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帰って来た

 帰ってきた、そう感じられるのは晴信がいるからだろうか。

 初めて晴信に会ったのは暑い夏だった。晴信はいつごろまで青虫を探していたのだろうか。

 そして今川と北条の甲斐侵攻に際してほんの数日顔を合わせたきりで、その後はこうして播州まで行って帰ってきた。

 播州への旅がおおよそ二月。思えば晴信と一緒にいた時間は短すぎる。

 川中島であったときはわずか二日間。次に会ったのは祝言を挙げたときで九日間。その後越後で一月過ごしたのちに、甲斐防衛のために甲斐に出向いた時に合わせて三日ほど。合わせても半月に満たない。

「元気にしているかな」

「晴信のことかい?」

 思わずこぼれたつぶやきをくーちゃんが拾った。

「そうだよ、かれこれもう二月近いからね。季節も変わったし、そろそろ冬の準備もしっかりしていないといけない時期だ。忙しくしているところにお邪魔するのもなんだか気が引けるしね」

 冬。こっちではどのくらいの雪が降るのだろうか? 前に景虎と約束した、家が潰れてしまうほどの大雪。今でも見たいが、仮にも国主の夫、そんな民たちにとってあまりにも喜ばしくないことは言葉にするのはよろしくない。

「そんなことを晴信の前で言ったりしたら刺されるかもよ」

 そんなに悪いことを言っただろうか?

「そんな貴久の勝手な思い込みで気を使っても喜ばれないよ。晴信は本当に邪魔だ迷惑だって思ったらここまで来る間に昌幸でもだれでもいいから来るなって言ってくる人だよ」

 確かにその通りだ。前は命もかかっていたからかもしれないが、甲斐防衛の時に晴信は俺に来るなと言ってきた。俺が余計な気を使うことなんてないか。

「そうだな、じゃあ歓迎されていると思って存分に再会を喜ぶとしよう」

 早く会いたいな、晴信に。


「てっきり門に来ていると思った」

「お屋形様はそんなに暇ではありませんよ、兄上様」

 前に甲斐防衛のために来た時には門で待ち構えていたが?

 躑躅ヶ崎館に着いた。今は信繁と二人で晴信の部屋に向かっている。

 何となく、晴信に一番に迎えてほしかったわけではないが、期待はしていしまっていた。でも晴信だって暇ではないのだ、これが普通、むしろ時間を取ってもらえるだけありがたいのだ。

「お屋形様、兄上様をお連れしました」

 そしてそんなことを考えている間に晴信の部屋の前についていた。

「入って」

 中から短い返事が帰ってきた。

 久しぶりに聞いた愛しい人の声。声を聴いただけで胸がざわついてしまう。

 早く会いたい。障子一枚隔てた先に愛しい人がいる。障子を突き破ってでも今すぐに愛しい人に会いたいという思いはあるが、常識と言うものがそれを止める。

 信繁が障子を開けようとしている動作がとても遅く感じる。こんなところで世界をゆっくりに感じなくてもいいだろうに。どうせなら晴信と一緒にいる時間を長く感じたい。

 信繁の手が障子にかかる。そしてその手がゆっくりと引かれ、障子が開いていく。そして・・・。

「わー」

 変なお面をつけた晴信が両手を挙げて「がおー!」みたいな格好をしている。

 何なんだ? これは驚けばいいのか?

「う、うわー・・・驚いたなー」

「・・・」

「お屋形様、驚いて差し上げたいのはやまやまなのですが、ここで大声を出すと皆が集まってしまいますので」

「・・・」

 あ、お面をつけたままの晴信が手を上げた格好のまま固まってしまった。なんとなくへこんでいるような気がする。

 というかこのお面は何処から仕入れてきたのだろう? 木彫りの・・・猿か?

「このお面を売った商人は嘘つき。排除しなくては」

「こらこら、物騒なことを言うな。お面が悪いと思わずに、自分が悪いと思って諦めなさい」

 実際さっきの晴信の「がおー」で驚く人はいない気がする。あ、もしかしたら「がおー」ってことは熊か何かかもしれないな。

「もう今日はこのままいく」

 これは拗ねているのかな? 俺たちが全く驚かなかったことに拗ねているのかな?

「お屋形様、この後皆を集めての評定もありますので、お面は外していただけませんか?」

 あ、晴信がお面を外した。

 せっかく二月ぶりに愛しい奥さんの顔を見られるというのに、さっきのお面のせいで感動も感慨も吹っ飛んでしまった。

「・・・」

 ごめんなさいそんなことありませんでした謝りますからこの可愛い生き物をぎゅっとさせてください!

