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第十四章 もう遅い 何もかも

クラウス殿下が来ると知ったのは、前日の夕方だった。

王宮からの連絡ではなく、レオンハルトの情報網から先に届いた。

王太子が少数の供を連れて、明日この離宮へ向かうという話だった。

レオンハルトは私に伝えるとき、いつもより少し慎重な顔をしていた。

 

「会いたくなければ、断る理由を作れます」

私は少し考えた。

会いたいか。

正直に問い直した。

会いたくない、とは思わなかった。

でも、会うのが怖いかと言われれば、少し怖かった。

あの舞踏会の夜の記憶が、まだどこかに残っていたから。

でも——逃げなくていいとも思った。

以前の私と、今の私は、少し違う。

頷いた。

会います、という意味で。

レオンハルトは静かに頷き返した。

 

「では私もいます」

それだけだった。

それだけで、十分だった。

 

翌日の昼過ぎ、馬車が来た。

王家の紋章だったが、以前のヴァルナー卿のときよりずっと小さな馬車だった。

供の騎士も二人だけ。

公式の訪問というより、個人的な訪問の体裁をとっていた。

私は応接室で待った。

マリアが丁寧に茶を用意してくれた。

扉の前には、レオンハルトの部下が一人立っていた。

レオンハルト本人は、庭にいた。

応接室からは見えない位置だったが、そこにいると分かっていた。

扉が開いた。

クラウス殿下が入ってきた。

社交界で最も華やかだと言われた人だった。

金の髪、整った顔立ち、颯爽とした立ち姿。

そのどれも変わっていなかった。

でも、目が違った。

あの舞踏会の夜、私を見るとき苛立ちと軽蔑で満ちていた目が、今日は違う色をしていた。

疲労と、後悔と——それから、言葉にしにくい何かが、その目にあった。

殿下は私を見て、一瞬止まった。

それから、ゆっくりと歩いてきた。

椅子には座らなかった。

私の前に立って——膝をついた。

頭を下げた。

完全に、下げた。

 

応接室が、しんと静まり返った。

王太子が、一介の追放令嬢の前に膝をつく。

そんな光景を、誰が予想しただろう。

マリアが入り口で息を飲む音が聞こえた気がした。

私は動けなかった。

怒りが来るかと思っていた。

痛みが蘇るかと思っていた。

でも来たのは、静けさだった。

奇妙なほど、穏やかな静けさ。

 

「アイリス嬢」

殿下の声は、低く、かすれていた。

 

「謝罪の言葉では足りないと分かっている。だが、言わずにはいられない」

頭が下がったままだった。

 

「あの夜のことは、間違いだった。あなたを公衆の前で否定したことも、声が出ないことを理由に価値がないと断じたことも、全て」

一言一言が、丁寧だった。

練習してきた言葉ではなく、本当に絞り出した言葉に聞こえた。

 

「戻ってきてくれ」

顔を上げた。

その目は、真剣だった。

 

「王妃としてでなくていい。歌姫としてでもいい。ただ、王都に——私の傍に」

私はその言葉を、静かに聞いた。

怒鳴りたい気持ちはなかった。

泣きたい気持ちも、なかった。

ただ、胸の中がひどく凪いでいた。

嵐の後の海のような、そういう凪。

殿下の言葉は、本物だと思った。

後悔も、謝罪も、本物だと思った。

人の感情を疑うほど、私は歪んでいなかった。

でも——遅かった。

それだけのことだった。

怒りでも、意地でもなく、ただ事実として、遅かった。

私は椅子から立ち上がった。

殿下の顔が、わずかに上がった。

期待の色があった。

私は一度、応接室の窓を見た。

庭が見えた。

レオンハルトの姿は見えなかったが、そこにいると分かった。

それから、殿下に向き直った。

声を出した。

震えなかった。

 

「殿下」

殿下の目が、真っすぐこちらを見た。

 

「あなたの謝罪は、受け取りました」

一呼吸おいた。

 

「ですが、戻ることはできません」

殿下の表情が、静かに曇った。

 

「なぜ……あなたの力があれば、王国は——」

 

「力のために必要とされることと、私自身を必要とされることは、違います」

声が出続けた。

不思議なくらい、出続けた。

殿下は口を閉じた。

私は続けた。

言わなければならない気がした。

自分のためではなく、ただ、正直に。

 

「殿下は私の声が嫌いでした。声が出ないことを恥だと思っていました。それは事実です」

殿下の顔が歪んだ。

否定しなかった。

 

「今、殿下が私を必要としているのは、歌姫の力があるからです。あの頃と同じです。私ではなく、私の持つものが必要なのです」

それは責めているのではなかった。

ただ、そうだと思ったから、言った。

殿下はしばらく黙っていた。

それから、苦しそうに口を開いた。

 

「……それだけではない」

 

「殿下」

遮った。

今日初めて、誰かの言葉を遮った。

殿下が目を見開いた。

私自身も、少し驚いた。

でも、止まらなかった。

 

「もう遅いのです」

静かに、はっきりと言った。

応接室がまた、静まり返った。

殿下は立ち上がらなかった。

膝をついたまま、俯いた。

その肩が、小さく震えていた。

私はその姿を見て、胸が痛まなかったとは言えない。

でも、揺らがなかった。

窓の方へ歩いた。

庭への扉を開けた。

外に出ると、冬の空気が頬に触れた。

庭には花が咲いていた。

猫たちが、縁側で丸まっていた。

そしてレオンハルトが、庭の隅に立っていた。

目が合った。

私は彼のもとまで歩いた。

石塀の内側に来ていた彼の、その手に、そっと触れた。

レオンハルトは少し目を見開いた。

でも手を引かなかった。

私は彼の顔を見て、声を出した。

今日一番、はっきりとした声で。

 

「私の声を好きだと言ってくれたのは、あなただけでした」

レオンハルトは動かなかった。

続けた。

 

「声が出なくても、待ってくれたのも、あなただけでした」

一呼吸。

 

「だから、ここにいます」

レオンハルトの手が、ゆっくりと私の手を包んだ。

大きくて、温かい手だった。

戦場で剣を握る手が、こんなに丁寧に触れることができるのかと思った。

 

「……ここにいてください」

低く、静かな声だった。

命令ではなく、お願いだった。

 

「ずっと」

その一言が、胸の一番深いところに届いた。

目が熱くなった。

今日こそ泣くかと思った。

でも泣かなかった。

代わりに、小さく頷いた。

何度でも頷けた。

庭の花が揺れた。

冬の日差しが、二人の手の上に降り注いでいた。

応接室の方から、扉が閉まる音がした。

殿下が帰っていく音だった。

振り返らなかった。

振り返る必要が、もうなかった。

ここに、いたかったものが全部あった。

声を聞いてくれる人が。

待ってくれる人が。

私が私でいられる場所が。

レオンハルトの手の温かさを感じながら、私はまた、花たちを見た。

この庭は、これからも枯れないだろうと思った。

私がここにいる限り。

そしてこれからは、ここにいていいのだと、今日初めて、はっきりと思えた。




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