甲斐防衛 漆ー関係ー
「じゃあ、とりあえず行ってらっしゃい」
くーちゃんが手を振って別れを告げてくる。
津久井城でなんやかんやとやって、くーちゃんと夫婦になる約束をしたその日のうちに上野原城へ帰ってきた。道中は危険だからと、くーちゃんがここまで送ってくれた。
「もしかしたら明日もよろしく」
もしかしたら、というのは、景虎がすでに岩殿城へ帰ってしまっていた時のことである。その時はくーちゃんがさらに岩殿城まで送ってくれるそうだ。
さすがにそこまで来るとくーちゃんが危ないと思って断ったのだが、くーちゃんは大丈夫の一点張りで現在に至っている。
「それじゃあ、俺はもう行くから、くーちゃんもちゃんと屋根のあるところでしっかり休んでくれよ」
「はいはーい」
くーちゃんは適当に返事をしてもと来た道を戻り始めた。
戻っていったら山に着くはずなんだが・・・獲物をしとめてから宿を探すのだろうか?
まあくーちゃんはしっかりしているから大丈夫だろう。
それよりも、俺はまず他人の心配より自分の心配をしないといけない。
とにかく今は走って上野原城へ向かっている。とにかく1秒でも早く景虎に無事を伝えなくてはいけない。
その後には勝手にいなくなったことを怒られる。そこに今度は北条氏政と夫婦になることを認めてもらわないといけない。
景虎は怒るに違いない、しかしこればかりは認めてもらわないといけない。
きっかけはなんとなく、決定打は責任からだった、しかし今俺がくーちゃんと夫婦になりたいと思っているのはなんとなくなんてあやふやな気持ちでも、責任からくるものでもない、俺はくーちゃんが好きだから夫婦になろうと考えているのだ。責任は後に引けない理由ではあるが、夫婦になりたいと思う理由ではない。
それにこの祝言が決まれば北条との戦は回避できる。景虎と晴信には申し訳ない気持ちでいっぱいだが、とにかく今は話してみないといけない。
そして景虎の部屋の前にたどり着いた。
ここに来る途中に門番に止められたりいろいろと大変だったが、どういう指示を受けているのか知らないが最初は俺が誰だかわからなかったのか通してくれなかったが、加藤貴久だと言ったら通してくれた。俺がいなくなったことが知れているなら、間者か何かだと思って捕らえると思うのだが・・・。
まあとにかく今はスムーズに景虎のもとにたどり着けたので良しとしよう。
「景虎!」
俺は覚悟を決めて勢いよく障子を開く。
「あれ?」
しかし覚悟を決めて部屋に突入したのに、部屋は無人だった。
てっきり部屋にいると思ったのだが、違ったようだ。
俺を門番が通したから景虎はまだ上野原城にいるはずだ、だが部屋にはいない、ならどこにいるのか? 評定の間か町に出てしまっているのだろうか?
「ぐ~」
景虎の居場所を考えていたらお腹が鳴った。
こんな時に鳴るのはちょっと緊張感に欠けると思うが、なんとなくこれのおかげで景虎のいそうな場所に心当たりができた。
台所に近づくにつれて食欲をくすぐる美味しそうな味噌の香りが漂ってくる。
台所を覗いてみると、探していた人を見つけた。
しかしその人の背中はとても小さい。美しい白銀の髪は力なく垂れているだけに見える。目の前にある竈で燃える薪は赤々と燃え、ぱちぱちという音だけが聞こえる。
俺は何とも言えない気分になったが、意を決して中に入る。
途中で気がついたのか、目の前にある小さな背中が小さく動いた。
そして何も言わすに隣に立つ。
「よかった、今日は冷める前に帰ってこられた」
目の前の大きな鍋からみそ汁が湯気が立ち昇っている。大きめに切られた里芋と大根が存在感を放っているにもかかわらず、小さいながらもそれに負けじと白い豆腐が輝いている。
「美味しそうなみそ汁じゃないか」
「・・・当り前よ」
小さい、隣にいる俺でもうまく聞き取れないほど小さな声。
「わ、私が・・・あなたのために・・・つくって・・・」
声が震えている、だんだんと発せられる言葉が意味を成さないほど細切れに切れて何を言っているのかわからなくなってくる。
