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最後に

「それじゃあ、私は帰るから。怪我や病には気を付けてね」

 やっとこさ真っ暗な夜空が白んできたところ、俺たちはくーちゃんの見送りに躑躅ヶ崎館の門の前までやってきていた。

 見送りには俺と晴信、向日葵、段蔵が出てきている。

 特に関わりになかった人の見送りはくーちゃんが断ったから、昌幸は仕事で、りょうととらとイリスの三人はまだ夢の中で、半兵衛は辞退したためにこの人数になった。

 くーちゃんには、俺の護衛のために尾張からこうして甲斐まで付いて来てもらったが、そもそも北条から織田への使者として動いていたのだから、甲斐に長居しているわけにはいかない。

「そっちこそ、本当に気をつけてな。俺はくーちゃんが涎を垂らしながらお腹を出してくーくー寝ているさまが鮮明に思い浮かぶから」

「おお、くーちゃんの由来が出た」

 くーちゃんってのはくーくー寝ているからって理由で付けたあだ名だったからな。

「ま、貴久以外にそんな姿はそうそうさらさないから気にしなくていいよ」

「当り前だ」

 そりゃそうじゃなきゃ当主とかできないだろ。

 ていうかそうそうさらさないってことはたまにはさらしているのか?

「そうだ、小太郎にもよろしく言っておいてくれ」

 小太郎は先日、一足早く甲斐を発って小田原の北条氏康殿のところに向かっている。

「はいはい。それじゃ、話し込んだら早起きした意味がなくなっちゃうからそろそろ行くね」

「おう、元気でな」

 最後に軽く言葉を交わしてから、くーちゃんが自分の馬の元へ・・・行ってから引き返してきた。

「貴久」

 そして俺に飛びついてくると、耳元でそっと囁いた。

「ここに、君の家族がいるんだからね。忘れないで」

 そんなことを言った後、一度腕に力を込めてぎゅっとして、今度こそ馬にまたがって小田原へ帰って行った。

「・・・」

 最後のは何だったのだろうか?

 そりゃくーちゃんはもう大切な家族だと言ってこちらとしては問題ない。まして忘れるなんてことはないと思うんだが・・・。

「最後のは何だったの。何か言っていたけど」

 しかし俺の思考は底冷えのするような向日葵の声にさえぎられた。

「いや、たぶん・・・もう家族だからね、て事を言ったんだと思う」

 たぶんそうなんだよな? あれはちょっと念を押したくらいの意味なんだよな?

「何と生意気な、まだ公に言っていない段階で貴久の嫁を名乗るとは」

「まあ言ってはいなくても、本人同士の間ではもうそんな感じだしな」

 今更になってくーちゃんに「やっぱやめよ」とか「本当は嫌いなんだけど、北条のために仕方がなく」とか言われたらへこむどころでは済まない。

「で、私たちは何時?」

「何時、とは?」

「越後に帰る日。甲斐を発つ日」

 そうだなー・・・晴信とだって、もちろんもっと一緒にいたいが、それで越後に帰るのが遅れるのはよろしくはない。

「じゃあ・・・明後日、二日後にここを発とう」

「あいよ」

 こうして俺たちは二日後に甲斐を発つことに決めた。


「もっとゆっくりしていけばいい」

 と、晴信に話したら当たり前のように引き止められました。

「播州へ向かったのが二月前、なら今は甲斐にいる予定。越後じゃなくて甲斐にいる期間」

 おっと、こんな風に言われてしまうとこっちとしてはぐうの音も出ないんだが・・・出さないとな。

「でも景虎にだって無事に帰ったよくらいのことは言っておかないとさ」

「便りはここからでも出せる。ここに一月滞在してから景虎のところに向かっても問題はない」

 ギャフン! うぅ~ん、やっぱりしばらくは甲斐にいるべきなのかな~?

