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最終章 世界で一番幸せな歌

あれから、三年が経った。

春の朝は、鳥の声で始まる。

窓を開けると、帝国の庭園が目に飛び込んでくる。

王都の離宮より広く、北の気候に合わせた花々が、今年も丁寧に咲いていた。

侍女が朝の支度を手伝いながら、今日の予定を読み上げた。

午前に各国の使節との会合。

午後に古代魔法の研究者たちとの勉強会。

夕方に——何もない。

最後の一つに、思わず口元が緩んだ。

 

三年間、多くのことが変わった。

私は正式に「歌姫」として認定された。

帝国の皇帝陛下が認め、王国も、東の大国も、南の同盟諸国も、その存在を公式に認めた。

世界の魔力循環を安定させる者として、あらゆる国から要請が来るようになった。

各国を巡って歌ったこともあった。

大きな魔力災害の前に歌ったこともあった。

王宮の広間で、百人を超える人々の前で歌ったこともあった。

全部、怖かった。

全部、震えながら歌った。

全部、それでも声が出た。

声が出なくなることも、まだあった。

疲れているとき。

嫌な記憶が蘇るとき。

誰かに急かされたとき。

でも以前と違ったのは——そのたびにレオンハルトがいた。

急かさなかった。

待った。

それだけで、また声が戻ってきた。

 

今日の使節会議は、いつもと少し違った。

王国からの使節が来ていた。

新しい担当者で、若い男だった。

礼儀正しく、以前のヴァルナー卿のような傲慢さはなかった。

王国は三年前から大きく変わっていた。

クラウス殿下は王太子の座を降り、静養のために王都を離れたという話が届いていた。

セレナ嬢との婚約も、半年ほどで解消されたと聞いた。

理由は聞かなかった。

知る必要もなかった。

今の王国は、歌姫への姿勢が変わっていた。

命令するのではなく、お願いする形になっていた。

それでいいと思った。

会議の終わり際、王国の使節が言った。

 

「歌姫様が王国を離れたのち、王国は多くのことを反省いたしました」

私は静かに聞いた。

 

「あなたを正しく扱えなかったことを、王国として遺憾に思っております」

謝罪の言葉だった。

個人ではなく、国として。

私は少し考えてから、言った。

 

「受け取りました」

それだけだった。

怒りはなかった。

悲しみも、なかった。

ただ、受け取った。

使節が帰ったあと、レオンハルトが隣で静かに言った。

 

「よかったですか」

頷いた。

よかった、と思った。

こだわり続けることの方が、疲れると知っていた。

 

午後の勉強会は、いつもより長くなった。

フェリクス博士が新しい文献を見つけたとかで、興奮気味に話してくれた。

歌姫の力の仕組みについての新たな解釈で、私自身も聞いていて面白かった。

以前の私なら、こういう場でずっと俯いていただろう。

でも今日は、途中で質問さえした。

声は細かったが、言葉になった。

博士は目を輝かせて答えてくれた。

帰り際に博士が言った。

 

「三年前に初めてお会いしたとき、ここまで話せるようになるとは思いませんでした」

悪口ではなかった。

ただの感想だった。

 

「あの頃から、歌声は変わっていなかったけれど」

博士は続けた。

 

「今の方が、ずっと伸びやかな気がします」

伸びやかな歌声。

その言葉を、帰り道でずっと持っていた。

 

夕方になった。

予定がない時間は、いつも庭に出る。

帝国の庭は広いが、私が一番好きなのは北側の小さな一角だった。

そこだけ、離宮の庭に似た雰囲気があった。

背の低い花が咲いていて、猫が二匹住み着いていた。

名前はシロとクロにした。

トラはあの離宮に残してきたが、マリアが世話をしてくれていると手紙が来ていた。

縁側に腰を下ろした。

夕暮れの光が、庭を橙に染めていた。

足音がした。

振り返らなくても分かった。

レオンハルトが隣に座った。

今日の会議と執務を終えた顔をしていたが、疲れた様子はなかった。

この人はいつも、仕事が終わるとここへ来た。

それが三年間、変わらなかった。

 