「・・・だ・・・ゎ・・・・・・ぁ・・・・・・・・・ばか・・・」
ばか、という言葉だけが耳に残る。
「ばか~」
隣から聞こえる声は小さくてよく聞こえない。しかし、しゃくりあげる音だけはやたらと大きく聞こえてくる。
「ばかーーーー!」
俺の愛しい奥さんが、長尾景虎が、腕に抱き付いてくる。
「ばかーーーーーーー!」
泣きながらばかばかと言ってくる。
俺は何も言い返せなくて、ただ黙って景虎が泣き止むまで一緒に泣いた。
「ごめんなさい」
場所を部屋に移して目の前には温かな湯気を立てるご飯とみそ汁が置かれている。
景虎が台所で気が済むまで泣いた後。せっかく景虎が作ってくれたみそ汁をこのまま駄目にするのはもったいないので、こうして部屋へ運んでさあ食べようっとしたところで急に景虎が謝ってきた。
「何のことだ?」
「私、岩殿城で言われていたのに・・・あなたのこと、守らなかった」
あーそのことか。
「ここが最前線だってわかってたのに、危険だってわかってたはずなのに・・・」
景虎がまた泣きそうな顔をしている。
「気に病む必要なんてない、むしろ謝るのは・・・」
「でも! 私がついていればあなたは連れ去られることは無かった!」
なるほど、こっちでは俺は連れ去られたことになってるのか。
「昨日あなたが帰ってこなくて、どれだけ心配したと思っているの? 今朝、町であなたが抱えられて運ばれているのを見たって話を聞いたときに、どれだけ心配したと思っているの!」
くーちゃん、まさか町中で俺を担いで運んで行ったのか?
「あれ? 連れ去られたなら、どうして城門の人たちは帰ってきたときに普通に通してくれたんだ?」
城門では、いったん止められたが、名前を言ったら通してもらえた。普通連れ去られたとしたら逆に通したりしないはずだ。
「言えるわけないでしょ! あなたがいなくなったことが北条に知れたらどうなると思っているの⁉ あいつら、全力で探すわよ。まずは拷問して越後と甲斐のことを聞き出そうとするわ、でもあなたは何も知らないから知らないとしか言えない、辛い拷問はずっと続くわ。そしてそれが終われば人質として牢に捕らえられるわ、毎日暗くて狭い部屋でくさくてまずい残飯を食わされ、泥水を飲まされ、本当にこれが人が生きていると言えるのかって言うほどの扱いを受けるのよ!」
敵に捕まればそれが当たり前だろうとは思うが、とりあえず今回は無事だったのだからあまり興奮しないでほしい。興奮するのは次に失敗をした時にしてほしい。
「景虎・・・言いにくいんだが・・・」
どうせ北条の話が出たんだ、先送りにするよりも早く言ってしまった方がいい。
「・・・なによ」
「俺をさらった相手だが・・・」
「誰! 誰なの! 早く言いなさい、殺してくるわ!」
やっぱり殺す気満々なのね。
「待て待て、殺すんじゃない」
「何言ってるの⁉ あなたを酷い目に合わせたやつを殺さないでどうするって言うの⁉」
「だから、そこが間違いなんだよ。俺は何も酷いことなんてされてない」
「・・・本当に?」
ああ本当だとも。くーちゃんは俺に何も・・・あ。
「何かあったのね! 何をされたの、早く言いなさい!」
「え、ええっと・・・怒らない?」
すでに怒っているからこれ以上怒ることは無いか?
「いいから早く言いなさい!」
景虎が俺の胸ぐらをつかんですごい形相で迫ってくる。
「け、けけけ今朝・・・起きたら、な・・・その・・・」
そこで言いよどんでしまう。なんて言えばいいのか、奥さんの前で連れ去った相手に強姦されましたって言うのか? 恥ずかしいとか情けないとか言ってる場合じゃないのは分かってる。でも何か言い方って言うのがあるだろう、いくらなんでも強姦はない。
「まさか・・・」
俺が言いよどんだのをどう解釈したのか、景虎が声を震わせながら言ってくる。
「慰み者に・・・」
「え・・・いや・・・ん?」
あれ? 慰み者ってどういう意味だっけ? 当たっているような間違っているような?
