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第三話

「ルスエルブルースヌプセフォードレ」

 長谷川との食事が終わり、私が帰宅すると、リビングでソファに座っている璃子がそう言って私を出迎えた。璃子の隣には兄が座っており、二人の前にはノートパソコンが置かれている。

「えっと、何て?」

「ルスエルブルースヌプセフォードレ」

 璃子が同じ言葉を口にする。なんだか楽しそうだ。

「どういう意味?」と私が聞くと、

「どういう意味だっけ?」と璃子が隣の兄に聞く。

「これは、僕らの上の青空が落ちてくるかもしれない、っていう意味」と兄が言うと、

「僕らの上の青い空が落ちてくるかもしれない、だって」と璃子が私に言う。兄の声は私にしっかり届いているので別に璃子を介す必要はない。

「何語?」と私が言うと、

「何語?」と璃子は兄に聞いた。

「フランス語」と兄が言うと、

「フランス語」と璃子が私に言った。

「なんでフランス語?」と私。

「なんでフランス語?」と璃子から兄。

「今勉強中」と兄。

「今勉強中」と璃子から私。

「なんで璃子を挟むの?」

「なんで璃子を挟むの?」

「璃子に聞いてよ」

「璃子に聞いてよ」

 璃子は首を左右に振りながらまるで通訳のように二人の間に入っている。私は璃子に聞いたんだけどな、そう思ったが、言っても璃子を通り抜けるような気がしたので言わなかった。璃子はただふざけているつもりだろうが、少しぎくしゃくした兄妹関係をそのまま反映しているようにも見えて、少しだけ虚しい気持ちになる。しかし、事実として兄と二人きりよりも璃子がいてくれた方が安心できる。きっと兄もそう思っているんだろうな、とも思う。

「お姉ちゃんも一緒に勉強しようよ」

 璃子はそう言いながら兄とは反対側のソファの空席を手でポンポンする。気持ち的には部屋に逃げ込みたかったが璃子にそう言われてしまっては無下にできないので、

「いいけど、私眠たいからちょっとだけね?」

 と言って璃子の隣に座った。もちろん全く眠くはない。これは私がよく使う手法で伏線と呼んでいるものだ。なんとなく気乗りしないことに臨むときにあらかじめそう言っておくことで、いざという時に「私、眠たいから部屋戻るね」と、伏線回収をすることで自然に逃げ出すことができる。学校祭の打ち上げで焼肉屋に行った時もこれを使って、私は二次会のカラオケには行かずに帰宅した。

「次は?」璃子が兄をそう促すと、

「次はこの文章かな」と、兄はパソコンを指さす。そこには、

「Et la terre peut bien s’écrouler,」

 と記載されていた。

「エト、ラ、テレ、ぺービエン、エクロラー?」

 と、璃子が片言に言うと、

「エラテパビアンセクレ」

 と、兄は要所で舌を巻きながらそう言った。

「うまーい」

「いや、上手くないな、片言だよ」

 本物のフランス語を知らない私でも、兄のフランス語が上手くないことはわかった。

「どういう意味?」

 璃子がそう聞くと、兄はじっと画面を見つめ、

「これはねー、このEtっていうのがそしてっていう意味で、だから、あー、いや、わかんないわ」

 と言って、翻訳サイトを開き、先ほどの文章をコピーアンドペーストする。すると、「そして地球は崩壊するかもしれない」と表示された。

「なにこれ、物騒な歌詞だね」

と、それを見た璃子が言った。私はそもそもこの文章が歌詞だったことすら知らなかったので、

「これ、歌詞なんだ」

と、座ってから初めて口を開いた。

「そう、エディットピアフっていうフランスで有名な人の。愛の賛歌っていう歌なんだけど、もしかしたら舞子も聞いたことあるかもしれないよ?」

 兄はそう言うと、ユーチューブを開き、「愛の賛歌」と入力する。すると、白黒で小さな女性のサムネがいくつも出てきた。画像はモノクロでかなり粗い。相当古いようだ。

「いつの時代の人?」と私が言うと、「確か戦前だったはず」と兄。「なんでそんな人知ってるの?」と璃子が言うと、

「研究チームの一人がフランス人でさ、お互いの文化の話になった時に教えてもらったんだよ。俺は一応演歌を教えた。まあ、俺は演歌を聞かないけどさ」

 と、兄は少し笑いながら言った。それを聞いた璃子が、

「普通それでフランス語勉強しようって思う?」と言ったので、

「普通はならない」と私は言った。

 その時、突然私のお尻が小刻みな振動を感知した。すると、璃子がポケットからスマホを取り出し、「もしもし、え、今から?やる!」と電話の相手に言い、「ちょっと今から友達とゲームしてくるね」と、私と兄に伝えるなり有無を言わさずに部屋に戻って行ってしまった。突然兄と二人きりになり、リビングに緊張の糸がピンと張る。璃子が座っていた場所は空席になり、私と兄の間に一人分の空間が生まれた。