「今日は長かったですね」

彼が言った。

 

「勉強会」

頷いた。

面白かった、と伝えると、彼は少し嬉しそうな顔をした。

私が楽しんでいると知ると、いつも嬉しそうな顔をする。

しばらく、二人で夕暮れを見ていた。

こういう時間が、一番好きだった。

何かをしているわけでもなく、ただ同じ空を見ている時間。

王都にいた頃には、想像もできなかった時間だった。

 

「一つ、聞いてもいいですか」

レオンハルトが言った。

 

「今、幸せですか」

唐突な問いだった。

でも、この人らしい問いだった。

確かめずにはいられない、という誠実さがあった。

私は少し考えた。

考えるまでもなかったが、ちゃんと確かめたかった。

幸せか。

あの離宮の夜を思い出した。

婚約を破棄されて、一人で泣いた夜を。

庭に花が咲いて、自分でも意味が分からなかった夜を。

今の私は、あの夜の私に何と言えるだろう。

大丈夫、と言えると思った。

ちゃんと、大丈夫になる、と。

頷いた。

それから、声に出した。

 

「幸せです」

レオンハルトは少し目を細めた。

耳が、少し赤かった。

三年経っても、それは変わらなかった。

 

「よかった」

低く、静かな声だった。

私は前を向いた。

夕暮れの庭に、花が揺れていた。

歌いたい、と思った。

今すぐ、ここで。

この人の隣で。

公の場で歌う歌ではなかった。

世界を救う歌でも、魔力を安定させる歌でもなかった。

ただ、この人のために歌いたかった。

この夕暮れを、少しだけ長く引き留めたかった。

唇を開いた。

声が出た。

震えなかった。

細くもなかった。

ただ、静かで、穏やかな声が、夕暮れの庭へ流れ出した。

母から受け継いだ旋律ではなかった。

新しい歌だった。

いつから作っていたのか自分でも分からない、でも体の中にずっとあった歌。

レオンハルトは動かなかった。

隣で、ただ聞いていた。

庭の花が揺れた。

猫たちが目を開けた。

夕暮れの光が、少し金色になった気がした。

歌い続けると、光の粒が舞い始めた。

あの雪の夜と同じ、小さな金色の光。

でも今日は、もっと多かった。

庭いっぱいに広がって、塀を越えて、空へと昇っていった。

空の端から端まで、光が広がっていった。

帝国の首都の上に。

国境の向こうの王国の空に。

東の大国の、南の同盟諸国の、まだ見ぬ遠い国の空にも。

世界中に、夕暮れの光と金色の粒が混ざり合って、この世のものとは思えない景色が広がっていたかもしれない。

私には見えなかったけれど。

この庭の、この人の隣でしか、歌っていなかったから。

歌い終えると、静かな夜が来ていた。

レオンハルトが、ゆっくりと私の手に触れた。

何も言わなかった。

言葉は、いらなかった。

星が一つ、出ていた。

私は空を見上げて、もう一度だけ小さく歌った。

今度は音楽でも旋律でもなく、ただ一言、声に出した言葉のように。

ありがとう。

誰に向けているのか、自分でもよく分からなかった。

母に。

この人に。

花たちに。

あの離宮の夜を生き延びた自分に。

全部に向けて。

星が、また一つ増えた。

世界のどこかで、今夜の光を見た人がいただろう。

何だろうと空を見上げた人がいただろう。

でも私は今夜、誰にもその理由を教えるつもりはなかった。

ここが、私の歌の場所だったから。

公の広間でも、大きな舞台でもなく。

この小さな庭の、この人の隣が。

世界で一番幸せな歌は、世界一小さな場所で歌われた。

それでよかった。

それがよかった。

声の出せない令嬢は、もういない。

声の出せる私が、ここにいる。

レオンハルトの手が、静かに私の手を握った。

夜が、深く、穏やかに、広がっていった。

 

終幕




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