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第四章 あなたの声を、もっと聞きたい

レオンハルトは、翌日も来た。

午後の日差しが庭に降り注ぐ頃、石塀の向こうから蹄の音が聞こえた。

昨日と同じ数の馬。

昨日と同じ、静かな足音。

私は縁側に座って本を読んでいたが、その音を聞いた瞬間に体がこわばった。

また来る、とは言っていた。

でも本当に来るとは、正直なところ思っていなかった。

皇子が、追放された令嬢の離宮を訪ねる。

そんなことに何の意味があるのか、昨夜いくら考えても分からなかった。

魔力の暴走を止めるため、という理由は聞いた。

でもそれなら、私を連れて行くか、あるいはもっと別の方法を取るはずだ。

わざわざ一人で来る必要はない。

 

「アイリス」

石塀の向こうから、静かな声がした。

昨日よりも少し砕けた呼び方だった。

嬢、もルーンフェルト嬢、もつかない、ただの名前。

私は本を置いて、縁側から庭へ降りた。

近づくべきか迷ったが、結局、昨日と同じくらいの距離まで歩いた。

 

「邪魔をするつもりはない」

レオンハルトはそう言いながら、石塀に腕をのせた。

昨日と同じ仕草。

急がない、急かさない、という意思表示のように見えた。

 

「少し、話してもいいですか」

頷いた。

声は出なかった。

でも彼は気にしなかった。

それがまだ、少し不思議だった。

 

レオンハルトはその日、魔力のことを話した。

隣国——帝国では、ここ数ヶ月で魔力異常が急増しているという。

原因は分かっていない。

大地の魔力が乱れて、暴走を起こす。

それが魔物の発生につながり、農作物の枯死につながり、人々の生活を脅かしている。

 

「古い文献には、世界の魔力を調律する存在の記録がある」

レオンハルトは静かに言った。

 

「"歌姫"と呼ばれていた。歌によって、乱れた魔力を鎮める力を持つ者のことだ」

私はその言葉を、黙って聞いていた。

歌姫。

聞いたことのない言葉だった。

でも、昨日から感じていたことと、どこかで繋がる気がした。

あの空の赤さ。

あの低い振動。

そして私の歌が流れた瞬間に、世界が静まったこと。

 

「今は伝承扱いされている。本当に存在したのかどうかさえ、学者の間で意見が分かれている」

一度言葉を区切って、レオンハルトはこちらを見た。

真っすぐな目だった。

責めているわけではなく、ただ事実を見ているような目。

 

「だが昨日、あなたの歌を聞いた瞬間に確信した。あれは伝承ではない」

私には何も言えなかった。

信じてほしかったわけでも、認めてほしかったわけでもない。

ただ、自分が何者なのかを誰かに言われる、ということが、こんなに不思議な感覚だとは思わなかった。

 

翌日も、レオンハルトは来た。

その次の日も。

また次の日も。

国境視察という名目があるのだろうが、毎日来るのはいくら何でも不自然だった。

マリアも不思議そうにしていたが、何も言わなかった。

トーマスは最初こそ警戒した顔をしていたが、レオンハルトが礼儀正しく、乱暴なことを一切しないと分かると、次第に気にしなくなった。

レオンハルトはいつも石塀の外にいた。

中に入ろうとしなかった。

私が距離を取りたいのを察しているのかもしれなかった。

彼が来るたびに、私の体は最初こわばった。

男の人が近くにいると、どうしても体が先に反応してしまう。

これは昔からのことで、家の者にも、殿下にも、誰に対してもそうだった。

でもレオンハルトは、そのこわばりが解けるまで、いつも待っていた。

急かさない。

視線を外さない。

でも、詰め寄りもしない。

ただそこに、静かにいる。

その在り方が、少しずつ体に馴染んでいった。

 

「今日は天気がいいですね」

ある日、レオンハルトはそんな言葉から始めた。

軍事の話でも魔力の話でもなく、ただの天気の話。

私は空を見上げた。

確かに、気持ちのいい青空だった。

頷くと、彼は満足そうに頷き返した。

 

「この辺りは、王都より空が広い気がします」

私も、そう思う。

王都の空は建物に切り取られていたが、ここは地平線まで空が続いている。

そう伝えたかったが、声は出なかった。

代わりに、両手を広げて空の広さを示した。

レオンハルトは一瞬驚いたように見えたが、すぐに表情が和らいだ。

 

