第二章 沈黙の歌姫
離宮での最初の朝は、鳥の声で始まった。
窓の外から、聞いたことのない種類の鳴き声が聞こえてくる。
目を開けると、薄い朝の光が石造りの天井を白く染めていた。
見慣れない部屋。
見慣れない天井。
昨夜のことが、夢ではなかったと改めて知る。
ゆっくりと身を起こして、窓辺へ向かった。
昨夜咲いていた花たちは、今朝も変わらずそこにあった。
夢ではなかったのだと分かって、少しだけ安堵する。
それと同時に、不思議な感覚も戻ってくる。
あれは一体、何だったのだろう。
答えは出なかった。
ただ花だけが、朝露を纏って静かに揺れていた。
離宮の暮らしは、想像以上に孤独だった。
使用人は三人だけ割り当てられていたが、誰も積極的に話しかけてこなかった。
必要最低限の言葉だけを交わして、あとは自分たちの仕事へ戻っていく。
王都の侯爵邸とは何もかもが違った。
広さも、華やかさも、人の温もりも。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
静かな場所は、むしろ私には合っていた。
誰にも挨拶を求められない。
声を出すことを期待されない。
そういう場所が、こんなに楽だとは思わなかった。
初めの数日は、ただぼんやりと過ごした。
庭を眺めたり、備え付けの書架から古い本を引っ張り出したり、窓辺に座って空の色が変わるのを追ったり。
何かをしなければという焦りは、なぜか湧いてこなかった。
王都にいた頃はいつも、何かに追われているような感覚があったのに。
「失礼します」
三日目の朝、扉を開けたのは年配の女性使用人だった。
名前はマリアという。
三人の中でいちばん口数が少なく、いちばん目を合わせてこない人だった。
「朝食の用意ができております」
それだけ言って、すぐに出ていこうとする。
私は思い切って声を出そうとした。
ありがとう、という簡単な言葉を。
けれどやはり、喉のあたりで何かが固まって、うまく出てこなかった。
マリアはこちらを振り向かなかった。
もう慣れた、と言い聞かせながら、私は椅子を引いた。
四日目の夕方のことだった。
離宮の裏手に、小さな菜園があった。
荒れた庭の一角に、誰かが作ったのだろう畝の跡がある。
今はもう何も育っていないが、土の色だけはまだ生きていた。
なんとなく、そこに座り込んだ。
理由はなかった。
ただ土の匂いが、どこか懐かしかった。
しばらくそうしていると、また音が漏れた。
昨夜と同じ、あの鼻歌。
今度は自分でも気づいていた。
やめようとは思わなかった。
誰も聞いていないし、ここには叱る人もいない。
風が吹いた。
土がかすかに動いた気がした。
翌朝、マリアが離宮の台所から慌てた声を上げた。
「……これは」
私は声をかけられると思っていなかったので、少し驚いた。
マリアが指差す先には、台所の棚に置かれていた鉢植えがあった。
数日前まで枯れかけていたそれが、鮮やかな緑の葉を広げている。
「昨日まで、ほとんど死にかけていたのに」
マリアは首を傾げながらそう言って、こちらをちらりと見た。
私は何も言えなかった。
というより、自分が何かをしたという認識がなかった。
ただ庭に座って、歌を歌っただけなのだから。
「不思議なこともあるものですね」
そう呟いて、マリアは台所へ戻っていった。
それから不思議なことが、続いた。
五日目。
使用人の一人、若いトーマスが薪割り中に手を切った。
深くはなかったが血が出ていて、私は思わず駆け寄った。
声が出なかったので、手ぬぐいを差し出して傷口を押さえた。
それだけのつもりだったのに、気がつけば鼻歌が漏れていた。
ほんの数小節。
「……あれ」
トーマスが手ぬぐいをめくって、目を丸くした。
傷が、ふさがっていた。
完全にではないが、あれほど赤かった傷口が、薄いかさぶた程度まで戻っている。
「お、お嬢様……これは」
私は首を横に振った。
違う、と言いたかったが、声が出なかった。
自分でも何が起きているのか分からなかった。
トーマスはしばらく手を見つめてから、ぺこりと頭を下げた。
「……ありがとうございます」
