第九章 今さら必要だと言われても
正式な使者が来たのは、雪の降った翌々日のことだった。
朝から馬車の音がして、いつもと違う気配に目が覚めた。
窓から外を見ると、王家の紋章を掲げた立派な馬車が離宮の門前に止まっていた。
護衛の騎士が四人。
馬車から降りてきたのは、見覚えのある顔だった。
王宮の宰相補佐、ヴァルナー卿だった。
社交界でも顔の広い人物で、いつも自信に満ちた態度の男だった。
以前、侯爵邸で何度か顔を合わせたことがある。
その頃も、私のことなどほとんど見ていなかった。
マリアが青い顔で部屋に来た。
「お嬢様、王宮からの使者が……応接室へいらっしゃいますか」
私は頷いた。
震えそうな足に、気合いを入れた。
応接室に入ると、ヴァルナー卿はすでに椅子に座っていた。
立って迎えるつもりはなかったらしい。
私が入っても、ゆっくりと立ち上がるだけで、頭は下げなかった。
追放された令嬢への扱いとしては、妥当なのかもしれない。
「アイリス・ルーンフェルト嬢」
名前を呼ぶ声に、感情はなかった。
「単刀直入に申し上げる。王都の魔力異常は深刻な状況だ。結界が三度崩れかけ、先日は市街地に魔物が侵入した。民に被害が出ている」
私は黙って聞いた。
「調査の結果、あなたが王都を離れてから異変が始まったことが分かった。古代の記録とも照合した。あなたが"歌姫"の能力を持つ可能性が高いと、宮廷魔術師たちが判断している」
ここまでは予想通りだった。
ヴァルナー卿は続けた。
「つきましては、王都へ帰還していただく。王城内に居室を用意する。定期的に歌姫としての役割を果たしてもらう。それだけでよい」
それだけでよい。
その言葉が、かちりと胸に引っかかった。
謝罪はなかった。
婚約破棄への言及もなかった。
追放同然にここへ送り込んだことへの、一言もなかった。
ただ、必要になったから帰ってこい、と言う。
それだけでよい、と言う。
喉が固くなった。
怖いのではなかった。
怒っているのかもしれない。
でもその怒りを声に出す術が、私にはなかった。
俯いて、唇を結んだ。
「返答は」
ヴァルナー卿が促した。
待つ気のない声だった。
最初から答えは決まっているだろう、という態度だった。
そのとき、応接室の扉が開いた。
レオンハルトだった。
軍装のまま、外套も着ていた。
今しがた馬から降りてきたような姿で、真っすぐこの部屋に入ってきた。
マリアが止める間もなかったのだろう。
ヴァルナー卿が目を剥いた。
「な、何者だ。ここは王国の——」
「レオンハルト・ヴァルトシュタイン。帝国第二皇子だ」
静かな声だった。
でも、部屋の空気が変わった。
ヴァルナー卿の顔色も変わった。
帝国の皇子、という言葉の重さが、この場に満ちた。
「な……なぜ帝国の皇子が、このような場所に」
「国境視察の途中だ。この離宮の前を通りかかったところ、王国の馬車が止まっているのが見えた」
淡々と言ってのけた。
嘘ではない。
嘘ではないが、全部でもない。
でもヴァルナー卿にはそれを確かめる術がなかった。
「……これは王国の内政に関わる話です。帝国の方が口を挟む案件では」
「そうかもしれない」
レオンハルトは頷いた。
あっさりと認めた。
でも、部屋から出ようとはしなかった。
私の横まで歩いてきて、ヴァルナー卿と向かい合う形で立った。
「ただ、一つ確認させてほしい」
静かに言った。
「今の話を聞いていたが——あなたはこの方に、帰還するかどうかを選ばせるつもりはないのですか」
ヴァルナー卿は眉をひそめた。
「選ぶ、とは。これは王国としての正式な要請で——」
「要請と命令は違う。そしてあなたの口調は、要請には聞こえなかった」
ヴァルナー卿の顔が赤くなった。
「こちらには彼女を必要とする正当な理由が——」
