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甲斐防衛 壱ー出陣ー

 今川と北条が甲斐に向けて進軍していることを知った翌日、俺と景虎は、斎藤朝信、柿崎景家の2人とわずかな手勢をつ連れて甲斐の躑躅ヶ崎館に向かて出発し、10日で甲斐に着いて見せた。

「・・・大丈夫?」

 景虎が俺を心配そうに見ている。

「はあ~、はあ~・・・はあ~~~」

 10日とはいえ、10日間ほぼ馬に乗っての移動は俺にとっては辛すぎた。

 それでも何とかこうして甲斐までやってこられたのはひとえに愛のなせる技だろうか。

「貴久!」

 まだ息が整わず、倒れこみそうなのを膝に手をついて必死にこらえている俺に向かって声がかけられる。同時に走る足音がだんだんと近づいて着ている。

「あら、晴信じゃない。こんなところにいてもいいの?」

 声の主は晴信だったようだ。

「貴久!」

「ぐへ!」

 晴信が走っている勢いそのままに、俺に抱き付いてくる、いやタックルをかましてくる。

 へとへとに疲れていた俺はこらえることができずそのまま倒れこんでしまう。

「貴久! しっかりして!」

 晴信が襟をつかんでぶんぶんと揺さぶってくる。

「ちょっと、やめなさいよ! 貴久は疲れてるんだから休ませてあげなさいよ。死んじゃうわよ?」

 いやこのくらいでは死なないと思うが。

「死ぬ! いや、死んじゃいや! 貴久・・・あ、息はしてるから問題ない」

 いやいやいや、問題ないことはないだろう。今は俺をがっくんがっくん揺さぶっているのが問題なのであってだな。

 しかし俺の思いが伝わるわけもなく、晴信は再びがっくんがっくん揺さぶってくる。

「お~き~て~!」

 あー、やっぱり可愛いよなー晴信は。この必死な感じが可愛らしい。

 そのまま晴信は可愛いなーとか考えていたら、いつの間にか俺は意識を失っていた。


「ぱちり」

 目が覚めた。

 気を失う直前のことをしっかりと覚えていたので、ふざけて擬音語を口にしながら目を開く。

 当然ながら目を開いた先には天井がある。起き上がって部屋をぐるりと見回してみる。書院造よろしく押板や棚なんかがある。しかしそこには棚があるだけで何も置かれてはいない、壺なり掛け軸なりありそうなものだがこの部屋にはそういった装飾品が何もない、おかげで部屋全体を見ても寂しい感じがする。

 とりあえず障子を開けて外に出てみる。

「おはようございます、兄上様」

「おう、おはよう信繁。起きたのは分かってただろ、入ってくればよかったのに」

 俺も信繁が部屋の外にいたのは分かっていた。決して気配とかそんな物じゃない、純粋に障子に影が映っていたからだ。

「姉上様より、兄上様が部屋から出てくるまで部屋の外でお守りするようにと命じられましたので」

 それでも起きたんだからよくないか? よくないんだろうけど。

「ふーん、まあいいや。それで、景虎と晴信は何処にいるんだ?」

「お屋形様と長尾殿は、お屋形様の部屋で貴久様をお待ちです」

「早く言え!」

 俺は急いで晴信の部屋へ向かった。


「景虎、晴信、入って大丈夫か?」

 信繁に2人が待っていると聞いて急いで晴信の部屋にやってきた。

「・・・入って」

 返事まで少し間があったのが気になったがとりあえず部屋に入る。

「ごめん、待たせたみたいで」

 部屋に入るなりまずは待たせたことを誤っておく。

「気にしなくていいわよ。こっちも2人で話したいことがあったし」

「そうか、ありがとう」

「・・・」

 何だろう、晴信の視線が冷たい気がする。

「どうしたんだ、晴信?」

 部屋に入った時から冷たい視線を送り続けている晴信に直接聞いてみる。

「逆」

「は?」

「・・・」

 晴信はそっぽを向いてしまう。

「景虎、助けてくれ」

 女の子の気持ちは女の子の方がわかるはずだ。

「あーあ、しーらない」

 え、なにが? 俺なんかやっちゃった?