それは誤解だと思ったが、訂正する術もなかった。
六日目の朝には、野良猫が離宮の庭に来た。
一匹だけだと思っていたら、夕方には三匹になっていた。
翌日には五匹。
その次の日には、小鳥まで枝に止まるようになっていた。
動物たちは私の傍に来たがった。
猫たちは膝の上に乗り、鳥たちは肩に止まった。
理由は分からなかった。
ただ不思議と、彼らと一緒にいると歌いやすかった。
「お嬢様は、動物に好かれるのですね」
ある昼下がり、マリアがそう言った。
以前よりも、少しだけ柔らかい声だった。
私は頷いた。
マリアも、少しだけ微笑んだ。
それだけだったけれど、それで十分だと思った。
離宮に来て十日ほど経った頃、菜園に変化が起きた。
何も植えていないはずの畝から、細い芽が顔を出していた。
土の中に残っていた種が芽吹いたのだろうか、とマリアは言った。
でも私には、別の考えがあった。
あそこで歌うたびに、土が少しずつ変わっていく気がしていたから。
確かめる術はなかった。
自分の歌が何かをしているという確信もなかった。
ただ、あの夜に咲いた花たちのことを思うと——まったくの偶然とも言い切れなかった。
芽はどんどん大きくなった。
十日後には、葉を広げた野菜の苗が立派に育っていた。
マリアもトーマスも、もう一人の使用人のエリナも、不思議そうに畑を眺めては首を傾げた。
でも、誰も私を疑わなかった。
あるいは、疑う理由が見当たらなかったのかもしれない。
声も出せない追放令嬢が、歌で野菜を育てているなどとは、誰も想像しないだろうから。
私自身も、まだ信じられずにいた。
ある夜、眠れなくて窓を開けると、遠くの空が赤く染まっていた。
北の方角——つまり、隣国との国境の向こう。
炎ではなく、もっと違う色の赤さだった。
どこか禍々しい、見ていると頭が重くなるような色。
何だろう、と思ったが、それ以上は分からなかった。
この離宮には新聞も届かないし、王都からの情報も来ない。
隣国で何が起きているのかなど、知る術がなかった。
ただ、あの赤い空を見たとき、体の奥がざわりとした。
何かが、おかしい。
そんな感覚が、胸の隅にひっかかった。
気のせいだと思って、窓を閉めた。
布団に戻って、目を閉じた。
そのとき、また口から音が漏れた。
今度は意識してではなく、眠りに落ちていく境界線の上で。
まるで体が勝手に歌うように、あの旋律が流れていく。
外で、風が変わった気がした。
赤かった空の色が、翌朝には元に戻っていた。
あのとき空に何があったのか、今も分からない。
でも——何かがあったことだけは、確かだと思った。
離宮に来て半月が過ぎた頃、私は少しずつ変わっていた。
王都にいた頃よりも、息がしやすかった。
叱る人がいない。
笑う人がいない。
比べる人がいない。
そういう場所で、私はようやく、普通に呼吸をしていた。
歌も、少しずつ長くなっていた。
最初は数小節だったものが、今は一曲丸ごと歌えるようになっていた。
もちろん、人前ではない。
猫たちと、鳥たちと、育ちつつある野菜たちに向けて、こっそりと。
それでも、歌うことが怖くなかった。
それだけで十分だと、今の私には思えた。
マリアがある夜、夕食の片付けをしながら言った。
「お嬢様、最近、顔色がよくなられました」
私は少し驚いて、彼女の顔を見た。
マリアは皿を拭きながら、相変わらず目を合わせなかった。
でも、その声には以前とは違う温かさがあった。
「……お体に合っているのかもしれませんね、ここが」
そうかもしれない、と思った。
声には出せなかったけれど、ちゃんと頷いた。
マリアは小さく微笑んで、また皿を拭き続けた。
窓の外には、今夜も花が揺れていた。
名前も知らない小さな花たちが、月明かりの中でそっと光っている。
あの夜、婚約破棄された夜に咲いたあの花たちが、今もまだここにいる。
私がここにいる限り、この花たちはきっと枯れないのだろう、とふと思った。
根拠はなかった。
ただそんな気がした。
北の空はその夜も少しだけ赤かった。
でも昨夜より薄くなっていた気がした。
そして私の歌声は、眠りに落ちるまでずっと、夜の中に溶けていった。




