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第四話

 兄がスイスに戻ったことで、私は少し落ち着くことができた。しかし、また少ししたら兄が帰ってくるという。それを聞いて私は少しだけ憂鬱な気持ちになる。結局兄が私の悩みの種であることには変わりはないようだ。

 兄と初めてゆっくり話した次の日の朝。兄は私の顔を見るなり、おはようも言わずに「昨日の話だけどさ、俺っておじさん臭いのか?」と真顔で聞いてきたため、私はつい「はい?」と素っ頓狂な声を出してしまった。それを見ていたママが、「あら、仲直りしたのね。舞子、お兄ちゃんの事よろしくね。私はもう疲れちゃった」と言った。それ以来私は何かあるたびに兄に「変か?」「変か?」「変か?」と聞かれるハメになり、私は兄を再び避けてしまいそうになった。しかし、兄には申し訳ないことをしたと思っているので、無下にはできなかった。そのため兄と和解した喜びは瞬く間に消え去り、「早くスイスに戻ってくれ」と思うようになった。「なんで教えてくれなかったの」とママに聞くと、「自分で何とかしたいってお兄ちゃんが」と言った。

 学校から帰宅すると、璃子が難しい顔をしてリビングのソファに座っていた。璃子は小さな紙とテーブルの上に置いてある白い円形の物体を交互に見ては、うーんと唸っている。

「ただいま」と私が声を掛けると、

「お姉ちゃん、これ意味わかる?」と璃子が一枚の紙と白い円形の物体を見せてきた。

 手紙には「I know it is a hard pill to swallow(それは飲み込みにくい薬よね)」と記載されており、白い円形の物体は、エアタグと呼ばれるGPSで位置情報を確認できる手のひらサイズの機器だった。

 無論、リリーからの贈り物、もといジョークだ。

 そして、璃子同様に私にもリリーが何を言いたいのかがさっぱり分からなかった。時折こういう時がある。ジョークが難解すぎて暗号のようになってしまっているのだ。「リリーに聞けばいいじゃん」と私は言ったことがあったが、「それは負けた気がする」と璃子は言って自力で解こうしていた。

「私も手伝うよ」

 この手の謎解きが好きな私は少し胸を躍らせながらそう言った。がそれと同時に、

「璃子!!璃子!!璃子!!」

 というママの怒声が突然聞こえてきて、英語の文章に別の解釈がないかを考えていた私は驚きのあまり飛び上がってしまった。

「これ、あんた一体どういうことなのよ」と、言いながらママはスマホの画面を璃子に向ける。私はそれを覗き込んだ。ネットニュースだった。

 タイトルは「璃子様は調子に乗っている―皇宮護衛官の実体―」というもので、宴会の最中に、護衛官の幹部の人間が璃子のことを揶揄したものがそのまま週刊誌にリークされてしまったのだという。ついに来たか、と私は固唾を飲んで記事の詳細を見た。内容は、


 ・璃子様には護衛を一人多く配置する必要があるため、経費が圧迫される。

 ・璃子様はいつ逃げ出すかわからないので誰も璃子様の護衛をやりたがらない。

 ・璃子様がご友人とカラオケに行った際に、個室の外で待機している護衛にドリンクバーのお代わりを頼むが、それは護衛官の業務外。

 ・璃子様は舞子様を見習わなければならない。


 といったものだった。私は正直内容の小粒さに拍子抜けしてしまった。また、ライターは璃子を批判しているのではなく、どちらかと言うと陰湿な皇宮護衛官をやり玉に挙げているような書き方だった。世間の評価も璃子寄りの意見ばかりで、「璃子ちゃんだって皇族に生まれたくて生まれたわけじゃないのに可哀そう」、「そんなことでいちいち文句言うなよ」といったものだった。カラオケの件があまりにポップに映ってしまったのだろうか。現に、当事者の皇宮護衛官の幹部は減給処分となってしまったらしい。可哀そうに、と私はどちらかと言うと皇宮護衛官の方に同情してしまった。基本的にはみんな璃子の味方なのだ。

 もちろん、皇宮護衛官の少し陰湿な面を知ってしまって私もショックを受けているが、璃子が手に負えないというのは事実で、これくらいの陰口くを言われるのは当然だと思ってしまう。

