第五章 王都の異変
異変の知らせは、風のように届いた。
離宮に来て一ヶ月が過ぎた頃のことだった。
その日のレオンハルトは、いつもより少し早く来た。
午前の光がまだ柔らかい時間に、馬の蹄の音が聞こえてきた。
私は庭で猫たちと過ごしていた。
膝の上に一匹、肩の近くに一匹。
最近は名前をつけることにした。
白いのをシロ、縞模様のをトラ、黒いのをクロ。
マリアには「お嬢様らしくない名前ですね」と言われたが、声に出しやすい名前の方が私にはいい。
「アイリス」
石塀の向こうから声がした。
いつもより少しだけ、張りつめた声に聞こえた。
近づいて顔を見ると、レオンハルトの表情がわずかに硬かった。
いつもの穏やかさの下に、何か考えているものがある顔だった。
「少し、話せますか」
頷いた。
レオンハルトはしばらく言葉を選ぶように黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「王都で異変が起きているという情報が入った」
胸がざわりとした。
王都。
私を追放した場所。
でも、私が生まれ育った場所でもある。
「魔力暴走が頻発している。魔物の目撃情報も増えている。王城を守る結界も、不安定になりつつあると聞いた」
一つ一つ、淡々と述べる声だった。
でも、その内容は穏やかではなかった。
私は眉をひそめた。
王都での魔力異常。
隣国と同じ現象が、今度はこちらの国でも起きているということか。
「帝国側の情報網から入った話だ。正確かどうかはまだ分からない」
レオンハルトは付け加えた。
情報の不確かさを隠さない人だ、と改めて思った。
都合のいいことだけを言わない。
そういうところが、信頼できた。
「ただ——」
また少し間を置いた。
「一つ、気になることがある」
私は彼の目を見た。
「王都の異変が始まったのは、あなたがここへ来てから、ほぼ同じ頃らしい」
その言葉が、空気の中に静かに落ちた。
意味を、頭の中で繰り返した。
私がここへ来てから。
王都で異変が始まった。
偶然かもしれない。
でも、偶然とは思えない何かが、その言葉の裏にあった。
「古い文献に、こう記されている」
レオンハルトは外套の内側から、折り畳まれた紙を取り出した。
写しだろう、古い書体で何かが書かれている。
彼は読み上げた。
「"歌姫は大地の声を聞き、世界の均衡を保つ。彼女の歌声が届く地に乱れはなく、歌声の届かぬ地は自ずと歪んでいく"」
私は息を止めた。
届かぬ地は、自ずと歪んでいく。
つまり——私が王都を離れたことで、王都の魔力の均衡が崩れ始めた、ということなのか。
自分でも気づかないうちに、私は何かを、していたのだろうか。
王都にいた頃も、ずっと。
誰にも知られないまま、誰にも理解されないまま、ただ存在しているだけで、何かを保っていたのだろうか。
頭が、うまく整理できなかった。
「あなたのせいではない」
レオンハルトが静かに言った。
私が何を考えているか、分かったのかもしれない。
「あなたは何も悪いことをしていない。ただ、あなたという存在が、この世界には必要だったというだけの話だ」
必要。
その言葉が、胸に引っかかった。
必要とされることに、慣れていなかった。
否定されることには慣れていたのに。
その夜、眠れなかった。
暗い天井を見上げながら、王都のことを考えた。
クラウス殿下のことを考えた。
セレナ嬢のことを考えた。
私を見もしなかった、あの広間の人たちのことを考えた。
恨む気持ちは、不思議とあまりなかった。
ただ——あの場所に残してきた人たちが、困っているとしたら。
使用人たちや、街の人たちが、魔物や魔力暴走に怯えているとしたら。
私に、何かできることがあるだろうか。
答えは出なかった。
夜が深くなるにつれて、窓の外に星が増えていった。
北の方角の空は、今夜は赤くなかった。
それだけが、少し安心だった。
数日後、予想外の来客があった。
馬車の音がしたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
レオンハルトの馬ではない、もっと重い、車輪の音。
マリアが玄関へ出て行き、しばらくして戻ってきた。
その顔がわずかに強張っていた。
「……王宮からの使者です」
胸が冷えた。
王宮から。
使者は若い文官だった。
私の顔を見るなり、ぎこちなく頭を下げた。
慇懃ではあるが、どこかここに来たくなさそうな気配があった。
文書を差し出した。
受け取って、読んだ。
内容は短かった。
王都で魔力異常が発生していること。
複数の賢者が調査をしているが原因が分からないこと。
そして——アイリス・ルーンフェルト嬢の健康状態の確認。
健康状態の確認。
そんな建前で、王都は私のことを調べ始めたのだ。
私が離宮を出た頃から異変が始まったことに、誰かが気づき始めている。
まだ確信ではないから、表立っては動かない。
でも、探りを入れてきた。
文官はすぐに帰っていった。
答えも求めず、ただ文書を届けて。
マリアが淹れてくれたお茶を、私は少しずつ飲んだ。
温かかったが、気持ちは落ち着かなかった。
翌日、レオンハルトに話した。
文書を持っていったわけではない。
ただ、昨日あったことを、できる限り声で伝えようとした。
単語が途切れ途切れになりながら、それでも伝えようとした。
レオンハルトは黙って聞いた。
途中で遮ることも、先回りすることもなかった。
私が言葉を探して止まると、ただ待った。
全部話し終えると、彼はゆっくりと息を吐いた。
「動き始めたか」
低く、独り言のような言葉だった。
「王宮がこちらへ使者を送るのは、時間の問題だと思っていた」
私は頷いた。
分かっていた。
いずれそうなるだろうと、なんとなく予感していた。
「あなたはどうしたい」
レオンハルトは、そう聞いた。
あなたはどうしたい。
誰かに、そう聞かれたことがあっただろうか。
どうするべきか、どうしなければならないか、ならば必ず誰かが決めてくれた。
でも、どうしたいか、と聞かれることは——なかった気がした。
私は少し考えた。
王都に戻りたいか。
答えは出なかった。
あの場所に、まだ戻る気持ちにはなれなかった。
でも、何もしないままでいいのかという気持ちもあった。
うまく声に出せなくて、首を傾けた。
分からない、という意味で。
レオンハルトはそれを受け取って、静かに言った。
「急がなくていい。あなたが決めるまで、私はここにいます」
その言葉が、じわりと胸に染みた。
私はここにいます、と言った。
私を急かさず、結論を押し付けず、ただいると言った。
どうしてこの人は、こんなふうに言えるのだろう。
少し不思議だった。
でも、不思議だと思う気持ちより、温かいと感じる気持ちの方が大きかった。
その夜も、私は庭に出た。
星が多い夜だった。
シロが足元をうろうろして、トラは縁側で丸まっていた。
クロだけが、いつの間にか姿を消していた。
花が揺れていた。
風があったわけではない。
ただ揺れていた。
息を吸った。
少し歌った。
長くはなかった。
ただ、体の中に溜まっていたものを、少しだけ外へ出す感じで。
歌いながら、考えた。
私の声が世界を安定させるというなら、私がここで歌い続けることに意味はあるのだろうか。
王都には届かない。
でも、ここにいる間は、少なくともここだけは守れる。
それで、いいのだろうか。
答えはまだ出なかった。
でも今夜は、それでも歌い続けた。
誰かのためではなく、ただ自分のために。
それだけでいい夜も、あっていいと思った。
北の空は静かだった。
赤くも、歪んでもいなかった。
ただ星だけが、等しくそこに瞬いていた。
王都の空も、今夜は同じように星が見えているだろうか。
そんなことを、ふと思った。




