第三章 白銀の皇子
その日は、朝から空の色がおかしかった。
青ではなく、灰でもなく、どこか濁った紫がかった色。
雨が降る前の空に似ているが、雲はそれほど多くない。
ただ、空気が重かった。
胸の奥がじくじくと痛むような、奇妙な重さ。
マリアも気づいていたのか、台所で仕事をしながら何度も窓の外を見ていた。
「今日は外に出ない方がいいかもしれません」
朝食のとき、彼女はそう言った。
理由は言わなかった。
私も聞かなかった。
でも昼を過ぎた頃、その重さに耐えられなくなって、庭へ出てしまった。
家の中にいると、かえって息が詰まる感じがした。
外の空気を吸えば、少しは楽になるかと思ったのだ。
庭の花たちは、今日はうなだれていた。
いつもは風に揺れているのに、今日は頭を垂れて、まるで何かに耐えているようだった。
猫たちも来なかった。
鳥たちも来なかった。
静かすぎる庭を、一人で歩いた。
国境の方角から、低い唸りのような音が聞こえた気がした。
音というより、振動に近い。
耳ではなく、体の芯で感じるような。
思わず立ち止まって、北の方を見た。
昼間だというのに、地平線の近くが薄く赤く染まっている。
夜に見たあの色と同じだった。
でも今日の方が、ずっと濃かった。
足元の土が、かすかに揺れた。
気のせいではなかった。
野菜の苗が、風もないのに激しく揺れている。
庭の隅に咲いていた花たちが、一斉にうなだれた。
体が、反応した。
考えたわけではなかった。
言葉でもなかった。
ただ喉の奥から、音がせり上がってきた。
あの旋律が、自然と唇から流れ出した。
最初は小さく、次第に大きく。
声が震えていた。
でも止められなかった。
何かに呼ばれているような、何かに必要とされているような感覚が、胸いっぱいに広がっていた。
歌っている間、空気が変わっていくのが分かった。
重さが、少しずつ薄れていく。
あの低い振動が、静かになっていく。
花たちが、またゆっくりと頭を持ち上げていく。
どれくらい歌っていただろう。
気がつくと、空の赤みは消えていた。
濁っていた色も、元の青灰色に戻っていた。
胸の痛みも、なくなっていた。
ふう、と息を吐いた。
膝に力が入らなくて、その場にしゃがみ込んだ。
歌うと体が疲れる、ということを初めて知った。
いつもはそんなことはないのに、今日はまるで遠くまで走ってきたような疲労感があった。
草の上に座り込んで、空を見上げた。
普通の空に戻っている。
さっきのは何だったのだろう。
そして私の歌は、本当に何かをしているのだろうか。
「……」
声に出して考えることができないから、頭の中だけで問い続けた。
答えは出なかった。
そのとき——庭の外から、馬の蹄の音が聞こえた。
離宮に来客などあるはずがなかった。
この場所は辺境の離宮だ。
国境に近く、王都から遠く、誰も寄りつかない。
マリアもトーマスも、私が来てから外部の人間が来たことなど一度もないと言っていた。
蹄の音は一頭ではなかった。
複数の馬が、離宮の外の街道を通り過ぎようとしている。
こんな場所を通る人間など、国境の視察か、あるいは軍の者くらいしかいないはずだ。
私はしゃがんだまま動けなかった。
足に力が戻っていなかったし、声を出して誰かを呼ぶこともできなかった。
ただ草の上に座って、音の方向を見ていた。
庭と街道の間には、低い石塀があった。
馬の姿は見えないが、蹄の音はどんどん近づいてきて——そして、止まった。
しばらく沈黙があった。
それから、石塀の向こうから声がした。
低く、静かな声。
でも、何を言っているのかは聞き取れなかった。
次の瞬間、石塀の上から人の顔が見えた。
銀色の髪だった。
日の光に溶けるような、白に近い銀。
それが真っ先に目に入った。
次いで、鋭いが冷たくはない瞳。
整った顔立ち。
軍装と思われる深い藍色の外套。
男の人だった。
年齢は二十代半ば頃だろうか。
騎馬の人間が石塀越しに庭を覗くなど、普通ではない。
私は思わず後退りした。
「……失礼」
男はそう言った。
声は低く、穏やかだった。
戦場の人間の声ではない、と思った。
でもその外套の肩には、見覚えのない紋章が刻まれていた。
隣国の——紋章だ。
気づいた瞬間、体がこわばった。
隣国は、この王国と長年緊張関係にある国だ。
その人間が、なぜここにいるのか。
国境視察の一行が、道を間違えたのだろうか。
男は私の様子を見て、それ以上近づこうとはしなかった。
ただ石塀の向こうから、静かにこちらを見ていた。
その目に、敵意はなかった。
むしろ——何か深いものを探すような目だった。
「今の歌は、あなたが歌っていたのですか」
問いかけは、穏やかだった。
責めているわけでも、驚いているわけでもなく、ただ確かめるような声で。
