第五話
「この間学校で璃子様に、姉がいつもお世話になっていますって言われたぞ。急に」
長谷川はそう言い、ネギ塩牛タンを箸でテーブルの中央の網から取り出すと、焼き肉のたれにじゃぶじゃぶつけて、口に放り込んだ。
「礼儀正しくて、想像と違ったかも。璃子様、めちゃくちゃいい子だな」
璃子が一週間前に覚えたメリハリに長谷川がやられているようだ。
「そうやってみんな璃子ばっかり褒める」
私は半生の上ハラミを少しだけたれに浸して口に運んだ。肉の旨味とハラミのしっかりとした歯応え。ハラミがどう考えても王様だ。
「嫉妬?」
「そう」
「大人げない」
「大人げないっていう言葉は大人に使う言葉。私はまだ未成年です。長谷川と違って」
今日は長谷川の十八歳の誕生日だ。長谷川は今日、成人した。誕生日祝いとして比較的高級な焼肉屋に来ている。もちろん個室で私のおごり。
「舞子の誕生日も、もうすぐだな」
長谷川は前回の懐石料理の後、「お前って呼ぶのやめていい?」と言ってきた。急に舞子と呼ばれるのもキザな感じがして背中がムズムズするが、本人としてはちゃんとしたい、ということだったので、私は渋々舞子と呼ぶことを許可した。
「やめてよ」
私の誕生日は再来月。再来月、私の公務が始まる。
「実際のところどうなんだ?」
「うーん、私はやっぱり皇族としてふさわしくないと思っちゃうな」
長谷川は、神妙な面持ちで「そうかなあ」と言うと、
「俺は舞子を知ってるから何とも言えないけど、舞子が一番皇族っぽい気がするけどな」
と続けた?
「なにそれ、たまにそれ言う人いるけど、意味わかんないよ?」
「というと?」
「だって、人々の規範になる人間ならお兄ちゃんみたいに頭良かったり、璃子みたいに愛嬌があったりした方が良くない?」
私がそう言うと、「規範か」と長谷川はぼそっと言い、
「これはあくまでも俺の意見だけど、規範になるというよりは抽象性の方が大事だと思うんだよ」
と続けた。私は「ん?」と少し首を傾げる。よくわからない。
「なんていうのかな、難しいけど、舞子はよくイチローの話をするじゃん?日本の象徴だって。確かに、それはそうなんだけど、皇族のそれとはまた少し違う気がする。イチローの凄さって、数字とかで明確に表されてて、具体的すぎるんだよな」
「ごめん、全く意味わからないんだけど」
「んーとね、こっちに選択の自由がないっていうのかな。四〇〇〇本打ったっていう事実があまりにも凄すぎて、悪い言い方すると、尊敬することを強制されちゃうんだよ。さらに言えば四〇〇〇本ヒットを打ったイチローを、八〇〇〇本分尊敬することもできないわけじゃん?」
「ダメなの?凄いことには変わりなくない?」
「天皇の場合、きっと尊敬することを国民に強制させちゃダメなんだ。あくまで、国民一人一人が自分が思うように天皇っていうものに畏怖の念を抱く。するもしないも、さらに言えばその度合いも全部国民に委ねられている。そのためには天皇っていう存在は究極に中立で抽象的な存在である方が望ましい、気がする。象徴の中でもさらに象徴的な存在、シンボルのシンボル、みたいな」
「お兄ちゃんは具体的すぎる?」
「そうだな」
「つまり、無個性がいいってこと?」
私がそう言うと、長谷川は少し押し黙り、
「無個性がいいとまでは言わないにしても、なんていうか。うん」と言った。
「なんとなく分かったかも。でも、ちょっと嫌な気分」
それは国民側の意見じゃないか、そう思った。
「すまん」
「別に責めてない。長谷川がそう思ってるなら、少なくともそうなんだろうとは思う」
私はそう言った。いつの間にか焦げてカチカチになっていた上ハラミは、網の上でうずくまっているようにも見えた。
「ちょっと俺トイレ行ってくる」
私が一人になりたいと思ったことを察したのか、長谷川はそう言って席を立った。
今の話はあくまでも長谷川が客観的、かつ個人的に感じていることだ。それを私がどうこう指摘するつもりはない。説得力もあったし、一定の納得感もある。「無」になるしかないんじゃないか、ということは私も考えていた。ただ私はそんな自分が嫌だった。にもかかわらず、それを肯定されてしまった。
