第十二章 歌えなくなった歌姫
それは、一通の手紙から始まった。
差出人の名前を見た瞬間、手が止まった。
父の名前だった。
侯爵家当主、ルーンフェルト侯爵。
私を産み、育て、そして王太子への婚約を決めた父。
婚約破棄の夜も、離宮送りになる私を見送らなかった父。
封を切った。
筆跡は几帳面で、感情の見えない文字が並んでいた。
内容は短かった。
歌姫としての力が各国に知れ渡った今、家名を高める好機である。
王国への帰還が難しいなら、帝国との縁談も検討する。
いずれにせよ、家のために力を使うことを考えよ。
家のために。
その四文字を、何度も読んだ。
怒り、という感情が先に来るかと思っていた。
でも来なかった。
来たのは、もっと古いもの。
もっと深いところに眠っていたもの。
幼い頃の記憶だった。
声が出なくなったのは、七歳の頃だった。
母が死んだ年だった。
病で逝った母の葬儀の場で、私は泣きながら何かを言おうとした。
言いたかった。
でも、泣きすぎて声が出なかった。
そのとき父が言った。
「泣くな。侯爵令嬢が人前で醜態を晒すな」
それだけだった。
葬儀の場で、母の棺の前で、父はそれだけを言った。
私は声を飲み込んだ。
泣き声を飲み込んだ。
そのまま、ずっと飲み込み続けた。
母の歌を歌えなくなったのも、あの日からだった。
一人でいるとき以外は、声が出なくなったのも。
あの日以来、人前で声を出すたびに、あの言葉が喉の奥から蘇ってきた。
醜態を晒すな。
その記憶が、手紙一枚で戻ってきた。
完全に戻ってきた。
翌朝、庭に出た。
猫たちが集まってきた。
いつもは足元に来るシロが、今日は顔を擦りつけてきた。
私の様子を、動物は敏感に感じ取る。
歌おうとした。
出なかった。
唇を開いた。
息を吸った。
でも音が、来なかった。
喉が、石のように固まっていた。
もう一度、試みた。
やはり出なかった。
頭の中に、父の言葉が浮かんだ。
醜態を晒すな。
次に、舞踏会の夜の笑い声が蘇った。
また笑われる。
また声が出ないと言われる。
また捨てられる。
喉が、もっと固くなった。
花たちが、うなだれ始めた。
気のせいではなかった。
私が歌えなくなるたびに、庭の植物は少しずつ元気を失う。
世界の魔力と、私の歌声がつながっているのだとしたら、今頃どこかで異変が始まっているかもしれなかった。
分かっていた。
分かっていても、声が出なかった。
その日レオンハルトが来た頃には、私は縁側に座り込んでいた。
彼は私の顔を見て、すぐに何かを察した。
でも何も言わなかった。
石塀の外に立って、ただ黙って見ていた。
しばらくして、私は手紙のことを話した。
声が細くて、途切れ途切れで、うまく順序立てて話せなかった。
でも、言えた。
父のこと。
手紙の内容。
七歳の頃の記憶。
母の葬儀の日のこと。
全部話し終えると、喉が痛かった。
泣いていなかったが、こんなに長く声を使ったのは久しぶりだった。
レオンハルトは、最後まで黙って聞いていた。
一度も遮らず、急かさず、ただそこにいた。
私が話し終えてから、少し間があった。
それから、静かに口を開いた。
「……辛かったですね」
それだけだった。
慰めでも、解決策でも、叱咤でもなかった。
ただ、辛かったですね、と言った。
その一言が、胸の奥の何かを、静かに溶かした。
目が熱くなった。
今日こそ泣こうとした。
でも不思議と、涙は出なかった。
あまりにも長く押し込めてきたものは、急には外に出られないのかもしれなかった。
「歌えなくなっています」
声に出した。
告白するような気持ちで。
「今朝、試みましたが、出ませんでした」
レオンハルトは頷いた。
驚いた様子はなかった。
庭の花がうなだれているのを、すでに見ていたのかもしれない。
「無理に歌わなくていい」
即座に言った。
「世界の魔力が乱れても?」
私は聞いた。
聞きながら、自分でも意地悪な問いだと思った。
でも確かめたかった。
レオンハルトは少しも迷わなかった。
「君が壊れるくらいなら、世界などどうでもいい」
静かだった。
怒鳴りもしなかった。
大げさでもなかった。
ただ、当然のことを言うように言った。
世界などどうでもいい。
その言葉が、胸の奥まで届いた。
帝国の皇子が、世界の魔力安定よりも私を選ぶと言った。
誰かを守るために存在しているはずの人が、私のために世界を後回しにすると言った。
信じていいのか、分からなかった。
でも、この人が嘘をつかないことは、長い時間をかけて知っていた。
唇が震えた。
「……なぜ、そこまで」
声が出た。
かすれていたが、言葉になった。
レオンハルトは少し目を細めた。
困ったような、でも困っていないような、複雑な表情だった。
「なぜ、と聞かれると」
少し間があった。
「うまく答えられないですが」
また間があった。
耳が、赤くなっていた。
「あなたが笑っている方が、世界が安定しているより、私には大切なので」
それだけ言って、視線を花の方へ向けた。
私は何も言えなかった。
声が出なかった。
今度は固まったからではなく、溢れすぎて出てこなかった。
花たちはまだうなだれていた。
でも私の胸の中では、何かがゆっくりと動き始めていた。
長い間眠っていたものが、目を覚ますような感覚。
その夜も、歌えなかった。
翌日も、翌々日も。
北の空が少し赤みを帯び始めたという報告を、レオンハルトの部下が持ってきた。
王国からも、魔力異常の悪化を知らせる文書が届いた。
それでもレオンハルトは、一度も歌うように言わなかった。
ただ毎日来て、話をして、時には黙って同じ空を見た。
庭の花がうなだれていても、世界が少しずつ揺らいでいても、彼は急かさなかった。
四日目の夜、眠れなくて縁側に出た。
星が見えた。
北の空はうっすらと赤かったが、あの嵐の夜ほどではなかった。
まだ、時間はある。
母のことを考えた。
葬儀の日のことを考えた。
そして——父の手紙のことではなく、もっと前の記憶を考えた。
母が歌ってくれていた頃のことを。
毎晩、眠る前に歌ってくれた。
声は細くて、上手くはなかったけれど、温かかった。
私はあの歌を聞きながら、いつも眠りに落ちた。
その歌を、私は受け継いでいた。
父に否定されても。
婚約者に捨てられても。
ずっと、体の中に残っていた。
目を閉じた。
母の歌を思い出した。
歌おうとは思わなかった。
ただ、思い出した。
そのとき、唇の隙間から音が漏れた。
ほんの一音。
細くて、かすれていて、歌と呼べるものではなかった。
でも、出た。
花が、一輪だけ、頭を上げた。
私は目を開けた。
また音を出した。
今度は、もう少し長く。
全部ではなかった。
完全でもなかった。
でも、確かに声があった。
北の空の赤みが、ほんのわずかだけ薄れた気がした。
まだ戻り切っていなかった。
でも、糸口が見えた気がした。
母の歌を、もう少し思い出してみようと思った。
義務のためではなく、ただ母を思い出すために。
それだけで、今夜はいいと思った。




