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第八章 私はもう、怖くありません

季節が変わり始めていた。

朝の空気に、針のような冷たさが混じるようになった。

庭の花たちも、夏の盛りには赤や白で溢れていたのが、今は落ち着いた橙や紫に変わっている。

それでも枯れずにいるのは、きっと私のせいだと、最近は素直に思えるようになっていた。

離宮に来て、二ヶ月が過ぎていた。

鏡を見ると、顔が変わった気がした。

変わったというより、戻ってきた、という感じに近い。

王都にいた頃、私の顔はいつも強張っていた。

笑うことを忘れたわけではなく、笑う場面がなかった、あるいは笑ってはいけないような空気があった。

でも今は——シロが膝の上で丸まっているとき、自然と口元が緩む。

マリアが「また猫に膝を占領されている」と呆れた顔をするとき、おかしくて笑いそうになる。

野菜が立派に育っているのを見て、静かに嬉しくなる。

そういう小さなことが、確かに積み重なっていた。

 

レオンハルトとの距離も、少しずつ変わっていた。

ある日の午後、彼は石塀にもたれながらぽつりと言った。

 

「帝国の冬は、早い」

私は縁側から庭へ降りながら、首を傾けた。

どれくらい早いのか、という問いを目で伝えると、彼は少し考えてから答えた。

 

「九月には雪が降ることもある。王都よりずいぶん北に位置しているから」

九月の雪。

想像してみた。

まだ秋の入り口に、もう白い世界になるのか。

 

「嫌いではないです、雪は」

私は少し考えてから、声に出した。

最近、レオンハルトの前では短い言葉なら比較的出るようになっていた。

毎日話しているうちに、喉の固さが少しずつ解けてきた気がする。

レオンハルトは私が声を出すと、いつも少し嬉しそうな顔をした。

それを見るのが、少し、好きになっていた。

 

「そうか。なら、帝国の冬も気に入ってもらえるかもしれない」

何気ない言葉だった。

でも「帝国の冬も」という言葉が、ほんの少し胸に引っかかった。

帝国の冬を見る機会が、私にあるということを、当然のように言った。

その意味を問い返すことはできなかったけれど、温かい何かが胸の中で揺れた。

 

ある日の夕方、レオンハルトが少し疲れた顔をして来た。

いつもは外套を整えてくるのに、その日は少し乱れていた。

目の下に薄い影があった。

 

「国境沿いで、また大きな魔力異常があった」

彼は言った。

声は平静だったが、体に疲労が滲んでいた。

 

「今朝方から対処していた。大事には至らなかったが」

私は黙って彼を見た。

何か言おうとしたが、言葉が出なかった。

代わりに、少し考えてから庭の隅へ歩いた。

そこに、最近咲き始めた白い小花があった。

名前は知らない。

でもその花は、触れると甘い香りがした。

一房、折った。

石塀まで歩いて、塀の上にそっと置いた。

レオンハルトは少し目を見開いた。

 

「……私に?」

頷いた。

慰めるものが他になかった。

言葉も出ないし、何もできないから、せめてこれくらい、という気持ちだった。

レオンハルトはその花を、ゆっくりと手に取った。

しばらく見ていた。

それから、静かに言った。

 

「ありがとう」

声が、少し柔らかかった。

いつもの落ち着いた声より、もう少し奥にある声だった気がした。

私は俯いた。

顔が熱かった。

夕暮れのせいにした。

 

雪が降ったのは、その一週間後の夜だった。

夕方からちらちらと舞い始めたそれは、夜になると本格的になっていた。

窓を開けると、白い世界が広がっていた。

庭の花たちが、雪の重みにそっと頭を垂れている。

寒かったが、部屋に戻る気になれなかった。

外套を羽織って、縁側に出た。

雪が、静かに落ちてくる。

音がなかった。

世界がふわりと柔らかくなるような、雪の夜の静けさ。

気がついたら、歌っていた。

意識してではなかった。

ただ、この景色に声を重ねたくなった。

それだけだった。

歌声が、夜の空気に溶けていった。

雪がまだ降り続けていた。

でも不思議なことに、歌い始めてから、その雪の粒が変わった。

白い雪の中に、光が混じり始めた。

最初は一粒、二粒。

やがて無数の光が、雪に混じって舞い始めた。

蛍のような、星のような、名前のつけられない小さな光。

それが庭全体に広がって、白い雪景色を淡く金色に染めていった。

息を飲んだ。

でも止まらなかった。

むしろ、もっと歌いたかった。

この景色を、もっと続かせたかった。

 

「……」

声がした。

石塀の向こうだった。

私は歌いながら顔を向けた。

塀の上から、レオンハルトが庭を見ていた。

彼がいつ来たのか、全く気づかなかった。

でも今、彼は声もなく庭を見ていた。

正確には——私を見ていた。

雪と光が舞う庭に立って歌っている私を、ただじっと、見ていた。

その表情を、うまく言葉にできなかった。

驚いているようだった。

でも驚きより深い何かが、その顔にあった。

息を忘れているような、何かに打たれたような——そういう顔だった。

歌いながら、目が合った。

逸らさなかった。

いつもなら視線が怖くてすぐに目を落としてしまうのに、今夜は逸らせなかった。

雪と光の中にいるせいか、あるいはもっと別の理由か。

歌い終えても、しばらく沈黙があった。

雪は降り続けていた。

光はゆっくりと消えていった。

庭が、また静かな白に戻っていった。

 

「……綺麗だ」

レオンハルトが、ようやく口を開いた。

低く、息のような声だった。

庭の景色のことを言っているのか、あるいは——と思いかけて、思考を止めた。

私は俯いた。

雪が、外套の肩に積もっていた。

 

「寒くないですか」

レオンハルトが言った。

声が、いつもより少し優しかった。

首を横に振った。

寒くなかった。

不思議なほど、寒くなかった。

 

「……ここが、好きになりました」

声が出た。

自分でも驚いた。

こんなに長い言葉が、こんなに自然に出たことに。

レオンハルトは少し目を細めた。

 

「この離宮が?」

首を横に振った。

違う、と伝えたかった。

離宮だけじゃない。

ここで過ごした時間が。

ここで知ったことが。

ここで出会った人が。

でもそこまでは声にならなかった。

ただ、手を胸に当てた。

ここが好き、という意味で。

レオンハルトはそれを見て、少しの間黙っていた。

それから、また口を開いた。

 

「私も」

一言だった。

それ以上は言わなかった。

でも、その一言の重さを、私はちゃんと受け取った気がした。

雪がまだ降っていた。

光は消えたが、白い庭は月明かりを受けて静かに輝いていた。

今夜だけの、誰も知らない景色だった。

私はもう、怖くなかった。

この場所が怖くなかった。

この人が怖くなかった。

声が出なくても、ここにいていいと思えた。

それがこんなに大きなことだと、以前の私には想像もできなかった。

縁側に戻りながら、ふと思った。

あの舞踏会の夜、あのまま婚約が続いていたら——この夜はなかった。

この静かな雪の庭も、この光も、この人も。

だとしたら、追放されてよかった。

そう思えることが、少し不思議で、少し誇らしかった。










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