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第一章 声の出せない婚約者

シャンデリアの光が、無数の宝石のように宴の間へ降り注いでいる。

白と金で飾られた大広間には、王国中から集まった貴族たちの笑い声が満ちていた。

ドレスの裾が床を滑る音、グラスが触れ合う澄んだ音、遠くで奏でられる弦楽四重奏。

すべてが華やかで、すべてが眩しくて、私はその中心に立ちながら、自分だけがどこか別の世界に存在しているような気がしていた。

アイリス・ルーンフェルト。

侯爵令嬢。

クラウス王太子殿下の婚約者。

胸の中で、自分の肩書きを繰り返す。

覚えておくように、言い聞かせるように。

それでも足が震えることには、何の意味もなかった。

今夜は公式の舞踏会だ。

月に一度、王宮で開かれる社交の場。

本来ならば私も堂々と立っていなければならない場所のはずなのに、どうしてもここが好きになれなかった。

正確には——「この場所が苦手」ではなく、「この場所にいる人たちの視線が怖い」という方が正しい。

幼い頃に受けたある出来事以来、人前に出ると喉がきゅっと締まって、言葉がどこかへ消えてしまう。

怠けているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。

ただ、声が出ない。

それだけのことなのに、誰にもわかってもらえたことはなかった。

今夜も同じだと分かっていた。

それでも来なければならなかった。

婚約者として、令嬢として、この場に立つことだけが今の私に残された役目だったから。

 

「アイリス嬢、ご挨拶を」

侍従長の静かな声が、右耳をすり抜けていく。

そのひと言が引き金になったかのように、周囲の視線がいっせいに私へと集まった。

肩が、すくむ。

喉の奥が、固く閉じる。

何かを言わなければという焦りだけが、頭の中でぐるぐると渦を巻いた。

 

「あ……」

声にならない音が、唇の隙間からこぼれる。

それだけだった。

続きが出てこない。

喉が痛いわけではない。

言いたいことがないわけでもない。

ただ人前に立つと、まるで誰かに声帯を握りしめられたように、言葉がどこかへ消えてしまうのだ。

くすくす、という笑い声が耳に届いた。

一つではなく、二つ、三つ、やがてそれは扇の陰に隠れた囁きとなって広間の端まで広がっていく。

 

「また声が出なかったわ」

 

「王太子殿下も大変ね」

 

「あんな方が王妃になるのかしら……」

聞こえないふりをする術は、長年かけて磨いてきた。

視線を一点に定めて、表情を動かさないようにして、ただ嵐が過ぎるのを待つ。

息を、ゆっくりと吐く。

それが私の、生き延びてきた方法だった。

 

「アイリス」

低く、冷えた声が空気を切る。

クラウス殿下——私の婚約者——が、金糸の刺繍が施されたマントを揺らして近づいてきた。

整った顔立ちと颯爽とした立ち姿は、まさしく王太子と呼ぶにふさわしい。

しかし今、その瞳には隠しきれない苛立ちの色があった。

 

「今夜の挨拶くらい、まともにできると思っていたのだが」

責める言葉は、静かなほど深く刺さる。

私は小さく頭を下げた。

謝りたかった。

でも、その一言さえも出てこなかった。

 

「……仕方あるまい」

殿下は短くため息をついてから、私から視線を外した。

そして——広間の向こうへと目を向ける。

そこには、セレナ・ヴァルテス嬢が立っていた。

明るい金の巻き毛、よく通る笑い声、人を惹きつける華やかな所作。

貴族たちの輪の中心で、まるでそこが自分の庭であるかのように笑っている。

殿下の目が、柔らかくなるのが分かった。

私に向けられることのない、温かな光で。

胸が痛む。

でも、驚きはなかった。

きっと前から気づいていたのだと思う。

ただ、気づかないふりをしていただけで。

 

「諸君」

殿下が声を上げると、広間がしんと静まり返った。

王太子の声には、そういう力がある。

貴族たちの笑い声も、グラスの音も、弦楽の演奏さえも、その一言で止まった。

 

「本日、大切な発表がある」

胸の奥で何かが軋む音がした。

予感というより、すでに知っていた気がする。

ずっと前から、気づいていた気がする。

 

「アイリス・ルーンフェルト嬢との婚約を、本日をもって解消する」

シャンデリアの光が、そのとき妙にまぶしく感じられた。

広間がざわめく。

でも、私の耳にはそのざわめきさえ遠かった。

まるで、厚いガラス越しに世界を見ているようだった。

音が届いているのに、何も入ってこない。

それほど、その言葉は大きかった。

 

「王妃に必要なのは、華だ。民を鼓舞し、場を束ねる声と存在感だ。残念ながら、アイリス嬢にはそれが欠けている」

欠けている。

その言葉が、胸のどこかへゆっくりと沈んでいった。

否定したくても、声が出なかった。

反論したくても、言葉がなかった。

泣きたくても、涙さえ出なかった。

ただ、世界がどこか遠くなっていくような、奇妙な感覚だけがあった。

 