要するに、私は今のまま良い。そういうことになるが、どうしても腑に落ちない。しかし、これと言って反論の余地があるわけでもない。なんだかあっけなかったような気がする。私は額に掛けてある眼鏡を必死に探していたのだろうか。
私は焦げたハラミをトングでグッと網の間にねじ込み、炭火の中に落とす。ジュワッという音がした。食べ物を粗末にしている、そんな風には思わなかった。新たに網にハラミを一枚追加する。ハラミが焼けるのを待つ。
私はこのままでいいと長谷川は言った。しかし、そんな私をママはおかしいと言った。トンボがシーチキンされるように、私の体が、違う方向に引き裂かれてゆく。
[トンボがシーチキン]
長谷川が目の前からいなくなった瞬間に、私の脳内検閲は再開された。表現が少しグロテスクだったのだろうか。最近は少し規制が厳しくなってきている気がする。
ハラミをひっくり返す。ひっくり返してからは十秒ほどで私の好きな焼き加減になる。心の中で十秒を数えて、ハラミを網から取り出した。
そして大事なことを思い出す。長谷川のいないうちに私のカバンから小さな箱を取り出し、テーブルに置いた。サプライズ、というほどではないが、もたもたと目の前でカバンから取り出すよりはスマートだろう。
ハラミを口に運び、咀嚼していると、長谷川が帰って来たので少し早いが飲み込んだ。
「誕生日おめでとう」
私は改めてそう言った。
「てっきり機嫌悪くなってるかと思ってたけど」
「私、品行方正が売りなの。機嫌悪くても取り繕うくらいできる」
「悪いのかよ」
「冗談。多分私、時間かけて消化していくタイプだから、きっと今の話も今後じっくり考える」
「じっくり考えた結果機嫌悪くなる可能性は?」
「ある」
私がそう言うと、長谷川は、ははっと笑い「開けていい?」と聞いてきた。
「もちろん」と私。
「一応聞くけど、俺は高校生で、再来月舞子の誕生日あるけど、その辺は大丈夫?」
長谷川は少し自信なさげにそう言う。
「あはは、大丈夫。何だと思ってるの?」
「ほんとかなあ」と長谷川は目を細めながらそう言い、ゆっくりと箱を開けた。
「財布か」
長谷川はそう言いながら、財布を箱から取り出す。
「無難でしょ?」と私。
「ちょうど欲しかったんだ」と長谷川。
「ほんとかなあ」と私は目を細めながらそう言い返す。
「ほんとだよ。ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
私がそう言うと、テーブルの上のスマホが振動し、画面がパッと明るくなる。ママからのメッセージだ。「今すぐ帰って来れる?」というメッセージと共にウェブサイトのURLが送られてきていた。私はメッセージアプリを開き、ウェブサイトを開く。ネットニュースだった。またかと思い、内容を見た。その内容に私は少しゾクッとした。
タイトルは、「成仁様、スイスにてフランス人の恋人と堂々街中デート」というもので、画像は、遠巻きに兄と白人の女性が街を一緒に歩いているものだった。これはまずい、直感的にそう思った。
「ごめん長谷川、ママから連絡来て、今すぐ帰らないといけなくなっちゃった」
「マジか、わかった」
「ごめんね、今度埋め合わせするから、必ず」
私はそう言って、護衛の人と共に店を出た。
焼肉屋から御所への道中私は考える。兄の背中を押したのは私だった。記事の真偽は不明だが、もし上手くいったのだとするならば、それに越したことはない。確実にフラれると私は思っていたが、兄の甲斐性も侮れないものだったというだけだ。
しかし、問題はその相手だ。次期天皇の兄がフランス人の女性と。国際結婚など珍しいことでもないが、兄の場合は話が別だ。別に結婚を匂わせているわけではないが、兄が外国人と付き合うこと自体に強く反対する人間がきっと日本にはゴロゴロいるだろう。しかも今はパパの容態が芳しくないという状況下。余りにタイミングと状況が悪すぎる、そう思ったがそれは必然なのだろう。我々にとってタイミングが悪いということは、記事を出す側の人間からしたらタイミングが良いということ。パパの死がお金儲けに利用されているような気がした。