「あなた、自分が何をやったかわかってるの?」とママ。

「ごめんなさい」と璃子。

 璃子が珍しく殊勝だ。さすがにショックを受けているのだろうか。

「私、今までさんざん言ってきたわよね、あなたは皇族としての自覚がないって」

「だからごめんなさいって、言ってるじゃん」

「何なのよその態度」

 言い合いの争点が璃子の普段の行いから、璃子のママに対する態度に変わった。こうなるとここからはいつもと同じ流れになるだけなので私はそーっと後ずさりしてしれっと部屋に戻る準備をする。

「もう、ママうるさい」

「あなたが私の言うこと聞かないからでしょ」

「わかったって、ごめんなさいって言ってるじゃんしつこいな」

「それで謝ってるつもりなの?わかってないでしょ、自分がしたこと、他人の人生を狂わせたのよ?」

 ママがそう言うと璃子は少し表情を強張らせる。そして、

「わかってるよ!言われなくてもそれくらい!」と大声で言った後に、

「もういい」

 と捨て台詞を吐いて出て行ってしまった。ママが「あんた、どこに行くのよ!」と追いかけるが璃子は無視して走り出してしまう。二人とも出て行ってしまい、私はリビングで呆然と立ち尽くしていた。


 と言っても私にできることはないので私は自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がってユーチューブを見ていた。今頃長谷川は受験勉強をしているのだろうか、そんなことを考えると少しだけ寂寥感が胸に広がる。長谷川がやりたいことに向かって必死に頑張れば頑張るほど、私から遠ざかって行ってしまう。長谷川は受験勉強、兄はスイスで研究、璃子は家出、私は呑気にユーチューブ。これでいいのかな、と思ってしまう。みんな何かしら心に秘めたものがあって、形は違えどそれに向かって進んでいるように感じた。私はただ次の誕生日まで、「象徴」になる日まで、暗い気持ちで時間をつぶしていくだけなのだ。

 私がぼんやりとスマホの画面を眺めていると、関連動画に「主語が大きい人に注意!!」というタイトルの動画が現れた。私が今見ている都市伝説系ユーチューバーとどのような関連があるのか不明だったが、少し気になる節があったので再生してみることにした。

 年収一五〇〇万円を自称するお兄さんがカメラの前で、タイトル通り、主語が大きい言葉、つまり、「男は浮気をする」、「日本人は優柔不断」といった話は、本人の主観的な側面が強いため、誤解や偏見を生む、という話だった。「主語が大きい人」という主語の大きさはどうなのだろうか、という屁理屈が頭に浮かぶが、動画の中身も私の屁理屈も、特に掘り下げようとも思わなかったので、私はスマホを閉じて、ゴロンと仰向けになる。

 私が知りたいのは「目的語が大きい人」についてだった。「音楽で世界を変えたい」、「恵まれない子供たちを救いたい」、「人類を火星に移住させたい」、そんな大きな野望を聞いた人はどう思うだろうか。応援していると言うのだろうか。もしそうだとして、それは心からくる言葉なのだろうか。心の底では無理だというのではないだろうか。

 憲法によって、私の人生は「日本国」という大きな目的語を象徴することが定められている。日本国を象徴する、そんなバカが妄言でも吐かないような大言壮語が私の運命だ。

 [バカ]

 生まれた時から世界を救うことが決定しているどこぞの勇者みたいなもので、違う点があるとすれば魔王を倒すというゴールが彼らにはあって、私にはないということ。そして、道中にはヒントを与えてくれる村人も存在しない。

 象徴という自覚がない璃子と、自覚がある私。璃子は自覚のなさ故に「璃子」と「璃子様」には隔たりがない。結果的に周囲のしがらみを理解できずに家を出ていってしまった。私はどうだろうか。自覚があるので、しがらみがあることは理解している。しかし、それと引き換えに私は「舞子」と「舞子様」に分裂してしまった。日に日に大きくなってゆく「舞子様」に「舞子」が押しつぶされて圧死してしまいそうになる。

 [圧死]

