた。
聞いたことがあるどころか、パパと呼んで慕ってくれている、もはや家族と呼んで構わないと思っている人の声。
「・・・イリス、いつからそこに?」
驚いていたせいで日本語で話してしまった。イリスは俺が何を言っているのかわからなくて困ってしまっている。こちらとしてはその可愛い顔をもう少し見ていたいとか思ってしまうのだが・・・その前に、どうやって入ってきたんだ?
「やはり兄上様のことでしたか」
その声の方に視線を移してみれば、そこには少々困り顔で俺と晴信、イリスを交互に見ている信繁がいた。
「いりす・・・その子の名前?」
「あ、ああ。紹介するよ、尾張で会って、これからは越後にある長屋で一緒に暮らすことになった、イリスだ」
「よろいく?」
「よろしく、だよ、イリス」
「よーしく!」
うん、言えてないからな・・・可愛いから俺はいいけど。
最近イリスは俺の言葉をよく真似するようになった、おかげで最近はしっかりと「おはようございます」と「おやすみなさい」「いただきます」の三つだけは言えるようになった。やはりこの三つだけはどうせ練習してくれるのなら言えるようになってもらいたかったからな。
「よろしく、イリスちゃん」
上手く言えてはいなかったが意味はしっかりと伝わっているから晴信はちゃんと返してくれた。
「で、イリスはどうしてこんなところに来たんだ?」
これは日本語で話しているから、もちろん信繁に向けた言葉だ。なんだか付き添っている感じだから、言葉が通じないから全てとまではいわないが、ある程度ここまで来た経緯を説明してくれるだろう。
「この子が廊下をうろうろしていたのですが、周りのものはこの見た目のせいで話しかけるのをためらってしまいまして」
「それで信繁が駆り出されたと?」
「いえ、私も見つけてしまいまして・・・」
「パパ!」
我慢できなくなったのか、イリスが勢いよく俺の胸に飛び込んできた。
「おお、どうしたんだ、イリス」
なんだかやたらと元気なようだが、いったいどうしたのだろうか?
「パパ、ぎゅー!」
どうやら何となくぎゅーっとしたかっただけのようだ。
そういえば最近はほとんど構っていなかった気がする。もうすぐお別れだと言われてくーちゃんと一緒にいる時間が長かったし、こっちに来てからはほとんど晴信と一緒にいた。それ以外の時間はあの三人と一緒にいたからな。
イリスはだいたい静かにしていた。それはたぶんだが、言葉が通じないとか、知らない人ばかりだと言う不安がそうさせていたのだろう。もしかしなくてもこれは大人しかったのではなくて、怖がっていたのかもしれない。これはもっと気にかけてかまってあげないといけなかった。連れてきた俺の責任なんだから。
「よしよし」
だから俺もイリスを優しく抱きしめながら頭をなでる。イリスも嬉しそうにさらに強く抱き付いて来てくれた。
「・・・」
そしてその光景を晴信がとてもうらやましそうな目で見たいた。
これは困ってしまう。別に二人同時に抱きしめることもできるのだが、イリスと晴信を同じ気持ちで抱きしめることはできないから困ってしまう。
俺はそんな風に悩んだがしかし、イリスはそんなことお構いなしだ。
「ママ!」
晴信に向かって片手を伸ばしながらそんなことを言っていた。
「・・・まま?」
言葉の意味を理解できてはいないようだが、なんとなくさっきのぱぱとの対比からおおよそ意味を想像できたのだろう、両の目が爛々と輝いている。
「貴久、ままって、どういう意味」
そんなに迫ってこないでください答えますから近いです近いです!
晴信がさっきまでは爛々と輝いていた目を今はさらにぎらぎらとぎらつかせながら俺に迫ってきていた。
て言うかこんなに近かったらもう普通にぎゅっとしているのと大差ない。
「ママ!」
イリスがのばしていた手で晴信の服の裾を掴んだ。俺と晴信の二人に抱き付いている感じだ。
「パパ、ママ」
そして抱き付いてきているイリスはこの上なく幸せそうだ。抱き付いている腕は力強く、顔は優しい笑顔に彩られている。
「I have a dream(私には夢がある)」
「ん?」
突然イリスが前にも言っていた有名な言葉を発した。
しかしあの言葉を今言う必要はないだろう。仮に晴信が甲斐の国主だと知っているのならば、その力を頼りにしているということも考えられないことはないが、イリスは俺以外とはまともに話をすることはできないからそれを知っているとは思えない。
「that one day ……(いつの日か)」
イリスは小さな声で、ゆっくりと、とても嬉しそうに言った。
「to eat with a papa and mama(パパとママと一緒に食事をすることよ)」
「・・・はは」
ちょっとおかしかったから笑ってしまった。
本当は笑うようなことじゃない、イリスのささやかだけど叶えられない、とても大切な夢。叶えてあげられるかもしれない、とても大切な夢。
そうなったらどれだけ嬉しいことか、イリスにとっても、俺にとっても。
「イリスは食いしん坊だな」
ちょっとおかしくて、そして可愛くて、だからふざけてしまった。この夢が、こうしてふざけていても簡単に叶えられるほど、簡単な夢であってほしいから。
「なんて言ったの?」
英語のわからない晴信が、イリスが何と言ったのかを聞いてくる。
「私の夢は、パパとママと一緒に食事をすること、だってさ」
イリスの夢を聞いた晴信は、笑うでもなく呆けるでもなく、小さな微笑みを浮かべながらイリスを優しく抱きしめながら囁く。
「貴久が、あなたのパパ。そして私が、あなたのママ」
小さな囁きだった。俺にぎりぎり届いた、イリスにもぎりぎり届いていることだろう。
「パパ、ママ」
言葉は分からないはずなのに、なぜかその時イリスは、さっきよりも嬉しそうな笑顔になって、俺たちに抱き付く腕に力を込めた。
夕焼け。淡い光を通す障子は部屋をきれいな橙色に染め上げ、その障子自身は同じ橙色ながらも、一層輝いているようにも見えるのに、それでも派手な自己主張をするわけでもなくて。
きっとこの障子は、昨日もこの姿をしていたのだろう。そして今日もこの姿をした。それは明日も明後日も、これからもずっと変わることはない日常の当り前。
「晴信」
「なに」
イリスのささやかな夢。普段の日常の一コマと言える当たり前。
「今日の夕餉は、三人で食べよう」
血は繋がっていない、それでも。
「パパ、ママ」
イリスと一緒に食事をする、俺にとっての当り前。俺がこの世を去るか、イリスが俺の元を離れるまでは、これから先、ずっとずっと当たり前に続いていく日常。
腕の中にあるのは小さなぬくもり。この小さな子の小さな夢を、叶えてあげられるのなら、それはきっと、幸せなことに違いない。




