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第七章 歌姫の力

演奏会から数日後、レオンハルトが厚い本を抱えてきた。

石塀の外に来るなり、それを塀の上に置いた。

革表紙の古い本で、表面には見たこともない文字が刻まれていた。

 

「帝国の王立図書館から取り寄せた。古代語の文献だ」

私は塀に近づいて、その本を見た。

ページを開くと、古い羊皮紙に細かい文字がびっしりと並んでいた。

私には読めなかったが、レオンハルトは慣れた手つきでページを繰った。

 

「帝国には古代の記録が多く残っている。歌姫についての記述も、いくつか見つかった」

彼はあるページを開いて、そこに指を置いた。

挿絵があった。

長い髪の女性が両手を広げて立っていて、その周囲に光の波紋のようなものが広がっている絵だった。

私は息を飲んだ。

絵の中の女性が歌っているのだと、一目で分かった。

その表情は目を閉じていて、穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。

 

「歌姫は、古代には"世界の声"と呼ばれていた」

レオンハルトは読み上げた。

 

「大地の魔力は常に循環している。山から海へ、海から空へ、空から大地へ。その循環を乱すものがあるとき、世界は歪む。歌姫の歌声はその循環に直接働きかけ、乱れを正す。彼女は世界の調律者であり、大地の祈りそのものである——」

静かな声で読み上げて、ページを閉じた。

庭に沈黙が落ちた。

私は、その言葉の重さを胸の中で測っていた。

世界の調律者。

大地の祈り。

それが、私だと言うのか。

声も出せない、婚約も破棄された、辺境の離宮に追いやられた私が。

 

「信じられないかもしれない」

レオンハルトが言った。

私の顔を見て、そう思ったのだろう。

 

「私も最初は、伝承に過ぎないと思っていた。だがあなたの歌を聞いてから、疑う気持ちがなくなった」

私は石塀に手をついた。

体を支えたかったわけではない。

ただ、何かに触れていないと落ち着かなかった。

 

「歌姫が最後に記録に現れたのは、三百年以上前のことだ」

レオンハルトは続けた。

 

「その後、魔力災害が増えたという記録がある。そして百年かけて、世界が少しずつ安定を取り戻した記録もある。おそらく歌姫の力を持つ者が、どこかにいたのだと思われる」

私は静かに息を吸った。

三百年。

それほど長い間、受け継がれてきた力が、今私の中にあると言う。

どうして私なのか、という問いは浮かんだ。

でも答えを求める気にはなれなかった。

なぜなら——この力が自分の中にある、ということは、演奏会の日から何となく感じていたから。

あの日、歌いながら、体の奥から何かが流れ出していくような感覚があった。

それが何なのかを、今初めて言葉で教えてもらった気がした。

 

問題は、そこからだった。

「各国が動き始めている」

レオンハルトはそう言って、わずかに表情を硬くした。

 

「歌姫の存在が、複数の国の情報網に引っかかりつつある。帝国だけではない。東の大国も、南の同盟諸国も」

私は眉をひそめた。

 

「魔力異常はどの国にも影響している。どの国も、その解決策を求めている。そして歌姫という存在が本物なら——当然、自国に引き込もうとする動きが出る」

引き込む。

つまり、利用しようとする、ということだ。

私はそれを、現実として静かに受け取った。

驚きは、あまりなかった。

世界を安定させる力があるなら、各国が欲しがるのは当然のことだ。

昔から、力のあるものは誰かに求められ、誰かに使われてきた。

でも——今まで私は、力があると思われたことなど一度もなかった。

声の出ない令嬢は、誰にも必要とされなかった。

なのに今、各国が動き始めているという。

何が変わったのか。

何も変わっていない。

ただ、誰かが気づいたかどうかの違いだけだ。

それが少し、おかしかった。

笑える話ではないのに、どこかおかしかった。

 

「あなたを守りたい」

レオンハルトが言った。

唐突ではなかった。

でも、真っすぐすぎて、少し戸惑った。

 

「帝国としての立場から言っているのではない。個人として言っている」

私は彼の目を見た。

嘘はなかった。

いつもそうだが、この人の目には嘘がない。

 

「あなたが望まない場所へ連れて行かれることを、私は許容できない」

低く、静かな声だった。

でも、その言葉の奥に、揺るぎない何かがあった。

私は少しの間、黙っていた。

守りたい、と言われた。

それがどういう意味なのか、今すぐには受け取りきれなかった。

でも、温かいということだけは分かった。

 

「……ありがとう、ございます」

声が出た。

細かったが、ちゃんと言葉になった。

レオンハルトは少し目を細めた。

笑みというほどではないが、表情が和らいだ。

 

その夜から、私は古代語の本を手元に置いた。

読めない文字が並んでいたが、挿絵だけは何度も見た。

あの長い髪の女性。

目を閉じて、歌っている女性。

この人も、怖かっただろうか、と思った。

世界の調律者などという大層な名前で呼ばれて、各地の人間に求められて、それでも歌い続けた人。

私には、まだその覚悟がなかった。

世界のために歌う、などという気持ちには、とてもなれなかった。

でも——大切な人のために歌うことなら、もう少し先に見えてきた気がした。

演奏会の日に泣いていたあの兵士たちのために。

マリアのために。

レオンハルトのために。

それだけで、今は十分かもしれなかった。

 

翌週、また王宮からの文書が届いた。

今度は文官ではなく、位の高そうな貴族が使者として来た。

礼儀正しかったが、目に力があった。

何かを探っている目だった。

文書の内容は前回より踏み込んでいた。

王都の魔力異常について調査中であること。

アイリス・ルーンフェルト嬢に関係する古代の記録を調べていること。

近日中に改めて正式な使者を送る予定であること。

近日中に、正式な使者。

王宮が動き始めていた。

もうただの「健康確認」ではなく、目的を持った接触が始まろうとしている。

使者が帰ったあと、私は文書を机に置いた。

窓の外では、花が揺れていた。

猫のクロが、昨日から戻ってきてシロとトラの間に収まっている。

庭の野菜は、今日も青々としていた。

ここは静かで、穏やかで、私が初めて息のできる場所だった。

この場所が、また変わっていくかもしれない。

怖いか、と自分に聞いた。

怖い、と答えが返ってきた。

でもそれと同じくらい、もう逃げるだけではいたくないという気持ちも、確かにあった。

挿絵の中の女性が、また頭に浮かんだ。

目を閉じて、歌っている。

怖くなかったわけがない。

それでも歌い続けた人。

私も、歌い続けられるだろうか。

答えはまだ出なかった。

でも今夜は、その問いを持ったまま、庭へ出た。

星の下で、花たちに向かって、静かに歌った。

世界の均衡のためではなく、ただ今夜のために。

それだけで、今は十分だった。














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