「そんな」
俺のあいまいな返事をまたどう受け取ってしまったのか、景虎は放心してしまっている。
「まあ待て景虎、とにかく待つんだ景虎。違うんだ、いや違わないけど~とにかく話を聞け!」
「嫌よ! 夫が強姦された話なんて聞きたくないわ!」
強姦って言うなーーー! こっちだって気にしているんだ! しかもやった記憶がこっちにはないんだぞ⁉
「まず俺をさらったのは・・・」
「誰!」
やっぱり殺すつもりなのか。
「北条・・・」
「殺す」
景虎は勢いよく立ち上がる。その眼には明らかな殺意が見て取れた。
「だ~か~ら、最後まで聞きなさい!」
景虎の腕を掴んで引き留める。
「・・・そうね、まだ北条方の誰にやられたのか聞いてなかったわね。誰にやられたの、雑魚に負ける様な甘ったれた鍛え方はしていなかったはずよ」
「・・・俺をさらったのは、北条氏政だ」
「・・・」
「2日前、こっちに来たその日の内に会ってな、昨日の昼に気絶させられて、気がついたら津久井城にいた」
「・・・」
景虎はいまだに一言も話さない。
「津久井城で気がついたのは夕方だ、そこで初めて俺を連れ去ったのが北条氏政だったことを知った。氏政もそこで俺が加藤貴久だと知った。で、そこでもう一度気絶させられて、翌朝には・・・で、なんだかんだで帰ってきた」
「・・・つまり・・・もしかして・・・氏政と、その、あああの・・・祝言を・・・」
「認めてください、景虎様!」
細かいことは考えず、まずはとにかく頭を畳に擦り付けて誠心誠意お願いするしかない。
「何考えてるのあんた! 北条よ⁉ 相模なのよ⁉ あんた体は持つの⁉」
「も、持たせます」
男の子ですから、女の子のためなら頑張れます・・・たぶん。
「そんなの駄目よ! 私は認めないわ! これは北条がどうのこうのって話じゃないの、あなたのことを考えて言っているの、私は絶対に認めないわ!」
「そこを何とか!」
「駄目よ! だいたい今のはあなたのためを思って言っているけど、あなたに手を出した北条を許したわけじゃないのよ」
だよなー、普通そうだよな、夫連れ去って手を出すようなやつを許せるわけないよな。
「・・・景虎、とりあえず話してみよう、北条氏政と」
「できると思ってるの?」
「できるさ、少なくとも明日なら」
明日の朝なら、まだくーちゃんは上野原城城下にいるはずだ。だから明日、景虎を連れて行けば、1対1で話し合うことができるはずだ。
「今氏政がこっちにいるのね」
「ああ」
「飛んで火にいる夏の虫とはまさにこのことね、敵陣にわざわざやってきてくれるなんて、さっそく殺しに行くわ」
「殺さないの、話し合いに行くの」
気持ちは分からんでもないが、殺すのはいけない。
「無理ね、明日の朝まで我慢できるとは思えないわ」
・・・怒っているのだろう、しかしその笑みは何だ? 絶対何か考えてるだろ。
「どうしたら朝まで我慢してくれる?」
「自分で考えなさい」
あーこれは言わせたいんだ。やってもらいたいけど、自分では言えないことを俺に言わせてやってもらおうとしているんだ。
「じゃあ、朝までこうしていたい」
つかんでいた景虎の腕を引っ張って、景虎を俺の膝の上に座らせる。
「朝まで離さないからな」
「できるものならしてみなさい」
・・・おかしいな、景虎の笑みが黒くなった、いや~な感じになった。
「言ったことには責任を持ちなさいよ」
耳元で小さく囁いた後、景虎はそのまま俺の耳に甘噛み・・・ではなく本気で噛みついて来た。
「痛い痛い痛い痛い痛い! 待て待て待て待て待て! 千切れる千切れる千切れるから! 本当に千切れるから!」
痛いんです! 本当に痛いんです! 本当に千切れそうなんです!
「当り前よ、そのつもりでやってるんだから。あんまり動かない方がいいわよ、本当に千切れちゃうから。あと約束は忘れないように、朝まで離しちゃだめよ」
これは本当に怒っていらっしゃる。甘いことを考えていた、優しくして・・・いやイチャラブすればいいとか変なことを頭が考えてしまった。思い出せ、俺は主人公ではない、全力で主人公みたいな道を驀進しているが俺は主人公ではない、主人公は尾張にいる本田元亘だ。だから女の子が機嫌を損ねてもイチャラブすればなんとかなるのは元亘の方であり、俺ではない。
「ぎゃあああああーーーー!」
景虎が今度は耳ではなく肩に噛みついてくる。
「痛い痛い痛い痛い痛い! 刺さってます! 刺さってますよ! これ絶対に犬歯刺さってますよ!」
絶対にこれは刺さっている! だって痛いもん!