「貴久」

 晴信が怒気をあらわに声をかけてくる。

「どどどうしたんだ晴信、なんかこわ・・・」

「正座」

 晴信の目が座っている。これは怖い。

 俺は返事もせずにすぐに正座する。

「まず、部屋に入るときに呼んだ名前。私が先」

「えっ・・・あ、はい。申し訳ありません」

「部屋に入ったとき、景虎の方を見て謝ってた。あれも逆」

「・・・はい」

「はい、じゃない」

 だんだんと晴信から感じられる圧力が強くなっていく。

「申し訳ありませんでした」

「態度で示して」

 た、態度? 土下座だろうか?

 迷って動かないのもまずいと思い、俺はとにかく心を込めて土下座をする。

「本当に、申し訳ございませんでした。今後はこのようなことがないように努めさせていただきます」

「・・・」

 しかし晴信からは何も帰ってこない。

 俺は額を畳につけたまま、晴信が返事をするのを待つ。

「・・・貴久、私は怒ってる。こんな時、どうすればいいか分かってる?」

「あ・・・謝る?」

「違う」

 違うようだ。

「相手を怒らせたら、それ以上に相手を喜ばせる」

 な、なるほど。確かに謝られると怒りは多少収まるかもしれないが、嬉しくはない。

 晴信からしたら、俺に謝られるよりも早く何か行動で示してほしいのだろう。

「えっと・・・では何をすればよろしいでしょうか?」

 それを聞いて晴信の目が輝く。

「まずはぎゅってして!」

 言うが早いか、晴信はさっきまでの怒りは何処へやら、さっそく俺に抱き付いてくる。

「え、俺がするんじゃないの?」

「そう、だから早くぎゅってして」

 晴信がぎゅーっとしながら言ってくる。

「貴久、そこまでしなくていいわ。今月会えなかったのは晴信が悪いんだから」

「違う、今川が攻めてこなければ・・・」

「そんなことないわ、私なら間違いなく呼んだわよ。だって私の隣が一番安全だもの!」

 あ、これ俺がこの前言ったやつだ。

 景虎すっごい自慢げだ。晴信が悔しそうに景虎を睨んでいるけど、それを受ける景虎は優越感に浸っている。

「でも・・・」

「でもじゃないの、離れなさい」

 晴信がとっても悔しそうにしながらも、俺から離れる。

「そうよ、それでいいの」

 景虎が勝ち誇っている・・・なんかおかしくね?