「……そうですね。広い」

それだけで、通じた。

私は少し驚いた。

声がなくても、伝わることがあるのか。

当たり前のことかもしれないが、今まで誰もそれを拾ってくれる人がいなかったから、実感として知らなかった。

 

五日目のことだった。

庭の一角で、野菜の苗が病気にかかっていた。

葉が黄色くなって、茎が細くなっている。

マリアが朝から心配そうに見ていた。

私はその苗の前にしゃがんで、しばらく見ていた。

どうしてあげることもできない、と思いながら。

そのとき自然と、口から歌が漏れた。

ほんの数小節。

苗が、わずかに揺れた。

葉の色が、少しだけ戻った気がした。

後ろから、静かな気配がした。

振り向くと、石塀の向こうにレオンハルトが立っていた。

いつの間に来ていたのか、気づかなかった。

彼は黙って苗を見ていた。

私は慌てて立ち上がった。

歌っているところを見られたことが、なぜか恥ずかしかった。

顔が熱くなるのを感じた。

 

「すみません、気づかずに聞いてしまった」

レオンハルトはそう言って、少し困ったような顔をした。

責めているのではなく、本当に申し訳なさそうに。

 

「でも——」

一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。

 

「あなたの声を、もっと聞きたいと思ってしまった」

真っすぐな言葉だった。

飾りがなかった。

お世辞でも、哀れみでもない、ただの本音。

私は固まった。

声が出なかった。

でも今回は、体がこわばったからではなかった。

別の理由で、うまく動けなかった。

あなたの声を聞きたい、と言われたことが——なかった。

生まれてから一度も。

声を出せ、声を出すべきだ、なぜ声が出ないのか、そればかり言われてきた。

でもこの人は、私の声を、聞きたいと言った。

目が熱くなった。

泣くつもりはなかった。

でも、何かが胸の奥で解けていくような感覚があった。

 

「嫌でしたか」

レオンハルトが静かに聞いた。

私の様子を見て、言いすぎたかと思ったのかもしれない。

首を横に振った。

嫌ではなかった。

全然、嫌ではなかった。

彼は少し安堵したように息を吐いた。

 

「……ならよかった」

その表情が、どこか子どものように見えた。

戦場で"白銀の死神"と呼ばれているとは、とても思えなかった。

昨日、マリアから聞いた話だった。

隣国の第二皇子は戦場では恐ろしい人物だと、国境近くでは噂になっているらしい。

でも今この人は、ただ静かに、石塀の向こうから私を見ていた。

 

七日目の夕方、少しだけ勇気を出した。

レオンハルトがいつものように石塀の外で話していたとき、私は短く口を開いた。

 

「……あの」

声になった。

小さかったけれど。

レオンハルトはすぐに顔を向けた。

でも前のめりにはならなかった。

そのままの距離で、静かに待った。

 

「今日、歌って……いいですか」

何を言っているのか、自分でもよく分からなかった。

頼む必要などない。

庭で一人で歌っていればいいだけなのに。

でも、聞いてほしかった。

この人に、聞いてほしかった。

レオンハルトは、少し目を見開いた。

それから、ゆっくりと頷いた。

 

「もちろん」

たった一言だった。

でもその声の温かさは、これまでに聞いた誰の言葉よりも、深く胸に届いた。

私は庭の中ほどに立った。

空は夕焼けに染まり始めていた。

橙と紫が混ざり合う、一日の終わりの色。

息を吸った。

声を出した。

最初は震えていた。

でも歌い続けると、体が落ち着いていった。

旋律が流れるにつれて、庭の花たちが顔を上げた。

夕風が穏やかになった。

猫が一匹、二匹と集まってきた。

石塀の向こうで、レオンハルトはずっと黙って聞いていた。

急かさず、遮らず、ただそこにいた。

歌い終えると、しばらく沈黙があった。

やがてレオンハルトが、静かに言った。

 

「……ありがとう」

それだけだった。

感想も、評価も、何もなかった。

ただ、ありがとうと言った。

私は俯いた。

顔が熱かった。

泣いてはいなかったけれど、泣きそうだった。

声を聞かせてよかった、と思った。

こんな気持ちは、初めてだった。

夕暮れの中で、花たちはまだ揺れていた。

そしてレオンハルトはその日、日が暮れるまで石塀の外にいた。




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