 お面を外した晴信は拗ねていた。それはもう拗ねていた。頬をリスのように膨らませて可愛らしく拗ねていた。

「あげる」

 晴信がお面を信繁に押し付けた。どうやらまたやろうという気はないようだ。

「ありがたく受け取らせていただきます」

 信繁も普通にもらっていた。俺はさすがにあのお面はいらないけどな。

「あ、そうだ。晴信、これ堺に行ったからお土産」

 俺は手に持っていた小さな木箱を晴信に渡した。

「開けてもいい?」

 反応が早い。まだ箱を渡しきっていなかった気がするのだが・・・。

 目がキラキラしている。新しいおもちゃを買ってもらった子どものようにキラキラと輝いている。

「どうぞ」

 開けられて困るどころか、開けてもらわないと何のために買ってきたのか分からなくなってしまうから、むしろ開けてほしい。別にここでなくてもいいのではあるが。

「なんだか、普通」

 もしかしてこれはがっかりされているのだろうか、俺は大失敗をしたのだろうか⁉

「晴信には・・・華美なものよりも、こんな感じの・・・無駄な飾り気がない方が似合うと・・・思ったから」

 木箱から出てきたのは、いたって普通の櫛だ。

 一本の木からきりだした櫛で、装飾と言ったら手に持つところにある曲線一本のみだ。

「その・・・ごめん、気に入らなかったかな」

 やっぱり何でもいいということはないよな、俺じゃないんだし。

「そんなことない、とっても気に入った」

 ちょっと落ち込んだところに、この花も恥じらう笑顔は反則だろう。

「そっそっか、気に入ったのなら良かった」

 くそ~、さっきの可愛い晴信が頭から離れない。さっきからずっと居座っていて、晴信の顔をまともに見られない!

「どうして、これを選んだの?」

 と、ここで晴信が花も恥じらう笑顔のまま不思議なことを聞いてくる。

「え、それはさっき・・・」

「無駄な飾り気がない、さっき言ってた。でも、それだけ?」

 ・・・まさかばれるとは。

「その・・・何となくさ、そのうねうね~ってなってるところがさ、青虫さんみたいだったからさ・・・」

 くそー、なんか言っていたらやたらと恥ずかしくなってきた。

 ていうか晴信は絶対に気づいてただろ!

 くそー、もう言った後だから遅いけど、あんなこと言わなきゃよかった。恥ずかしすぎる。

「嬉しい」

 晴信がぎゅっとしてくる。

「ちゃんと覚えていてくれて」

 か、か・・・。

「当たり前だろ!」

 可愛いーーーー!

 何なんだこの可愛い生物は! たまらずぎゅーっとしてしまったではないか!

 ああくそくそ、可愛いなあもう。恥ずかしいとか関係なかった、この可愛い晴信のためなら何でもできてしまいそうだ。

 晴信も俺の主観だが何とも幸せそうだ。顔はぎゅっとしているから分からないが、さっきから俺の腰に回されている腕の力が徐々に強くなってきている。

 晴信は感情が表に出てくると制御が効かなくなる感じがするからな、これはそれだろう。

「貴久! 貴久!」

 俺の顔を見ながら晴信が名前を呼んでくる。

「どうしたんだい」

「髪、梳いて!」

 晴信が俺の腰に回していた腕を解いてその手に持っていた、今さっき俺がわたしたばかりの櫛を差し出してくる。

 櫛を差し出してくる晴信は嬉しそうで、楽しそうで、子どものように無邪気で。こんな晴信に頼まれて駄目だなんてとても言えない。

「分かったよ」

 俺の返事を聞いて、嬉しそうな顔をさらに嬉しそうに輝かせ、俺の腕を引いて部屋の中に引き込んだ。



「何より」

 誰にも聞こえない程に小さな声でつぶやいてから、私は音がしないように障子を閉じた。

 あんなに楽しそうなお屋形様を見たのはいつ以来だろうか?

 恐らくはあの時、今川と北条を退けた後にお屋形様と兄上様、それと長尾を交えた三人で話をしていた時だろう。私が見た中ではさらにお屋形様と兄上様の祝言までさかのぼってしまう。

 それほどまでに見ていない。あんなにも楽しそうに笑うお屋形様を。

 できることなら、こんな日が、こんな時間がずっと続けばいい。

 ・・・いや、続けるのだ、私が。

 誰が何と言おうと、私にとって一番に考えるのはお屋形様・・・姉上なのだ。

 甲斐の平和を願っている。みんなの幸せも願っている。

 だがしかし、何よりも、私は姉上の幸せを願っている。

 それなのに、姉上は今・・・。

 余計なお世話と言うやつだ。だってこれは、他ならぬ姉上自身が決めたことなのだから。

 なら私は、ただその命令に従っていればいい、それが家臣のやるべきことだ。

「・・・」

 しかし、本当にそれでいいのか。

 考えてしまう自分がいる。

 こんなことを考えているのは、家臣としてあまり良いことではない。

 しかし、本当にそれでいいのか。

 全く考えていない自分がいる。

 この選択が、姉上のためにならないと断言している武田信繁がいる。

「・・・」

 姉上の、幸せのために。

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