御所に着くと、いつもよりも人で溢れかえっていた。私の家は、「私室部分」、「接待部分」、「事務部分」に分かれているが、事務部分のドアは閉められており、中で何が起きているのかはわからない。
私室部分のリビングに戻ると、璃子がいた。
「大変だね」と、私が言うと、
「戻ってくるのかな」と、璃子が言った。含みのある言い方に、「どういうこと?」と聞くと、
「お兄ちゃん、スイスで失踪したらしいよ」
と、璃子は言った。
「え?」
私は聞き返した。何を言っているのかわからなかった。
「失踪。というか連絡付かなくなっちゃったんだって」
兄が失踪。一瞬物騒な可能性を考えたが、兄に手を出すメリットはほとんどないはずだ。タイミング的にも兄が自分で逃げ出したと考えるのが妥当かもしれない。
「逃げたってこと?」
「私もわかんない」
すると、老眼鏡を掛けたママがリビングに戻って来た。
「舞子、やっと見つけた」
ママはそう言って老眼鏡を外した。
「何??」
私は首を傾げる。この状況でいったい私に何の用があるというのだろうか。
「まだ確定ではないけれど、もしこのままお兄ちゃんが帰ってこなかったら」
ここでいったん言葉を止め、
「舞子、あなたが次の天皇よ」
と続けた。
「え?待って、なんで?私、女だけど」
「舞子の誕生日までに女系天皇を認める法案を通すの」
「お兄ちゃんが帰ってきたら?」
「パパが死ぬ前なら、問題はない、けどパパが先に死んじゃったらどうするかは今協議中」
協議中という現実的な言葉が私の心にスッと入り込み、それと同時に巨大な恐怖の波が私を飲み込む。血の気が引いてゆき、自分の体が自分のものではないような感覚になる。私は無意識に両腕を抱え心臓を守った。
「やだ、やだやだ」
「舞子、ちょっと」
「やだ、やだ、私はやだ」
「舞子、落ち着いて」
「触んないで!」
私に伸びてくるママの手を思い切り弾いてしまった。触られたらもう最後、逃げられなくなるような気がした。
「舞子、あなたの気持ちもわかるけど、仕方ないのよ」
ママは私が弾いてしまった右手をお腹の前で抱えてそう言う。
「やだ。私はやだ」
私はそう言いながら三歩ほど後ずさりすると、振り返って部屋に逃げ込んだ。
ベッドに倒れ込んだ私の脳内は、やだ、の二文字で溢れかえっており、現実を受け入れるなんてことは選択肢にもなかった。私は自分が天皇になるなんて夢にも思っていなかった。私が天皇になることの意味はおそらく私が感じているよりも遥かに大きいことだ。何千年も続いている天皇の血筋。男系の人間、つまり男性の天皇の血を継ぐ人間しか天皇になることが許されず、そのほとんどが男系の男性で、男系の女性が天皇になった回数は長い歴史でたったの八回。それも男系の男子が成人するまでの間の繋ぎのような役割だ。しかし私が天皇になるということは、日本の長い歴史上初めて女系の天皇、つまり女性の天皇の血を継ぐ天皇が誕生するということを意味する。史上初の女系天皇。その母親が私となる。日本の天皇家の大きな、非常に大きな転換点となる。これは、余りにも重すぎる。想像しようとしただけで私の体はぺしゃんこにつぶれてしまい、想像まで辿り着かない。
私はベッドに倒れ込み、氾濫した心を鎮めるために深呼吸をする。もちろん深呼吸程度で心が落ち着くことはなかったが、心に引っかかっている違和感が、少しづつ浮かび上がってきた。
あの兄にフランス人の彼女がいるという事実。それが私には腑に落ちない。
フランス人?私はふと思い立ってスマホを開き、兄が以前話していた歌手、エディットピアフを音楽アプリで検索。すると、真っ白な空間で頭を抱えて立っている小柄な女性が表示され、トップソングの欄に「愛の賛歌」という曲を見つけた。聞いてみると、ノイズが混じったボサボサの伴奏に、力強く、どこか悲痛な女性の歌声が乗る。胸が切り裂かれそうな哀愁が感じられるのは音源が古いからなのか、女性の歌声の魔力なのかはわからない。私の好みの曲ではなかったが、おそらくフランスでは誰もが知る国民的な名曲なのだろう。そう思わせる説得力と凄みのある曲だった。