「晴信、ちょっと」

 元いた座布団に座りなおした晴信に、手招きしてこっちに来いと言ってみる。

 晴信はしょんぼりしたまま、座布団ごとこっちに少しだけよる。

「もっともっと」

 俺が手招きを続けると晴信の顔から落胆の色が消えて、さらに少しこっちによる。

「晴信!」

 手が届く距離まで近づいた晴信を抱きしめた。

「きゃ!」

「ちょっと! 貴久、何してるのよ」

 景虎が慌てて俺と晴信を引きはがしにかかる。

「なにって、さっき晴信を怒らせちゃったからな、そのお返しだ」

 景虎に本気で来られたら俺の腕力ではかなわないので、本気で晴信を抱きしめる。

「~~~」

 晴信が何か言っているが、くぐもってよく聞こえない。しかし晴信も俺を強く抱きしめてきてくれているので構わず続ける。

「な、なら! 今私不機嫌よ! 夫が私以外の女とくっついていてかなり不機嫌よ!」

 あ、反撃は考えてなかった。

「じゃあ・・・一緒にどう?」

 正直に言うと、半分は冗談だった。

 景虎が晴信の後に、一緒になって抱きついてくるとは思っていたかった。

「じゃあ」

 しかし景虎はなんの迷いもなく俺に抱きついてくる。

「あれ? 想定外」

 右から晴信が、左から景虎が抱き付いてくる。まさに両手に花だ。幸せだ。

「じゃあ、落ち着いたところで戦の話を始める」

「・・・」

 それが本題だった・・・。

 すっかり頭から抜け落ちていたが、今武田は今川と北条の2勢力から攻撃されているんだった。

「あんたがいない間に話し合ったんだけど、武田が今川と、私たちが北条と戦うことになったから」

 なんかさらっと言ってるけど、俺たちも戦をするのか⁉ あの北条と⁉

 この時代の北条って誰が当主だっけ? もう氏政だっけ? まだ氏康だったっけか? まあどちらにしろ両党体制だからいいか。

「ついに戦になるのか」

「そういえば、あなたが来てから人を殺すのは初めてね」

「貴久は、どう思う?」

 人殺し反対! とかいうのは簡単なんだけどな。この時代で、そんな甘いことを言っていたら生きていけないことは理解している。

 なら人殺しを善しとするか? それはどうにも納得できそうにない。どんな理由があっても、平和すぎてせいぜい喧嘩くらいしか生で見たことがない俺としては、たぶん善しとすることはできないだろう。

「殺したくない」

「それは私たちも同じよ」

「殺さないで済むなら、殺さない」

 この時代の人たちも殺したいわけではないのか、それともこの2人が特別なのか。

「俺が人を殺したら、翌日から人格変わっちゃうだろうな」

「それは困るわね」

「今の貴久がいい」

 今のまま、か。たぶん無理だな。

「軍師はどう?」

 晴信が人を殺さないで済む仕事を進めてくる。

「でも間接的には、実際に戦場に立つ武士もののふよりも多くの人を殺すことになる」

 実際に戦場に立って殺す人の数は多くて数十人、100人を超えることなんてないだろう。

 しかし軍師の戦場での仕事は、自軍が勝てる作戦を考えることだ。

 そして戦は『自分の損失は最小限、そして敵には 最大の損害』が理想だと、どこかの盟主様が言っていたし。

「あら、わかってたのね」

「ここで軍師になるのを承諾してたら、嫌いになってた」

 え、今のってかなり危ない質問だった?

「でも困ったわね。私は貴久を甲斐に残していくのなんて反対よ。まして越後に送り返すなんてありえないし」

 自分で人を殺したくないって言っておいて何だが・・・俺ってかなりお荷物だよな。

「貴久が決めればいい。ここに残るか、越後に行くか、私と一緒に来るかを」

「私と一緒に来るって選択肢も入れなさい」

 2人はそう言いあいながらも俺から目をそらさない。

 2人は選択肢を用意してくれて、俺はそれを選ぶだけ。

 とても楽になった。

 自分で選択肢を出したら、その選択によって生じる責任は、自ら選択肢をだしてそれを選んだ俺一人にのしかかる。しかし他の人に選択肢を出してもらえば、どの選択肢を選んでも「あいつがこんな選択肢を出した」と心に逃げ道ができる。

