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第十三章 あなたのために歌いたい

声は、少しずつ戻ってきていた。

あの夜から三日が経って、朝の庭では短い旋律なら歌えるようになっていた。

完全ではなかった。

人前では、まだ出なかった。

でも、一人でいるとき、あるいは猫たちといるとき、細い音なら流れてきた。

レオンハルトはその間も毎日来て、一度も歌を求めなかった。

世界の魔力が揺れていることは、もう誰もが知っていた。

王国からも帝国からも、焦りを滲ませた使者が何度か来た。

でもレオンハルトだけは、いつも私の顔を先に見た。

今日はどうですか、と目で聞いてくる。

昨日より少し眠れました、と目で答える。

そういう会話を、何度繰り返しただろう。

 

転機は、思いがけない形で来た。

その日の午後、レオンハルトが石塀の外で部下と話しているのが聞こえた。

声をひそめていたが、離宮の庭は静かだったから、断片的に聞こえてきた。

魔力嵐の規模が、また大きくなっているという話だった。

帝国の北の村が、すでに避難を始めているという話だった。

このままでは、一週間以内に国境付近の広い範囲が影響を受けるという話だった。

そして——レオンハルトの声が、静かに答えていた。

「分かっている。だが急かすな」

部下の声が何か言った。

 

「歌姫様がいなければ、殿下のお立場も——」

 

「構わない」

短く、はっきりとした声だった。

 

「私のことは心配しなくていい。彼女が自分で決めるまで、待つ」

それきり、会話は終わった。

私は菜園の前にしゃがんで、その言葉を静かに受け取っていた。

私のことは心配しなくていい。

彼女が自分で決めるまで、待つ。

レオンハルトには、立場があった。

帝国の皇子として、国境の安全を守る責任があった。

私が歌えないことで、その責任が揺らいでいるとしたら、それは彼にとって不利なことのはずだった。

でも彼は、待つと言った。

私のことは心配しなくていい、と言った。

胸の奥が、じわりと熱くなった。

熱くなりながら、痛かった。

この人は、どこまで私を守ろうとするのだろう。

世界などどうでもいい、と言った。

待つと言った。

急かさなかった。

私はずっと、誰かの役に立てないと捨てられる場所にいた。

声が出なければ価値がない。

王妃に向かなければいらない。

役立たずは消えろ。

そういう言葉の中で育った。

でもこの人だけは、違った。

ただそこにいてくれた。

ただ待ってくれた。

その人が今、私のせいで困っている。

私のことを守ろうとして、自分の立場を後回しにしている。

嫌だった。

この人に、苦労をかけたくなかった。

この人のために、何かしたかった。

義務ではなく。

強制でもなく。

怖いからでもなく。

この人のために、歌いたかった。

 

その気持ちが芽生えた瞬間、何かが変わった。

胸の奥で、固く閉じていたものが、少しだけ緩んだ音がした。

比喩ではなく、本当に、何かが解けた感覚があった。

私はゆっくりと立ち上がった。

菜園を離れて、庭の中ほどまで歩いた。

シロが後を追ってきた。

トラもクロも来た。

息を吸った。

父の言葉が浮かんだ。

醜態を晒すな。

浮かんだが、今日は少し違った。

その声の向こうに、別の声があった。

母の声だった。

歌いなさい、アイリス。

あなたの声は、きれいよ。

幼い頃に言ってくれた言葉だった。

ずっと忘れていたわけではなかったが、父の言葉の陰に隠れていた言葉だった。

今日、初めてその声が、父の声より大きく聞こえた。

唇を開いた。

声が出た。

最初の一音が、庭に落ちた。

震えていたが、細くなかった。

昨日より、ずっと大きかった。

旋律が続いた。

途切れなかった。

庭の花たちが、いっせいに顔を上げた。

うなだれていた茎が、ゆっくりと伸びた。

枯れかけていた葉に、緑が戻った。

私は歌いながら、石塀の方を向いた。

レオンハルトが、塀の向こうに立っていた。

いつから聞いていたのか分からなかった。

でも彼はそこにいて、この庭を見ていた。

私を見ていた。

目が合った。

歌い続けた。

今日の歌は、世界のためではなかった。

魔力を安定させるためでも、災害を鎮めるためでも、義務を果たすためでもなかった。

ただ、この人に聞かせたかった。

それだけだった。

歌が長くなった。

いつもより、ずっと長くなった。

旋律が自然と広がっていって、どこで終わるかも分からないまま、ただ続けた。

庭全体が、光を帯び始めた。

雪の夜と同じ、あの金色の光。

花の上に、草の上に、土の上に、小さな光の粒が舞った。

空の色が変わった。

昼間だというのに、星のような光が庭に瞬いた。

北の赤みが、急速に薄れていくのが分かった。

体の中から何かが流れ出していく感覚が、以前より深かった。

怖くはなかった。

今日は、怖くなかった。

歌い終えたとき、膝が抜けそうになった。

でも今日は倒れなかった。

両足で、立っていた。

庭が静まり返った。

レオンハルトが、石塀越しに私を見ていた。

その表情を、今日は真っすぐに見ることができた。

彼の目が、少し赤かった。

泣いているわけではなかった。

でも、泣く手前のような、そういう目だった。

私は一歩、石塀に近づいた。

声が出るか試みた。

出た。

細かったが、ちゃんと言葉になった。

 

「あなたのために、歌いたかった」

言えた。

レオンハルトは少しの間、何も言わなかった。

ただ私を見ていた。

それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「……聞こえました」

声が、いつもより低かった。

堪えているような声だった。

 

「全部、聞こえました」

私は頷いた。

もう声は出なかったが、それで十分だった。

シロが鳴いた。

庭の花たちが、満開に近い顔をして揺れていた。

空はもうすっかり青かった。

北の赤みは、消えていた。

トラウマが、完全に消えたわけではないと思う。

これからも、怖くなる日はあるかもしれない。

声が出ない日も、あるかもしれない。

でも今日、私は自分の意思で歌った。

義務でも恐怖でもなく、ただ誰かのために声を出した。

それが、これまでと違った。

母が教えてくれた旋律は、ずっと私の中にあった。

父に否定されても、婚約者に捨てられても、消えなかった。

それはきっと、誰かに渡すためのものだったのだと、今日初めて思った。

石塀の向こうのレオンハルトが、また赤い耳をしていた。

私はそれを見て、少しだけ笑った。

今日の笑いは、泣き笑いでも、こらえ笑いでもなかった。

ただ、嬉しくて笑えた。

それだけのことが、今日はひどく大切に感じられた。


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