第六章 初めての拍手
提案を受けたのは、穏やかな朝だった。
空気が澄んでいて、庭の花の香りが風に乗ってくる、そういう朝。
レオンハルトはいつものように石塀の外に来て、少し雑談をして、それからいつもと少し違う声で言った。
「一つ、頼みたいことがある」
私は彼の顔を見た。
普段と変わらない表情だったが、少しだけ慎重に言葉を選んでいる気配があった。
「小さな演奏会を、開けないだろうか」
演奏会。
その言葉が、胸の中でじわりと重くなった。
「私の部下が十数名いる。彼らは国境付近で魔力異常に対処し続けていて、正直なところ疲弊している」
レオンハルトは続けた。
「あなたの歌には、人の心を落ち着かせる何かがある。私はそれを感じた。あなたの歌が彼らに届いたなら、きっと力になると思っている」
丁寧な言い方だった。
押しつけではなく、お世辞でもなく、ただ真剣に頼んでいた。
でも。
私は俯いた。
人前で歌う。
複数の人間の前で。
その人たちの視線が自分に集まって、声を出すことを期待されて。
喉が、思い出したように固くなった。
あの舞踏会の夜が、瞼の裏に浮かんだ。
挨拶さえ出来なくて、笑われて、声が出せないことを理由に捨てられた夜が。
「嫌なら、構わない」
レオンハルトはすぐに言った。
私が俯いたのを見て、察したのだろう。
「無理にとは思っていない。ただ、もしできそうなら、と思っただけだ」
頭では分かっていた。
この人が強制する気がないことも、私を傷つけるつもりがないことも。
でも体が、言うことを聞かなかった。
首を横に振った。
小さく、でもはっきりと。
レオンハルトは頷いた。
「分かった」
それだけだった。
落胆した様子もなく、責める言葉もなく、ただ受け取った。
その日の会話は、それ以上その話題に触れなかった。
天気のこと、庭のこと、離宮に増えた猫のこと。
いつもと変わらない時間が続いた。
私は内心で、ずっと自分を責めていた。
三日後、また眠れない夜があった。
暗い部屋の中で天井を見上げながら、あの提案のことを考えた。
なぜ断ったのか、と問い直すつもりはなかった。
理由は分かっている。
怖かった。
ただそれだけだ。
でも——怖い、だけでいいのだろうか。
ここへ来てから、私は少しずつ変わっていた。
庭で歌えるようになった。
レオンハルトの前で歌えるようになった。
マリアやトーマスやエリナとも、短い言葉なら交わせるようになった。
怖いままで、何も変わらないままで、それでいいのか。
答えは出なかった。
でも朝になって、私はレオンハルトに声をかけた。
「……やっぱり、やってみます」
声が震えていた。
でも言えた。
レオンハルトは少し驚いたように目を見開いて、それからゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
それだけを言った。
よかった、とも、やはりそうだろう、とも言わなかった。
ただ、ありがとう、と。
演奏会は、その二日後に開かれた。
場所は離宮の庭だった。
レオンハルトの部下たちが庭の外に並んで、私が庭の中に立つという形になった。
石塀を挟んで、こちらと向こう。
直接顔が見えないくらいの距離があった。
それがせめてもの、私への配慮だったのだと思う。
当日の朝から、手が震えていた。
マリアが用意してくれた朝食に、ほとんど手がつけられなかった。
「お嬢様、食べないと声が出ませんよ」
マリアは淡々と言った。
優しくなったとはいえ、やはり彼女は淡々としている。
でもそのいつも通りの口調が、かえって落ち着いた。
少し食べた。
午後になって、庭へ出た。
石塀の外に、人の気配があった。
見えないが、そこにいると分かった。
男たちの静かな息遣い。
甲冑のわずかな音。
体が固まった。
足が動かなくなりそうだった。
そのとき、石塀の向こうからレオンハルトの声がした。
「アイリス」
静かな声だった。
「彼らは、あなたを笑わない」
それだけだった。
説明も、保証も、それ以上の言葉もなかった。
あなたを笑わない。
その言葉が、固まった体に、すうっと染み込んでいった。
足が、少しだけ動いた。
庭の中ほどまで、歩いた。
息を吸った。
怖かった。
まだ怖かった。
でも、声が出なくていい、と思った。
完璧に歌えなくていい、と思った。
ただ、音を出すだけでいい。
唇が、開いた。
最初の一音が、空気に溶けた。
震えていた。
細かった。
それでも続けた。
二音、三音。
旋律が、少しずつ形になっていく。
あの母の鼻歌ではなく、もっと別の歌だった。
どこで覚えたのかも分からない、でも体の奥にずっとあった歌。
歌いながら、視線を感じた。
石塀の向こうからの、静かな視線。
怖いはずだった。
でも今日は——不思議と、背中を押されている気がした。
庭の花が揺れた。
風が穏やかになった。
猫たちが、どこからともなく集まってきた。
歌い続けた。
声が安定してきた。
震えが、少しずつ止まっていった。
一曲、歌い終えた。
しばらく、沈黙があった。
とても長い沈黙に感じた。
心臓が、耳の中で鳴っていた。
笑われるかもしれない、という恐怖が、最後の最後で頭をもたげてきた。
そのとき。
拍手の音が、聞こえた。
一人ではなかった。
二人でも、三人でもなかった。
石塀の向こうから、十数人分の拍手が、一斉に鳴り響いた。
私は、動けなかった。
拍手。
私に向けられた、拍手。
舞踏会では、笑われた。
挨拶さえできないと、蔑まれた。
王妃に向かないと、捨てられた。
なのに今、この人たちは——拍手をしている。
目が熱くなった。
今度は、止められなかった。
涙が、一粒、頬を伝った。
慌てて袖で拭おうとしたとき、石塀の向こうから声が聞こえた。
レオンハルトの部下の一人だろう、若い男の声だった。
「……なんだ、これ」
苦しそうな声だった。
でも悪い意味ではなかった。
続けて、別の声。
「胸が、痛い」
「なんで泣いてるんだ、俺」
「おい、泣くな、恥ずかしい」
「お前だって目が赤いだろ」
笑いが混じった。
泣きながら笑っているような、そういう声だった。
私も、泣きながら笑いそうになった。
レオンハルトの声がした。
「……ありがとう、アイリス」
静かだったが、確かに届いた。
私は何も言えなかった。
声が出なかったのではなく、言葉が追いつかなかった。
胸がいっぱいで、どこから言葉にすればいいか分からなかった。
ただ頷いた。
精一杯、頷いた。
夕方、マリアが夕食を運んできたとき、私の目が赤いのに気づいて少し眉を上げた。
「……泣いていたのですか」
頷いた。
「悲しいことがあったのですか」
首を横に振った。
マリアはしばらく私の顔を見てから、小さく息をついた。
「そうですか」
それだけ言って、夕食を置いて出ていこうとした。
扉の前で少しだけ立ち止まって、振り返らないまま言った。
「……お嬢様の歌は、いいものです」
それだけ言って、出ていった。
部屋に一人残された。
夕食の湯気が、静かに上がっていた。
マリアも、聞いていたのだと分かった。
台所の窓から、あるいは廊下から。
聞こえていたのだと分かった。
いいものです、と言った。
淡々とした声で、でも確かにそう言った。
拍手よりも、ずっと後から、その言葉が胸に届いた。
窓の外に、夕星が一つ光っていた。
今日初めて、自分の声が世界のどこかに届いた気がした。
怖くて、震えていて、それでも届いた。
それで十分だと、今夜だけは思えた。