この人はフランス語で何を訴えているのだろう、そう思い、「愛の賛歌 和訳」と検索。すると、日本でもファンは多いらしく、多くの人が、日本語の翻訳を掲載していた。
もしも大いなる蒼空が崩れ落ち
そしてこの大地が崩壊しようとも
私は気にしない、あなたが愛してくれるなら
私は気にしない
胸が焼けそうなほどに甘ったるい歌詞は、とても兄が好き好んで聞きそうなものには思えなかった。が、二番の歌詞を見た時、全身から血の気が引いていった。
私は国を捨て
私は友を捨てる
あなたがそれを望むなら
人にどう笑われようと
私は何でもする
あなたが望むなら
もしかしたら、兄は本当に帰って来ないかもしれない、そう思った。
どうやったら逃げられるか、私にはそれしか考えられなかった。逃げ道としてまず思い浮かんだのは長谷川だった。そう思いスマホを開き、長谷川に連絡しようとする、が、それではダメだと思い留まる。ママは私の誕生日までに法案を成立させると言っていた。その法案が成立してしまうということは、女性皇族が、皇室外に嫁ぐことができなくなるということもセットになる可能性が高い。つまり、私が法的に結婚可能になった時にはもうすでに手遅れ、ということだ。私は今まで男尊女卑に守られていただけなのだ。
[男尊女卑]
次に考えたのは璃子を天皇に据えることだ。私が良くて璃子がダメなんてことはないだろう。象徴としてふさわしいかどうか、なんていう四年間考え続けてきたことはもはやどうでもよかった。どうすれば可能か考え、璃子が長女になればいい、そう思って、インターネットで、「姉妹 順番 入れ替える 法律」と検索するが、それらしいものは何も出てこない。肝心な時にクソの役にも立たないこの無用の長物にスマートフォンと名付けた阿呆が憎い。
[クソ]
[無用の長物]
[阿呆]
次に思いついたのは自分も失踪してしまう事だ。兄がしたのだから私もしたっていいだろう。一瞬私が逃げ出すことで困る人の顔が浮かんだが、自分でも驚くほどに心が痛まなかった。ママがいない今しかない、そう思い、私はすぐに立ち上がり、スマホと財布だけを手に部屋を出た。が、何故かドアの前に璃子が体育座りをしていた。
「どこ行くの?」と璃子。
「何してるの?」と私。
「どこ行くの?」
「トイレ」
「トイレに財布持ってくの?」
私は右手の財布をさっと背中に隠した。
「お姉ちゃん、たぶんお兄ちゃんは帰ってくるよ」
「なんで?」
「多分、逃げる勇気ないと思う。私が次の日に返って来たみたいに、結局帰ってくると思う」と言い、
「でも、お姉ちゃんは一回出て行ったら二度と帰ってこない気がする」
と、続けた。
「なんでわかるの?」
「普通に考えて、帰ってくる」
璃子は当たり前のようにそう言った。
璃子にはわからないかもしれないが、兄はきっと帰って来ない。璃子にはわからないかもしれないが、私が天皇になることの意味の大きさは計り知れない。私には、耐えられない。
「璃子、お願い、今だけ見逃して欲しいの。ほんとに」
私はしゃがみ込んでそう言った。
「やだ」
「お願い」
「やだ」
「ねえ、どうして?」
私は璃子に哀願する。
「お姉ちゃんはいつか出ていくと思うけど、もし今出て行ったら二度と会えない気がする」
どこに逃げるか、ということも深く考えてはいなかったが、そんなことはない、とは言えないような気がした。
「ねえ、お姉ちゃん、落ち着いて?お兄ちゃんはさ、今のお姉ちゃんと違って生まれた時から天皇になることが決まってたんだよ?それなのに今更逃げ出すと思う?」
そんなことはわからないじゃないか、そう思った。しかし、璃子が私を止めるも当然と言えば当然だ。なぜなら、私までいなくなるということは、璃子が天皇になるということだからだ。私から璃子に何を言っても意味がない、そう思った私は、
「そっか、ごめんね、心配かけて」と言った。
私がそう言うと、璃子は、少し安心した様子で、
「どこに行くつもりだったの?」
と言った。
「決めてない」と私。
「財布見せて」と璃子。
私が璃子に財布を渡すと、璃子は中身を確認し「一週間で死んじゃうね」と言った。
