0010 命の責任
逃げろ。逃げろ。と世間の人々は言うのだが、こうなってしまってはもうどうしようもない。殺すしか無い。
もともと、勤勉で健全な両親では無いという事は分かっていた。但し、自分の身体が大きくなっていく内に、「副業」と称して身体を売る様に命じられてからは、こいつら明らかに頭がおかしいと思えてきていた。
相談できそうな所には、全て相談した。最終的に裁判にもなり、両親は親権を失って、自分は独りで生きていくことになったが、この程度の事で両親は「娘」と言う唯一の資産を手放そうとはしなかった。あの手この手で、娘を追いかけると、その度に金をたかってきていた。何なら、「お友達」を連れてきては春を売る様に命じてきた。
もう駄目だ。殺すしか無い。「産んだ恩を仇で返すのか」とか「他に方法はないのか」とか、色々と言ってくる「正義の味方」が出て来そうであるが、ここまで来て恩なんてこれっぽっちもないし、手段を選んでいられない。
あの両親は、「副業」の際に「避妊」を考えなかった。いつか、胤が実ってしまうのではないか。その不安と恐怖と隣り合わせの日々を終わらせるのだ。
「お、落ち着け。話せば分かる」
「そうよ、さぁ、座って。そして、包丁を捨てて」
「……もう、私、分からないよ。どうすれば良いのか、分からないよ。お前らなんて、お前らなんて、もう要らないよぉ!」
村真知三阪は、人の身体を刃物で貫く感覚を、死ぬまで忘れなかった。本当は大好きな、大好きになる筈だった、父と母。しかし、現実は無情である。結局、この生活力も常識もない両親は、娘を「金蔓」としか見なかったし、事実その通りに扱い続けた。
三阪は、逃げた。ただひたすら、逃げ続けた。そして、その途中で売店から匂ってきたご飯の香りを嗅いで、気分が悪くなって吐瀉した時、三阪は自分の恐怖が現実になった事に気が付いた。
最悪だ。逃げろ、逃げろと人は言う。でも、逃げて、逃げて、逃げ続けても、何処までも追いかけてきた奴を殺して、何が悪い。法なんて現実の「悪」に対して、具体的に何かしてくれる訳でも無い。
秋田県の松房市まで逃げた所で、産気付いた三阪は人が居ない所を探し出すと、人気のない廃寺に辿り着いて、産婆も医師も父親も居ない中で、踏ん張って、いきって、産み落とした。元気な男の子だった。
こんなに大きな産声をあげているのに、誰にも気がつけてもらえない。まるでお前らはこの世界から必要とされていない、と宣告されているようであった。
……いや、もう独り、ここに居た。自分はこの世から必要とされていない、と思っていそうな女の子だった。
「お姉さん、その子の父親は誰。両親は知っているの?」
「あなたの家、ちゃんとした両親、居るの?」
「一応、ちゃんとはしているわね。養女だけど何不自由なく暮らせているからね」
「じゃあ、お願い。この子を引き取って」
「嫌だ。私はお姉さんにとって何でもない。ここでばったりあっただけで」
「だからこそ、これも何かの縁だと思って、この男の子を引き取って。お願い」
「……取り敢えず、持って帰る。そして、大人と相談してくる。それで、あなたはこれからどうするの? 今後もこの子供に会いに来る予定はあるのかしら」
「さぁて、何処へ行こうか。北へ行こうか、南へ行こうか」
「あなたはね、そんな生活なのに子供なんて」
「自分で望んで産んだわけじゃないわよ、正直、それは私にとっては肉の塊だから」
「最低ね。分かった。あんたみたいな勘違い女には子供なんてまだ早すぎる。調度、弟が欲しいと思っていたのよね。あんたの長男として生きていくより、余程良い暮らしが出来るのであれば、そうしましょう」
「……あんた、名前は」
「塚本美玖」
「覚えたわよ。もし、何処かで会ったら、その時にもしあなたの弟が居たら」
「追い払う。絶対に引き合わせない。何の罪もない赤ん坊を「肉の塊」だなんて言って、名前も知らない人間に引き取らせるのなんて、母親失格よ」
三阪は、もうこれ以上何も言い返さなかった。全てこの少女が、塚本美玖が言っている主張は全て正しい。幾ら自分が望んでいなかったとしても、十月十日、お腹の中にいた赤ん坊を捨て犬同然の形で手放そうというのだ。言い訳不可能だ。
三阪はふらりと立ち上がると、廃寺からプラプラと言う表現が似合う足取りで歩み去って行く。これから何処へ行くのか。地獄にでも行くつもりなのか。あるいは警察に年貢を治めに行くのか。どっちでも好きにすれば良い。
「で、連れてきたのかい? 美玖ちゃん」
「ええ」
「あのね、美玖ちゃん、赤ん坊は犬や猫とは違うんだよ。人間なんだよ。人間と関わる事には、常に「責任」がついて回るんだよ。そんな風に引き取って、「はい、これから面倒看るからね」なんて、それこそ無責任じゃないのかな」
「じゃあ、うちでは面倒看れないの?」
「う、うぅーん、そうでもないけどな。もう1人、慎ましく生きていける分はあるだろうけど」
「あなた、良いじゃない。一緒に育てましょうよ」
「お前まで、そんな事を言うのかい」
「言ったじゃない、もう1人、慎ましく生きていけるだけの稼ぎはあるんでしょう。なら、育てなくちゃ。それこそ、私達が「責任」を取るべきじゃないかしら。大人は子供の前でこそ格好付けて生きなきゃ、子供には手取足取り教えてあげないと、世の中の事は理解出来ないのよ」
「……で、格好付けて、この赤ん坊を育てるのかい?」
「ええ、その代わり、美玖ちゃん、あなたに言っておかなければならない事があります。我が家の家計はそこまで豊かなわけではありません。赤ん坊を育てるのにはお金がかかります。あなたに使うお金が減るかも知れません。今まで以上に我慢を強いる結果になったとしても、あなたは黙って従う事が出来ますか」
「ええ」
「……そう、それじゃあ、まず最初の仕事をやってもらいます。この子の名付け親になって」
「徹。こいつの名前は、寺澤徹」
「美玖ちゃん、今日から徹君は我が家の一員です。犬や猫とは違います。叩けば死にます。面倒を看なければ死にます。苛めても矢張り死にます。そして、あなたも我慢をしなければならなくなります。それでも良いのですか」
「弟を育てるのは、最高の娯楽じゃないさ。私、大歓迎よ」
「よくぞ言いました」
寺澤家の夫婦は、こうして2人目の子供を籍に入れたのである。寺澤徹は、こうして最初の困難を乗り越えて、自分の人生を続けられていた。