私は答えられなかった。
頷くことすら、できなかった。
男性が怖い、というわけではないが、こんなに唐突に、こんなに至近距離で話しかけられたことがなかった。
男は急かさなかった。
石塀に腕をのせて、ただこちらを待っていた。
その静けさが、少しだけ怖くなかった。
やっと、小さく頷いた。
男の目が、わずかに揺れた。
何かを堪えるような、あるいは何かに打たれたような、そんな表情だった。
「……そうか」
低く、息のような声だった。
男はしばらく黙っていた。
私も黙っていた。
風が吹いて、庭の花が揺れた。
馬が遠くで鳴いた。
それから男は、ゆっくりと口を開いた。
「あなたの歌が聞こえた瞬間、暴走しかけていた魔力が止まった」
私には、意味が分からなかった。
魔力の暴走。
そんなことが起きていたのか。
あの空の赤さが、あの振動が、そういうものだったのか。
「国境付近での魔力異常は、ここ数週間で急増している。今日は特にひどかった」
男は静かに続けた。
こちらを怖がらせないように、ゆっくりとした声で。
「それが、あなたの声一つで鎮まった」
私はうまく言葉を返せなかった。
そもそも言葉が出なかったし、出たとしても何を言えばいいか分からなかった。
自分でも信じられていないことを、この人は当然のように言う。
男は私の沈黙を待ってから、また口を開いた。
「……やっと見つけた」
呟くような声だった。
独り言のような、でも確かに私に向けられた言葉。
その声の温度に、何かがざわりとした。
怖いのではなかった。
ただ、その言葉の重さが、胸のどこかに落ちた。
やっと、と言った。
探していた、ということなのか。
この人は、私を——あるいは私のような人間を——探していたのか。
意味が分からなかった。
でも、その目が嘘をついていないことだけは、なぜか分かった。
「私はレオンハルト。帝国の第二皇子だ」
さらりと言った。
まるで名前を名乗るのと同じ調子で、皇子だと言った。
皇子。
隣国の、皇子。
その言葉が頭に届くまで、少し時間がかかった。
届いた瞬間、また後退りしそうになった。
でも男——レオンハルト——は、やはり急かさなかった。
「怖がらせてしまったなら、申し訳ない」
その一言が、予想外だった。
皇子が、追放令嬢に謝る。
そんなことが起きるとは、思っていなかった。
私は反射的に首を横に振った。
違う、と。
怖くない、と伝えたかった。
正確には、少し怖かったけれど、この人が怖いわけではなかった。
レオンハルトは私の仕草を見て、わずかに目を細めた。
怒っているのではなく、笑みに近い表情で。
「名前を、聞いてもいいですか」
また、穏やかな声だった。
私は口を開いた。
でも声は出なかった。
喉が、いつものように固まった。
レオンハルトは待った。
焦らず、急かさず、ただそこにいた。
王都にいた頃、私が声を出せないでいると、みんなすぐに視線を外した。
待ってくれた人など、誰もいなかった。
なのに、この人は待っていた。
それがひどく——不思議だった。
ようやく、唇が動いた。
「……アイリス」
小さな声だった。
かすれていた。
でも、確かに出た。
レオンハルトは静かに頷いた。
「アイリス」
私の名前を、そのまま繰り返した。
大切なものを確かめるように、丁寧に。
それだけで、なぜか胸が温かくなった。
理由は分からなかった。
名前を呼ばれることなど、別に珍しいことではないはずなのに。
空は、すっかり元の色に戻っていた。
庭の花たちが、また風に揺れていた。
猫が一匹、どこからか戻ってきて、私の足元にすり寄った。
レオンハルトはそれを見て、もう一度わずかに笑った。
何かを言いかけて、でも今日はそこまでにする、というように口を閉じた。
「また来ても、いいですか」
問いかけは、許可を求める形をしていた。
皇子が、一介の令嬢に。
私は少し考えてから、頷いた。
なぜそうしたのか、うまく説明できなかった。
ただ、この人の前では少しだけ、息がしやすかった気がしたから。
レオンハルトは一礼して、馬の方へ戻っていった。
蹄の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
私は一人、庭に残された。
膝の上に猫が乗ってきた。
のどを鳴らす音だけが、静かに響いていた。
隣国の皇子が、私の歌を聞いていた。
魔力の暴走を、私の声が止めた。
そして彼は——やっと見つけた、と言った。
全部の意味が、まだ分からなかった。
でも今日初めて、誰かが私の歌を否定しなかった。
声を笑わなかった。
ただそこに、いてくれた。
その事実だけが、夕暮れの中でゆっくりと、胸の奥に沈んでいった。