二日間が経過した。この二日間、私は何もしていない。ただひたすらにベッドの上で自分の人生に絶望していた。
兄はまだ見つかっていない。フランス人女性とどこかへ逃げて行ってしまったのだろうか。ただ、私には兄を責められない。私だって最初に思いついたことは長谷川と一緒になることだった。恐ろしい現実が目前に迫ると、人はそのような行動をとるようにできているのかもしれない。
あれ以来私が抜け出そうとすると、毎回璃子がタイミングよく現れては「どこ行くの?」と聞いてきた。ついに璃子まで私の敵になってしまったみたいだ。あんなに可愛かったのに。今考えれば、璃子に「私、お姉ちゃんみたいになりたい」と言われた時が私の人生のピークだった気がする。と言っても十日前くらいの話だが。十日間という短い期間にピークとどん底を経験するとは、十八年間私は何をしていたのだろうか。
長谷川にももう頼れない。長谷川は北海道に行ってしまうのだ。いつもであれば電話して八つ当たりをするところだが、なんだか私に時間を割かせるのが申し訳ないと思ってしまう。このままなんとなく距離が空いていくのだろう。いつかは長谷川も私を忘れて誰かと結婚してしまうのだろうか。そう考えるとちょっと悲しい。
私はほとんど自分の部屋から出ることはなくなった。引きこもりというのはこうして生まれるだろう。自分の部屋以外、安心できる場所が世界にないのだ。私は二日間ひたすらに部屋の隅を見ていた。学校に行く理由もなければ、スマホをいじる理由もない。音楽を聴いたところで余計に心が荒む。何をするにもエネルギーを感じてしまうからだ。誰かが何かを訴えている、そのエネルギーが無気力な私に牙を剥く。三本の線がピタッと合わさる部屋の隅を見ている方がよっぽど安心できる。
私はふぁーとあくびをし、目を瞑る。枕を足に挟む。寝る。
その時、「舞子ー」という声がドア越しに聞こえる。「んー」と答える。「入るわよー」と入ってくる。
「何?」と私は寝そべったまま目を開く。
「舞子」と母はと苦しそうに言う。
「ん?」
「今、病院から連絡があって、パパが、おそらく今日中にはっていうことだったから、行かない?」
パパが私の誕生日まで持たないということは初めから分かっていた。別に驚きはしない。
「行かない」
「舞子、あのね、辛いのはわかる、とは言えないけど、パパの死に目は見ないと、きっと後悔するわよ?」
「兄ちゃんだっていない」
「そうだけど、ねえ、舞子、行きましょ?」
これは行くって言うまで終わらないな、そう思い「んー」と言った。
「ピ・・・・・・ピ・・・・・・ピ・・・・・・」という音が病室にこだまする。前回来たよりもパパの心臓の鼓動は格段に遅く、そして弱い。止まりかけの回転ゴマのように急速に勢いがなくなっている。心電図に目を向けると、パパの体内の心臓の動きがグラフになっていた。心電図って面白いなと思った。縦軸が鼓動の強さで横軸が時間だろうか。人は様々なものをグラフにして可視化する。その際に細かい数値は切り捨てたり、外れ値は考慮しなかったりして、事実をわかりやすくデフォルメしてゆく。きっと、わかりにくい真実よりも、わかりやすい嘘の方が人は好きなのだろう。
璃子を見ると、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。苦虫って何だろう、そう思った。
実際にすべての虫を噛み潰して、最も苦かった虫の名前を代入する方がいい気がするが、それだと気持ち悪さが勝ってしまうのだろうか。虫は虫でも、蜂の子は美味しいという風に聞く。蜂の子を噛み潰したような顔、ダンゴムシを噛み潰したような顔、ショウリョウバッタを噛み潰したような顔。すべてが別の表情なのかもしれないと思うと、言葉の隙間が埋まるような気がした。全然関係ないが、ハチミツというのはミツバチのゲロらしい。
[ゲロ]
ママを見ると、シルクでできたハンカチを目元にあてて涙を拭いている。拭いた箇所から涙の水分でハンカチの色が変わるので、乾いた箇所を探しては拭く、というのを繰り返している。うーん。うまく話が広がりそうな気がするが上手い例えも何も思い付かない。しいて言うならば、寝ているときに足で冷たいところを探すみたい、だろうか。なんだか語感が気持ちよくない。