「理由があれば、人を物のように扱っていいわけではない」
短く、はっきりと言った。
部屋が静まり返った。
レオンハルトは続けた。
声は穏やかだったが、一言一言に芯があった。
「彼女はかつて、この王国から追放された。声が出ないことを理由に、婚約を公衆の面前で破棄された。その彼女が、今になって必要だからと呼び戻される。その間に、謝罪は一言もない」
ヴァルナー卿は口を開いたが、言葉が出なかった。
「彼女は物ではない。王国の道具でもない。一人の人間だ。帰るかどうかは、彼女が決めることだ」
静かな声だった。
怒鳴りもしなかった。
威圧するような素振りもなかった。
ただ、真実だけを言った。
私は、呼吸をするのを忘れていた。
彼女は物ではない。
その言葉が、胸の深いところへ落ちていった。
誰かに、そう言ってもらったことがあっただろうか。
私のために、そう言ってくれた人が。
目が熱くなった。
泣くつもりはなかった。
でも、堪えるのに少し時間がかかった。
ヴァルナー卿はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
帝国皇子を相手に、これ以上強く出ることはできない、と判断したのだろう。
「……本日のところは、お返事だけいただければ結構です」
声から、先ほどまでの傲慢さが少し消えていた。
「帰還については、改めてご検討いただきたい。期限は二週間後とします」
それだけ言って、早足に部屋を出ていった。
馬車の音が遠ざかる。
やがて、完全に聞こえなくなった。
応接室に、静寂が戻った。
私はしばらく、椅子に座ったまま動けなかった。
レオンハルトは隣に立っていた。
急かさなかった。
私が落ち着くまで、ただそこにいた。
やがて、声が出た。
「……ありがとう、ございます」
震えていたが、言えた。
レオンハルトはこちらを向いた。
「怖かっただろう」
責めているのではなく、ただ確かめるような声だった。
少し考えてから、首を横に振った。
怖かった、は正しくなかった。
怖いよりも、悔しかった。
怒っていた。
でもその感情を声にする前に、彼が全部言ってしまった。
私が言いたかったことを、全部。
それが伝わったかどうかは分からなかったが、レオンハルトはじっと私を見ていた。
「一つ、聞いていいですか」
静かに言った。
「王都へ戻りたいですか」
私は少し考えた。
正直に、自分の気持ちを探した。
戻りたくない。
あの場所に、今はまだ戻りたくない。
でも——王都の人たちが困っているなら、何かしたいという気持ちも、確かにある。
その矛盾を、声にはできなかった。
ただ、首を少し傾けた。
分からない、という意味で。
レオンハルトは頷いた。
「それでいい。まだ決めなくていい」
それから、少し間を置いて、言葉を続けた。
「だが一つだけ、覚えておいてほしい」
私は彼を見た。
「あなたがどこへ行くことになっても、私はあなたの味方だ。帝国の皇子としてではなく、個人として」
真っすぐな言葉だった。
飾りも遠回しもない、ただの本音。
私は俯いた。
また顔が熱くなった。
今日は何度目だろう。
でも今度は、泣かなかった。
代わりに、小さく頷いた。
ありがとう、という気持ちを込めて。
受け取ってくれたのか、レオンハルトは静かに息を吐いた。
それが少し安堵の音に聞こえた。
窓の外の雪は、昨日より少し解けていた。
庭の花が、また顔を出し始めていた。
何があっても、ここの花は枯れない。
それが今は、少し誇らしかった。
私がここにいる限り、この庭は守られる。
小さなことかもしれないが、それは確かに本当のことだった。
二週間後の期限まで、まだ時間がある。
答えを出すのは、もう少し後でいい。
今日はただ、彼の言葉を、静かに胸の中に仕舞っておこうと思った。