 脳内で生成される二重線にうんざりする。この二重線を、きっと璃子は見たことがないのだろう。「舞子」という存在が、「舞子様」に常に監視されている、そんな気分だ。

 私は横向きになり、足に枕を挟んだ。それが枕だとしても、しがみつくものがあるだけで安心できる。

 私が眠りに落ちる寸前、「舞子ー、いるー?」と部屋の外からママの声がした。起き上がり「なにー」と返事をする。「入るわよー」と聞こえたので「いいよー」と言う。別に寝てませんでしたよ、という風を装うために、私は意味もなく起き上がり、慌てて手櫛で髪を梳いた。

 ガチャっとドアが開くと、ヘトヘトのママがのっそりと部屋に入って来た。どうやら出ていった璃子に追いつかなかったようだ。十五歳と五十歳では体力に差があるのは仕方がない。

「璃子は?」

「さあ、でも一応護衛の人が追いかけて行ったから、たぶん大丈夫だと思う」

 ママはそう言うと、小さな声で「あんなことがあったばっかりなのに、ほんとにもう」と言った。

「ママもちょっと言い過ぎたんじゃない?今回は璃子も反省してたよ」

 私がそう言うと、ママは、

「またそうやって、みんな璃子に甘いのよ」と言ったかと思うと、「まあ、でも確かにちょっと言い過ぎたかもしれないわね」と小さな声で呟く。

 ママは私の部屋に何をしに来たのだろうか、と思っていたが、ただ単に愚痴を言いに来ただけのようだ。

 基本的に皆、璃子には甘い。そんな中でママだけは璃子に対して誰よりも厳しく接している。だが、もしかするとそれは不本意なのかもしれない。ママだって璃子を甘やかしたい、そう思っていても皇室という特殊な環境がそれを許さない。ママにもその加減がわからないのだろう。ママが璃子に厳しくすればするほど、ママの心はすり減っていく、そんな気がした。

「ママも大変だね」と私。

「そういうもんよ」とママ。

「そうじゃなくて、ママってこの家に嫁いで来たわけじゃん?ママが育ってきた環境と違う環境で子育てするって、大変なのかなって。璃子の気持ちのわかる部分もあれば、わからない部分もあるのかなって」

 と私は言った。我々に何かあった際、責められるのはママだ。そして世間は原因を「皇室で生まれ育っていないから」という風にこじつける。そんなことは関係ない、ママはママだ、という私や璃子の声は、皇室という閉鎖された空間から外には出て行かない。

「そうね。でもまあ、パパと結婚するって決めた時点で覚悟はしていたけどね」

「ママってどんな高校生だったの?」

「私?うーん、そうね」と、ママは少し唸る。

「おばあちゃんの言うこと聞いてた?」

「まあ、聞いてなかったわよね。あんまり」

「璃子の事言えないじゃん」と私が笑いながら言うと。

「そうなのよね」とママも笑いながら言い、

「正直、璃子のことはあんまり心配はしてないのよ。ああやってはっきりと嫌なものは嫌って言ってくれるから、私も璃子が抱えている問題が分かるのよ」

 と続けた。

「まあ、確かにそうかもね」と私が言うと、ママは私に対して向き直った。そして、

「問題はね、舞子、あなたなのよ」

 と言った。

 想定外の言葉に私は「え?」と固まった。

「あなたはね、何も言わなさすぎるの。でも、この家に生まれて何も思わないなんてことはないのよ。むしろ璃子が普通であなたがおかしいの。私は舞子が何かを溜め込んでいないか心配なの」

 私は言葉を失ってしまう。

「象徴」という、曖昧な言葉。その言葉を自分なりに解釈するにあたって、皇室というものを客観視できているママの言葉を自分の道標の一つとしてきた。ママがトマトを食べろと言えばトマトを食べる。正しく箸を持てと言えば正しく箸を持つ。言い換えれば私は考えることを一部放棄して、その解釈をママに委ねていた。しかし、そんなママに私は「おかしい」と言われてしまった。