私は諦めて入り口のドアを見た。一部すりガラスになっている病室のドアの向こうでは、護衛の人影が忙しなくうごめいている。この期に及んで何から守るのだろうか。例えばこの瞬間に暴漢がパパの命を狙いに来て、護衛の人が命を賭して守ったとしよう。二分後にパパが死んだ場合、それは殉職なのだろうか。犬死なのだろうか。
[犬死]
何か考え事のきっかけになりそうなものを探すために病室を見渡す。考え事をするくらいしかここで時間を潰す方法はない。そして私は花瓶に目を向けた。花瓶には、お花が生けてある。色は黄色と赤だ。花は詳しくないので種類はわからない。花、花と言えば花言葉、花言葉と言えば、何だろうか。考えが詰まったので別のものを探す。
私が病室をキョロキョロと見回していると、扉がノックされ、少し間隔を空けて静かに開く。護衛の人が入ってくると、「陛下、今よろしいでしょうか」と言った。ママは「はい」と返事をしてからゆっくりと立ち上がり、病室の外へ出た。
扉が閉まる。外では何かを話している声がするが、内容までは聞こえない。
璃子を見ると、璃子は私を見ていた。
「何?」と私。
「言ったでしょ?」と璃子。
再びドアが開いて、ママが戻ってくる。
「お兄ちゃんが今、チューリッヒ国際空港から成田直行便に乗ったみたい。到着は十三時間後」
ママがそう言った。同時に曇ったフロントガラスが晴れてゆくように、私の心が少しずつ晴れてゆく。それに伴い、ママの発した音が、言語になり、意味を持ち、時間差で母の言葉を理解した。私の中で、安心感が爆発した。
全身から筋肉が無くなってしまったみたいに力が抜け落ち、椅子から落ちそうになるが、璃子に支えられた。
「良かったね」と璃子が言った。私には何も言えなかった。夢であってほしい、そんな現実が本当に夢だったような、すべてがドッキリだったような、そんな極度の安心感で頭が回らない。昨日まで障壁のように感じていた璃子が突然いつもの可愛い妹になり、もう話すことがないかもしれないと思っていた長谷川に突然会いたくなり、逃げ出したくなる気持ちもわかる、と同情していた兄は、今すぐにぶん殴ってやりたい。つい先ほどまで、パパの死を目の前にして関係ないことを考えるほどに死んでいた私の心は、新品に生まれ変わったかのように、沸き立っている。今となっては何を見ても笑える気がするし、何を食べても美味しく感じるし、どんな風景を見ても美しく感じるだろう。文字通り世界がひっくり返ったように感じた。脳がビリビリと痺れて、表情が緩む。果てしない幸福感が、私の心を覆いつくしていた。
その時「ピーーーーー」という音が聞こえた。音のする方を見ると、それは心電図からだった。そうだ、パパのお見舞いに来ていたんだ、と思い出す。が心電図は五秒、十秒、十五秒と見ていても一本の直線のまま動かない。璃子が大声を上げて泣き始めた。ママの目からは、ハンカチでは拭いきれないほどの大粒の涙が溢れていた。医者が入ってきて、死亡宣告をした。たくさんの大人が電話を掛けたり、何かを話し始めたりした。まるでこの時をずっと待っていたかのようだった。
私の脳が、ゆっくりと機能を取り戻し、理解した。パパが死んだ。そして、同時に強い焦燥感に見舞われる。パパが死んだというのに、私は全く悲しくなかった。
兄が帰って来たことで浮足立った心。パパの死という大きな悲しみが、安心感という聖なるオーラに阻まれてしまい、私の心にたどり着く前に霧になって消えてしまう。まるで大気の摩擦で燃え尽きる隕石のように。この場合、隕石がパパの死、大気が兄が帰ってくるという安心感、地球が私の心。そんな呑気な例えが思いついてしまうくらいに、私の心は落ち着いていた。悲しまなければという焦りが安心感に丸め込まれる。私も璃子のように、ママのように泣かなければと思うが、私の涙腺はピクリとも動かない。強く思えば思うほど、チェーンの外れた自転車を漕ぐみたいに私の気持ちがその場で空回りしてゆく。私が天皇にならなくてよいという喜びが、パパが死んだ悲しみを大きく上回ってしまったのだ。