殿下はそのままセレナ嬢の元へ歩み寄り、彼女の手を取った。

セレナ嬢は驚いたように目を見張ったが、すぐに優雅な笑みを浮かべた。

その笑みの奥に、ちらりと勝ち誇った光が見えた気がしたのは——気のせいだったのだろうか。

貴族たちの視線が、品定めするように私の上を動く。

憐れみ、好奇、軽蔑。

そしてどこか安堵したような目もあった。

みんな、こうなることを予想していたのかもしれない。

私だけが、まだ信じたかったのかもしれない。

 

「アイリス嬢には、王都北方の離宮を用意する。しばらくそこで静養されるがよい」

静養、という言葉はずいぶんと柔らかに聞こえるが、要するに追放だ。

北方の離宮は国境に近い、人気のない土地だと聞いていた。

王都の社交界からは遠く離れた、文字通り誰も気にかけない場所。

私はゆっくりと一礼した。

声が出なくて、よかったかもしれない。

もし今、何か言おうとしたら、きっと情けない音しか出せなかった。

使用人が近づいてきて、静かに誘導する。

広間から出るとき、誰も私を見送らなかった。

誰一人、振り返らなかった。

それが——声を失うことよりも——ずっとこたえた。

 

北の離宮へ向かう馬車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。

王都の灯りが遠ざかり、やがて闇の中に消えていく。

胸が痛いのか、痛くないのかも、よく分からなかった。

ただ、ひどく疲れていた。

それだけがはっきりしていた。

馬車が石畳の道を揺れるたびに、今夜の光景が瞼の裏に浮かんでは消える。

シャンデリアの光。

殿下のため息。

セレナ嬢の笑顔。

そして——誰も私を見なかった、広間の出口。

泣こうとしてみたが、やはり涙は出なかった。

きっと、どこかで覚悟していたから。

あるいは、本当に悲しいことは、涙の出ないところにあるから。

離宮に着いたのは、夜が深くなった頃だった。

石造りの建物は、長年人が入っていなかったのか、どこか埃の匂いがする。

庭は荒れ放題で、枯れた草が月明かりに白く光っていた。

用意された寝室は質素で、暖炉の火も小さかった。

 

「どうぞ、お休みください」

言い捨てるように言った使用人は、すぐに出ていってしまった。

残ったのは、沈黙と、遠くの木が風に揺れる音だけ。

私は荷物を床に置いたまま、窓辺に立った。

荒れた庭が、月明かりの下に広がっている。

かつて誰かが丁寧に手入れしたのだろうが、今はもうその面影もない。

枯れた茎、色の消えた土、そして月だけ。

なぜかその光景を、美しいと思った。

壊れていても、枯れていても、月の光だけは等しくここへ降り注いでいる。

そういう場所を、嫌いになれそうになかった。

涙が出るかと思ったが、やはり出なかった。

代わりに、胸の奥から何かがじわじわとせり上がってくる感覚があった。

悲しみとも怒りとも違う、もっと静かで、もっと深いもの。

気がついたら、音が漏れていた。

声ではなく、歌でもなく、ただの鼻歌。

無意識だった。

昔——まだ声が出せていた頃に——母がよく口ずさんでいた旋律だった。

どんな歌詞だったかはもう覚えていない。

でも、その音だけは、体が覚えていた。

ふ、と息を吐くように音が漏れる。

もう一度。

また一度。

喉が、ほんの少しだけ緩む気がした。

庭の枯れ草が、風もないのに揺れた。

気のせいかと思った。

でも違った。

土の中から何かが芽吹くように、緑が滲み出してくる。

固く閉じていた蕾が、ゆっくりと開いていく。

白い花、赤い花、名前も知らない小さな花たちが、月明かりの下で次々と咲き始めた。

私は息を止めた。

歌声も、止まった。

 

夢を見ているのかと思った。

でも頬をつねるほどの勇気はなく、ただ窓に額を押し付けるようにして、その光景を見つめていた。

花は幻ではなかった。

夜風にそっと揺れながら、確かにそこに存在している。

かつて誰かが愛したであろう庭が、今だけは確かに息をしていた。

 

「……なんで」

ようやく声が出たのは、そのときだった。

誰に向けるでもない、ひと言。

でも確かに、私の声だった。

答える者はいなかった。

ただ花だけが、静かに揺れ続けた。

今夜のことは、誰にも話さないでおこうと思った。

どうせ信じてもらえないし、信じてもらえたとしても、何も変わらない。

私はただの、声の出せない婚約破棄された令嬢なのだから。

そのはずだった。

でも——あの花の香りは、翌朝も庭に漂っていた。

そしてそれを見つめる私の胸には、昨夜とは少しだけ違う何かが、小さく灯っていた。



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