「舞子、もし何か困っていることがあれば何でも言ってちょうだい。なんでも。私はあなたの味方だから。わかった?」とママが優しく私に語りかける。

「えっと、わかった。ありがとう」と、私は言った。


 翌日、私が目覚めると、なぜか璃子が私の部屋にいた。昨日ママと喧嘩をして出て行ったはずの璃子は、私の机に向かって教科書を開き勉強をしている。

「璃子?何してんの?」

「私、お姉ちゃんみたいになる」

 璃子は顔を教科書に向けたままそう宣言した。

 困った私が「どういうこと?」と聞くと、「お姉ちゃんはかっこいい」と言った。

 埒が明かないので、私は「昨日どこに行ってたの?」と聞いた。

「友達の家」と璃子。

「いつ戻ってきたの?」

「今朝」

「何があったの?」

 すると、璃子は少し動きを止めて、ゆっくりと私の方に向き直った。璃子の顔には罪悪感が張り付けられているように見えた。

「昨日夜に友達の家に行ったの。ママの顔見たくなかったし、この家にもいたくなかったから。でもね、私が行ったら、友達のパパとママが大騒ぎになっちゃったの。夜ご飯作ってる最中だったのにわざわざ高級なお寿司を取り寄せてくれたり、入浴剤をわざわざ買ってきたり、部屋で寝るときも私が風邪を引いたら大変だからって空気清浄機と加湿器を置いてくれたり。朝起きたら友達のママも起きてたんだけど、目の下にちょっとクマができてて、あ、寝てないんだな、って思った。私になんかあったら大変だからって。それで気が付いたの。私、今までずっと迷惑かけていたんだなって。私、特別なんだなって」

 璃子が静かにそう語った。璃子にもこの時が来た、そう思った。

 皇室の人間としての自覚を持つ。それが璃子にとっていいことなのか、悪いことなのか、私にはわからなかった。

「だから、お姉ちゃんみたいになるの。品行方正で、メリハリのある、そんな人間になりたい」

 璃子はそう言った。そんな風に思っていたのか、と私は少し驚いてしまった。同時に「璃子は私みたいにはなっていけない!」という強い思いが心の中で芽生えるが、本当にそうだろうか、と立ち止まる。

 璃子は私の心の奥底を知らない。私の場合、自分が皇室の人間だという自覚を持ったのは「象徴」という言葉だったが、璃子がこれから皇室の人間として目指していく像は「品行方正」、「メリハリ」といったものだ。それが正しいかどうかは別として、「象徴」に比べるとかなり具体的なように思える。そして、それらは必ずしも璃子の持ち味である人から愛される力と相反するものではない。

「自分を見失わないようにね」

 とだけ私は言った。それ以外、私に言えることは何もなかった。

 その後、璃子と何気ない話をしていると、「舞子ー、璃子いるー?」と、ドアの外からママの声がした。私が口を開くより先に「いるよー」と、璃子が言った。「入るわよー」と言って、ママが部屋に入ってくるなり、璃子は立ち上がり、

「昨日はごめんなさい」

 と両手を腹部に置いて、深く頭を下げた。やればできるじゃん、と私は思った。ママはかなり困惑した様子で、

「なにこれ?」

 と私に聞いてきた。ママは怒る気満々だったのか、出鼻をくじかれた様子だ。

「さあ?」

 と私はとぼける。説得力を持たせるために頭も搔いてみたが、むしろ逆効果だったのか、

「なんか吹き込んだ?」

 と詰められてしまう。よっぽど璃子のことを信用していないようだ。

 私がたじろいでいると、璃子は「ママ、聞いて」と、昨日の出来事を話した。するとママは「そっか」と言った後で、「私も昨日はごめんなさい。言い過ぎたと思って」と続けた。

「璃子、聞いて、これからももし何か嫌なことがあったらちゃんと言って欲しいの。私も頭ごなしに怒ったりしないから。もし勝手に出ていきたくなったらそれはそれでもいいの。でもその時は必ず行く場所を伝えるのと護衛をしっかりつけて欲しい。璃子は特別なの。それを忘れないで」

 それでは勝手に出て行くとは言わないのでは、と思ったが、ママの中で、璃子を理解しようとする気持ちと、璃子を心配する気持ち、皇族としての責任感など様々なものがせめぎ合っているように聞こえたので私は何も言わなかった。

「わかった。ありがとう」と璃子。

「とりあえず帰ってきてくれて良かった。たまには冒険もするものね」とママ。

「もうすぐ朝ごはんの準備できるみたいだから、できたらまた呼びに来るわね」

 と、ママが部屋を後にすると、璃子は、私の方を向いて、

「撃・退・完・了!」

 と、両手でピースサインを顔の近くで作り、わざとらしくおどけてみせた。

 璃子は大丈夫そうだ、私はそう思った。


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