「あら、本当ね」
どうして景虎はそんなに嬉しそうなのだろうか、怖いんですけど!
だが考えるまでもなく、回答はすぐに提示された。
「ちゅー」
「い!」
吸っている。景虎が俺の血を吸っている。
「やめろーーー!」
俺は本気で暴れた。
「景虎、やりすぎだ! これは本当に死んじゃうって! 人は血を失い過ぎたら死ぬんだぞ! それどころか実際に失ってなくてもそう思い込んだだけでも死ぬんだぞ!」
どっかの頭のおかしい人たちが研究していたはずだ。まずは実験対象を拘束し目隠しをする。そして人がどのくらい血を失うと死ぬのかを教える。その後足の裏に切られた時と同じような痛みを与え、水を垂らす。ある程度時間が経って、流れた水が最初に言った血の量に達したところで実験対象にどれだけ血が流れたのかを告げる。そうすると実験対象は実際に血を失った場合と同じように死んでしまったという。
確実性は証明されてはいないが、それで人が死んだという記録はあるらしい。
俺はまだ傷口を見ていないから、本当に景虎が血を吸っているのかはわからない。
「・・・ごく」
しかし景虎は何かを飲んでいる。それが俺の血なのか、景虎の唾液なのか、それは分からない。
しかし景虎が何かを飲んでいる。それだけわかれば俺を殺すには十分だ。
「あはは・・・血って結構美味しかったのね。あなたの血だから美味しいのかしら」
景虎が口を離した隙に傷口を確認しようと試みる。しかし景虎の頭が邪魔で肩が見えない。
「か、かか景・・・虎・・・本当に、し死んじゃうから」
声が震えてきた、自分が今殺されそうになっている、相手は笑いながら血を吸っている。
「死にたくないなら、まずは離さないことね。あと、言うことはちゃんと聞くこと」
「は、はい」
俺は何があっても離すまいと強く強く景虎を抱きしめた。
貴久がさっきまでよりも腕に込める力が強める。
少し苦しいくらいだが、今はこの苦しさが心地良い。
でも、これは違う。これは私がやらせただけ、貴久が自分からしてくれたわけじゃない。
貴久の手が震えている。
貴久の頭は私のことでいっぱいのはずだ、嬉しい。私の言葉を聞き逃さないように、私の機嫌を損ねないように、ずっと私のことを考えているはずだ。
でも、これも違う。貴久は私の事を怖いと思っている。
貴久の考える、『夫婦』にとっての当り前がどのようなものなのかは知らない。でも貴久は『夫婦』という関係に特別な感情を持っていた。
この世の中、思い人と結ばれることなんてまずない、だから私も諦めていた。だから、貴久と『夫婦』になれたのは本当に嬉しかった。
貴久は私と『夫婦』になってから優しくしてくれた。手柄を立てようとした、そうすることで私の見る眼が良かったのだと言わせるために、私のためを思って頑張ってくれた。
『夫婦』それが私と貴久の関係だ。
しかしこの状況はどうだろう、奥さんが夫を怯えさせて無理やりいうことを聞かせている。
この状況は貴久が草履取りだったころの方がまだ納得できる、とても『夫婦』の間で起こる状況だとは思えない。
・・・どうして、『夫婦』になってしまったのだろう。
貴久が草履取りのままだったら、手柄を立てようなんて考えなかったはずだ、川中島になんて来なかったはずだ、晴信と祝言を挙げることなんてなかったはずだ、こんなところに来ることなんてなかったはずだ。
きっと私は許してしまう、貴久が氏政と『夫婦』になることを。
また嫁が増える。私が、貴久の奥さんではなく、3人いる正室の1人になる。
そんなのは嫌だ、貴久は私が見つけた、あの日あの時あの場所で、私が見つけた。
加藤貴久・・・私の夫。
大好きな・・・私の夫。
・・・夫。