「・・・」

 そんな風に俺が頭の中で困っていると、やっぱり顔に出ていたのか、晴信が優しい声で言ってきた。

「そんなに悩まなくてもいい。帰りたいのなら、そう言ってくれればいい。私は反対してしまうけど、そう言って出て行ってくれればいい」

「そんな、出て行くだなんて」

 それは酷すぎやしないだろうか。

「私は貴久の奥さん、貴久の邪魔はしない」

「それは違うだろ? 奥さんだから、夫に甘える権利が、わがまま言う特権があるんだろ?」

「そんなことはない。奥さんの務めは、夫に尽くすこと」

 そんなこと、俺は望んではいないんだけどな。

「だから、いい」

 しかし晴信は何とも満足そうだ。顔には笑みがたたえられている

 晴信がこれで満足するのなら、これが晴信の望みなのなら、俺はそれでいい。

「じゃあ、俺は越後に帰るよ」

「・・・二日後は都合が悪い、どうしても越後に行くのなら、明日にしてほしい」

 ・・・まさか、晴信の方から一緒にいられる時間を縮めてくるとは。

「別に見送りとかそんなことはしなくてもいいんだぞ? どんな予定があるのかは知らないけど、もしかしたら時間ができるかもしれないんだから、わざわざ早く帰ることはないだろ?」

「いい」

 しかし、晴信はさっきまでの笑みを消して、真剣な顔で言ってきた。

「早く帰って、景虎に無事を報告してあげて」

「・・・」

 なんとなく胸騒ぎがする。

 これは本当に何となく、何の根拠もなく胸に沸き起こった。

 ただ何となく、さっきの晴信の言葉に俺は違和感を覚えた。

「じゃあ、私は仕事がある。夜までには時間を作るから、帰るまでは私のために時間を取るように」

「・・・はは、夫に尽くすのが、奥さんの務めなんじゃなかったのか?」

 さっきと言っていることが違う。

 もちろん俺の方は晴信のために時間をとるとらないに関わらず、仕事も何もないからいくらでも時間があるのだが。

「奥さんには、夫に甘える権利と、わがまま言う特権がある」

「おっと、その通りだな」

 さっき自分が言ったことを返されてしまった、これは言い訳できそうにない。

「じゃあ、時間ができたらいつでも呼んでくれ。すぐに来るから」

「うん。

 それじゃあ、また後で」

「ああ、また後で」

 さっきの胸騒ぎは気になるが、もうほとんど気にならない。きっとどうでもいいことだったのだろう。

 だから俺は、先ほどの胸騒ぎについて深く考えることもなく、晴信の部屋を出た。


「時間出来るの早すぎだし出来すぎだろ」

「それは私が頑張ったから。褒めて」

 晴信が俺の背中にべたーっと張り付いている。幸せそうだ。

 晴信の部屋を出て半刻もしないうちに、信繁が俺の部屋に来て晴信が俺を呼んでいることを伝えに来た。

 こんなに早く何だろう? と思いながら晴信に会いに行ってみると、何と、もう仕事が終わったから遊ぼうと言ってきた。

 ・・・こんなに早く終わるのなら部屋の隅で待っていてもよかったと思うのだが。

「で、俺としては晴信とこうしていることに何の不満もないが、晴信としてはどうしてほしいんだ?」

 すると晴信は・・・特に何もしなかった。

 俺に問われても何も言わずただぽけ~っと俺の肩から目の前の障子を覗いていた。

「おーい、晴信? どうしたんだ~?」

 今まで何かしてほしいかと言われたら、とりあえず何かしらしてほしいことを伝えてくれていた晴信が何も言ってこないのはちょっと変だ。

「・・・どうもしない」

 あ、喋ってくれた。

「じゃあどうしてほしいのか、教えてくれないか?」

「・・・」

 しかしまた質問すると、晴信は黙ってしまった。

「晴信?」

「・・・このままでいい」

 このままとは、このままだろうか?

