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第十章 あなたの歌は世界を救う

異変は、夜明け前に始まった。

地の底から響くような低い轟音で目が覚めた。

最初は夢かと思った。

でも窓の外が、赤く染まっていた。

飛び起きて窓を開けた。

北の方角の空が、これまでで一番濃い赤に燃えていた。

夜空を裂くような光の柱が、二本、三本と立ち上っている。

地面が揺れていた。

微かに、でも確かに。

マリアが廊下を走る音がした。

扉を叩く音。

 

「お嬢様、起きていらっしゃいますか」

扉を開けると、マリアの顔が青白かった。

 

「国境の村から人が来ています。魔力災害が起きているようで……村人たちが避難してきています」

避難。

その言葉が、胸に重く落ちた。

 

離宮の門前に、人が集まっていた。

夜明けの薄暗い中、老人、子ども、怪我をした人々が入り混じっていた。

荷物を抱えている人もいれば、着の身着のままの人もいた。

子どもの泣き声が聞こえた。

誰かが誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。

離宮はこんなに多くの人を受け入れられる場所ではなかった。

それでもトーマスが門を開けて、人々を庭へ誘導していた。

人々の顔に、恐怖が張り付いていた。

国境の向こうで何があったのか、私には分からなかった。

でも、あの赤い空を見れば、尋常でないことだけは分かった。

レオンハルトはすでにいた。

馬を庭の外に繋いで、負傷者の手当てを部下たちと共に行っていた。

私に気づくと、短く状況を伝えてくれた。

 

「国境付近の地脈が一気に暴走した。規模は過去最大だ。村が三つ、魔力の嵐に飲まれた。住民はほぼ全員逃げてきている」

三つの村。

 

「魔力嵐は今も続いている。このままでは範囲が広がる可能性がある」

私は北の空を見た。

赤い光が、まだ揺れていた。

光の柱は消えていなかった。

体の奥が、ざわりとした。

あの感覚を知っていた。

世界が歪んでいるとき、体が先に反応する。

歌えば、止められるかもしれない。

その考えが浮かんだ瞬間、喉が固まった。

庭を見た。

百人近い人が、そこにいた。

全員が疲弊して、怯えていた。

その全員の前で、声を出さなければならない。

無理だ、と思った。

即座に、反射的に。

あれだけの人の前に立って、声を出すことなど——

 

「アイリス」

レオンハルトが、静かに呼んだ。

私は彼を見た。

 

「無理にとは言わない」

いつもと同じ言葉だった。

急かさない、強制しない、いつものレオンハルトの言葉。

でも続きが、少し違った。

 

「ただ——あなたにしかできないことが、今ここにある」

それだけだった。

押しつけではなかった。

ただ、事実を言った。

私はもう一度、庭を見た。

子どもが一人、膝を抱えて震えていた。

お母さん、と小さく呼んでいた。

隣の女性が、その子の肩を抱きながら、自分も泣いていた。

老人が、座り込んで空を見上げていた。

その目に、諦めのような色があった。

胸が、痛かった。

怖かった。

今も怖かった。

でも——あの演奏会の日を思い出した。

震えながら歌って、拍手をもらった日を。

声が届いた、と感じた日を。

私の歌が届くなら、今この人たちに届けたい。

足が、動いた。

 

庭の中ほどに立った。

人々の視線が集まるのを感じた。

誰だろう、という目。

何をするのだろう、という目。

いくつかは、追放された令嬢だと気づいた目もあった。

喉が固くなった。

手が震えた。

逃げ出したかった。

でも北の空はまだ赤くて、目の前の子どもはまだ震えていて、世界はまだ歪んでいた。

息を吸った。

声を出した。

最初の一音は、細くて、頼りなかった。

自分でも分かるくらい、震えていた。

でも続けた。

二音、三音と重ねるうちに、不思議なことが起きた。

体の奥から、何かが流れ出してくる感覚があった。

以前も感じたことのある感覚だったが、今日は違った。

今日は、もっと大きかった。

もっと深いところから来ていた。

旋律が、庭に広がっていった。

人々が、静かになっていった。

泣いていた子どもが、泣き止んだ。

震えていた老人の肩が、ゆっくりと下がった。

誰かが誰かの手を握った。

誰かが目を閉じた。

北の空を見た。

歌いながら、ずっと見ていた。

赤い光が、薄れていた。

確かに、薄れていた。

光の柱が、一本消えた。

また一本。

空の赤みが、橙になり、黄になり、少しずつ朝の色に近づいていった。

どれくらい歌っただろう。

体中の力を使っているのが分かった。

足が震えていた。

でも止まれなかった。

止まったら、あの赤が戻ってくる気がして。

最後の光の柱が、消えた。

空が、灰白色の夜明けの色に戻った。

地面の揺れが、止まった。

私は、その場に膝をついた。

力が抜けて、立っていられなかった。

庭が、静かだった。

それから、一つ、拍手が鳴った。

次に二つ。

やがて、百人近い人が一斉に手を叩いていた。

演奏会の日の拍手より、ずっと大きかった。

ずっと、重かった。

誰かが泣いていた。

誰かが神様、と呼んでいた。

子どもが、さっきまでの怯えた顔ではなく、目を輝かせてこちらを見ていた。

 

「歌姫様」

誰かの声が、そう呼んだ。

その言葉が、庭に広がった。

一人が言うと、また一人が言った。

歌姫様、歌姫様、と。

私は、膝をついたまま、俯いた。

涙が出た。

止められなかった。

今日は、止めなかった。

レオンハルトが傍に来た。

膝をついて、私と目線を合わせた。

 

「立てますか」

首を横に振った。

しばらくは無理だった。

レオンハルトは何も言わずに、外套を私の肩に掛けた。

それだけだった。

それだけで、十分だった。

 

その日の出来事は、瞬く間に広がった。

避難民たちが各地へ戻るとき、その話を持ち帰った。

歌一つで魔力嵐を鎮めた令嬢がいる、と。

北の辺境の離宮に、歌姫がいる、と。

レオンハルトから聞いた話では、一週間も経たないうちに、その噂は複数の国に届いたという。

帝国でも、王国でも、東の大国でも。

歌姫の名が、世界に広がり始めた。

私はその日の夜、庭に出られなかった。

疲れ切っていて、ベッドから起き上がれなかった。

マリアが夕食を運んできて、黙って枕元に置いた。

出ていく前に、一度だけ振り返った。

 

「……よくやりました」

淡々とした声だった。

でも、いつもより少しだけ低く、ゆっくりとした声だった。

私は布団の中で、小さく頷いた。

窓の外の空は、もう完全に夜の色に戻っていた。

星が見えた。

赤くなかった。

歪んでいなかった。

よかった、と思った。

怖かったけれど、歌えた。

届いた。

それだけが、今夜の全部だった。












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