 2人は俺が、1人ではどうするか決められないと思って、逃げることも含めて選択肢を並べてくれた。

 情けないことだ。

 だからせめて、自分の気持ちに正直に答えておこう。

「・・・景虎と行くよ」

 2人から4つも選択肢を用意してもらったが、俺はやっぱり景虎と行くことに決めた。

「どうして?」

 晴信がすかさず聞いてくる。

「どうして私とじゃないの? 条約を考えても、今は私といた方が自然。どうして景虎なの?」

 晴信の目が俺の目を射ぬいている。その眼は全ての嘘を看破できると思わせる迫力を有していた。

「・・・分かんない」

 どうして俺は景虎を選んだんだろう。理由は、俺の中でまだしっかりとした形を持っていない。

「・・・」

 晴信が俺の目を見つめる。そして嘘じゃないと感じたんだろう、目から迫力が消える。

「・・・必ず、私を選ばせて見せる」

 晴信は本当に悔しそうに俺から離れる。

 景虎も同時に離れていく。

「あんた、今明らかに私と晴信に優劣をつけたのには気づいているんでしょうね」

「分かってるよ。そんな気持ちは無いはずなんだけどな」

 本当に俺の中には景虎と晴信に優劣はない。さっきの答えは、最近は景虎と一緒にいて晴信と離れていたからだと思う。

 2人とも俺の大切な奥さんなんだ、何も変わらない。

「それじゃあ、行くわよ」

 景虎が話は終わったという態度で立ち上がる。俺も一緒に立ち上がる。

「行ってらっしゃい」

 晴信が座ったまま俺たちに手を振る。

「ええ、ちょっとそこまで行って、北条を追い返してくるわ」

「頑張って生きて帰ってくるよ」

 俺たちが部屋を出るまで、晴信は最後まで笑顔で見送ってくれた。



 2人が部屋を出て行く。

 いつも寝起きしている部屋。一番よく使う部屋なのに、2人が出て行った部屋の中はやけに広く感じてしまう。

 部屋に1つだけおいてある壺、1つだけかけてある掛け軸が、私が一人であることを強調している気がする。

 かおる畳の匂いが、2人の出て行った障子の隙間から差し込む木漏れ日が、私が2人と離れている、違うものだということを強調している気がする。

「・・・悔しい」

 意図せず言葉がこぼれてしまう。

「悔しい」

 こぼれてしまった言葉を、今度は自分の意志で口にしてみる。

「悔しい」

 自覚してしまう、自分の気持ちを。

 悔しくてたまらない。甲斐を自分たちの力だけで守れないことが、景虎に負けてしまったのが、そして・・・貴久に景虎を選ばれたことが、悔しくてたまらない。

「悔しい」

 またも意図せず、体が動いてしまう。

 体が小刻みに震える。熱い雫が頬を流れる。

「悔しい」

 しばらく、外には出られそうにない。



「本隊はいつごろ甲斐に着くんだ?」

 晴信の部屋を出て、そのまま屋敷を後にした俺と景虎。

 町中を歩きながら越後に置いて来た本隊がいつごろ甲斐に着くのかを景虎に聞いてみる。

「そうねー。だいたい20~30日くらいかしら」

 それって不味いんじゃないか? 俺と景虎が越後を発ったときには既に北条軍は小田原を発っている。ここからさらに20日も30日も本隊の到着を待っていたら、北条軍は躑躅ヶ崎館に着いてしまうのではないだろうか。

「本隊が到着するのを待つわけないわよ」

 ですよねー。

「私たちも、晴信たちと同じで明日ここを発つわ」

「でも、兵がいないのにどうするんだ?」

 本隊が到着していないのに出兵する? 晴信たちも今川軍2万2千と当たるのだから、こちらが北条軍2万と戦えるほどの兵を貸せる余裕があるとは思えない。

「兵ならいるわよ。晴信から借り受ける兵が2千くらい」

「ワーオ、ソンナニカシテモラエルノカ」

 しっかりと棒読みをして返してやる。

「そうよ、とっても楽しそうよね」

 景虎が嬉々として告げてくる。

「それで本隊が来るまで持たせるわけか」

 2千か、景虎は少数の方が兵を動かしやすくて好きだって言ってたけど・・・2千対2万はさすがに怖いな。

「そんなこと誰が言ったの?」

「え?」

 そして景虎が自信満々に恐ろしいことを告げる。

「本隊が着くまで待っているつもりはないわ。2千でもやれると判断したら、本隊の到着を待たずに2千の手勢で北条を追い返すわよ!」

 きっと景虎は本気だ、本気で2千の手勢で2万の北条軍と戦って勝つつもりだ。

「さあ、気合入れていくわよ!」

 そんな気合入れないでほしい、安全に本隊が着くまで守ってもらいたい。しかし素人の俺が口を出しても無駄だと思って、消極的な意見を飲み込む。

「俺も死なないように頑張るから、俺を殺さないようにしてくれよ」

「守るに決まってるじゃない。でもあなたは自分の意志で戦場に来ることを選んだんだから、覚悟はしてきなさいよ」

 景虎が鋭い目を向けてくる。

「分かってるよ。できればやりたくはないけど、殺される覚悟も、殺す覚悟もしているつもりだ」

 鋭い目が俺を射抜く。

 俺は息をのんで待つ。

「体がカチカチよ。期待できないわね」

 目がさっきまでとは違って楽しそうに細められている。

「言わないでくれ、わかってるから」

「ま、とにかく私から離れないことね」

 景虎は今からとんでもなく不利な戦に赴くとは思えないほど楽しそうに俺の前を歩く。

「ちゃんと見てなさいよ」

「何を」

「愛しい奥さんの勇士をよ」



 今川軍2万2千は東海道をたどって北上、武田軍2万3千は下山城へ。北条軍2万は津久井城へ入城、長尾軍2千も岩殿城へ入城。

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