「このままのんびりとしていたい」

「・・・そうか」

 特に何かしたいというわけでもなかったが、晴信が何かしたいと言い出さなかった事にはちょっと驚いた。

「こうしていると、なんとなく幸せ」

「そっか、なんとなく幸せか。なら仕方がないな」

 しかし晴信が幸せだというのならそれで問題あるまい。何も無理して何かしなくてはいけないわけではないのだから。

「そう・・・仕方がない」

 今晴信の言葉の中に、一瞬間があったような気がした。気になって晴信の方を向くと。

「・・・」

「・・・」

 晴信も俺のことを見ていた。

 潤んだ瞳が、俺のことをまっすぐに見つめていた。頬はほんのりと赤く上気し、顔や首にかかる吐息はとても熱かった。

「貴久」

 晴信が目を閉じた。恐らくはそういうことなのだろう。

 俺がなんとなく空気を読んで口づけを・・・しようとしたら。

「・・・」

「・・・」

 晴信に先手を打たれた。俺が思考し、行動に移すよりも早く、晴信の唇が俺を止めにかかった。

 軽く唇がふれているだけ。それだけなのに、先ほどまで自由に動いていた体と自由に考えられていた頭は、完全に停止していた。

「貴久」

 晴信が唇を離した。そしてまたさっきまでと同じように、俺の背中にぎゅっと抱き付いてきた。

「・・・」

 俺はようやく動き始めた頭で状況を整理する。

 何、難しいことじゃない、ただ晴信が俺に口づけをしただけだ、それだけだ。

「・・・」

 なのにどうしてだろう、嬉しいはずなのに。

「・・・」

 背中からは、小さな震えが伝わってくる。その震えが、幸せな気持ちを吹き飛ばしていく。

「晴信、どうしたんだ」

「・・・」

 しかし、晴信は俺の問いに答えてはくれない。

「・・・恥ずかしい」

「・・・え?」

「恥ずかしいから、待って」

「何をいまさら」

 本当に何をいまさら言っているのか。それこそ初夜なんて人のことを縛りつけていたというのに。

「恥ずかしいものは、恥ずかしい」

「・・・そっか」

 まあ、そんなこともあるのだろう。こうなってしまうと、俺にできるのはただ晴信が普通に戻るまでじっとしているだけだ。



「(・・・気づかれただろうか)」

 自分ではいまいち誤魔化せた気がしない。貴久だって馬鹿ではないのだから。

 しかし、貴久は前を向いたまま動かない、上手いこと誤魔化されてくれたみたいで、私が言った通り震えが止まるのを待ってくれるようだ。

 自分は、恥ずかしさのあまり震えるということがあるのかどうかわからないから、これで貴久が誤魔化されてしまったことを不思議に思ってしまうが、今は誤魔化されてくれたのなら何でもいい。

「・・・」

 もう決めたことなのに。あれだけ強い確信を持てたのに、それでも不安だし、心配でもある。

「・・・」

 でも・・・不安、心配、そんなことよりも強い感情がある。そんなことだと言えてしまうほどに強い感情が。

「・・・」

 無意識にだった、気がつけば貴久の服を強く握りしめていた。

「・・・」

 離そうと思っても、自分の意志ではどうにもできなかった。

「・・・」

 手放したくない。

 どうしてもこの気持ちが捨てられない。

 捨てなくちゃいけないのに、そうしないと苦しいだけなのに。それでも・・・。

「・・・貴久」

 すがってしまった。

「どうしたんだ、恥ずかしいんじゃなかったのか?」

 困ってしまう、この声を聴くだけで、震えが止まってしまった。

「・・・」

 だからせめて、演技を続けなければ。絶対に悟られたりはしない。

「・・・」

 困ってしまう、また震えてきた。

 演技を続ける、愛する人のためにはそれが一番いい。今でもその考えは変わらないし、そのために取る行動も最善であると自負している。

「・・・」

 明日、貴久が越後へと帰る・・・。

 ・・・そう、帰るのだ。

 貴久がいるに足りる場所。貴久がいるにふさわしい場所。そんなところならきっとたくさんある。

「・・・」

 でもきっと、貴久が居たい場所は一つしかない。

 きっと貴久は否定する。でも私は分かる。分かってしまう。

「・・・」

 貴久が居たい場所、それは間違いなく・・・。

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