「璃子って友達多いよな」と兄が言う。実に当たり障りのない言葉だ。その話をしてどうするのだろうか、と思ってしまった。

「ね、すごいよね」と、私も当たり障りのないことを言う。

「な」と兄が言い、沈黙した。微妙な空気。時折璃子の部屋から笑い声が漏れてくる。璃子は何のゲームをしているのだろうか。私はゲームをやったことがないのでわからなかった。兄はゲームで遊ぶのだろうか。「お兄ちゃんってゲームとかするの?」という質問が頭に浮かんだ。「する」と答えた場合、「どんなゲーム?」と聞くだろう。そして兄はゲームの名前を言うだろう。しかし、きっと私が「わかんないや」と言って会話は終了だ。「しない」と答えた場合もそこで会話終了。そう思い、その質問を頭の中で握りつぶす。他にどんな会話のきっかけがあるだろうか。考えてみるが何も思いつかない。普段自分がどうやって人と会話をしているのかわからなくなってしまった。長谷川と話すときはどうだろうか。何も考えていないように感じる。どうしよう、と思うと全身から変な汗が出てくる。時計を見ると、時刻はまだ八時半。早くママが帰ってきて欲しい、そう思った。

「私も眠いから部屋戻るね」

 この空気に耐えられなくなった私はそう言って立ち上がった。不自然なタイミングだったため気まずいのがバレバレだ。これでは伏線を張った意味がない。しかし、私はとにかく自分の部屋に逃げ込みたかった。

「なあ、舞子」

 そんな兄が私を呼び止める。私の心臓がドキッと一瞬跳ね上がる。兄の方を見ると少し不安げな表情で私を見上げていた。

「えっと、何?」

 私はつい警戒心を含んだような言い方をしてしまった。

「いや、なんか、俺の考えすぎなのかもしれないけど、舞子って俺の事あんまり好きじゃなさそうっていうか、避けられてるなってずっと思ってて、だから、なんていうか」

 兄はすごく自信なさげな表情でぶつぶつとそう言う。

「ほら、舞子って結構すぐ部屋に入っちゃうからさ、なんでだろうってずっと考えてたんだけど、舞子が考えてることってわかんなくてさ、確かに舞子からしたら俺って時々帰ってくる人って感じで、俺が兄っていう実感がないのかもしれないけどさ、おふくろに聞いても、年頃の女の子なんてそんなもんよ、って取り合ってもらえなくてさ、いや、俺の勘違いならいいんだけど、ちょっと気になってて、ごめん急にこんなこと」

 そう言う兄の言葉はどこか支離滅裂のような気がした。ここまで弱々しい兄を初めて見た気がする。そんな兄を見て私は少し言葉を失ってしまった。そして、

「いや、そんなことないよ」

 と、つい兄を気遣うような言葉を吐いてしまう。しまった、と思ったが、とっさに他に言葉が出てこなかった。

「そうか」と、やはり不安げな表情のまま兄は言い、「ごめん、忘れてくれ」と続けた。私は「うん」と言って、自分の部屋に戻った。

 部屋に戻った私はベッドに倒れ込んだ。仰向けになり、天井を見る、というよりは私と天井の間にある空間をぼんやりと眺める。シーリングライトが、天井のシミが、視界の全てが輪郭を失い、二つに分裂する。

私の知っている兄は、不気味で、遠くて、完璧で、上手くいかない人の気持ちなんてものはわからない天才。それは、直前に見せた、今にも消えてなくなりそうな兄とはあまりにもかけ離れている。兄の中に二つの人格があるのではないかと思えるほどに兄は兄ではなかった。しかし、考えてみれば私の知っている兄というのは、すべて何かを通して見た兄の姿だったように思える。テレビ越しの兄、論文越しの兄、インターネット越しの兄。どこまで記憶を辿っても、兄とちゃんとした会話をしたことは一度もなかった。

私は何か大きな勘違いをしているように思えてきた。私の中の兄と、実際の兄。兄の中の私と、実際の私。その両方が互いに交錯しあうことで、今まで私たちはすれ違い続けてきたのだとするならば。

しかし、そうはいっても簡単に勇気の出るものではなかった。そのため、私は長谷川に「今からお兄ちゃんと話してくる」と送った。少しすると「頑張れ」と返信が来る。「もし上手くいかなかったら、私を焚き付けた長谷川のせいだからね」と送った。「まあ、そうかもな」と長谷川。これで私のせいじゃない。私は強制されて兄と話すことになった、と言い訳ができた。

兄と話してみよう、そう思い、私は再び部屋を出た。

 リビングに兄の姿はなかった。パソコンも同様になくなっていたため、兄の部屋に向かう。何を話そうか。兄のことが苦手だ、と素直に打ち明けるのがいいだろうか。兄はそれに対してどう思うだろうか。そう考えていくと私はやはり兄のことを何も知らない。

 コンコン、と二回優しくノックした。優しすぎて兄に聞こえないのではと思いもう一度ノックしようとすると、部屋の中からドアに向かって歩いてくる音がした。同時に私の心臓がバクバクと鼓動を速めた。私は緊張しているのだろうか。

 ホラー映画のようにドアノブがひとりでに回転すると、ガチャっとドアが内側に開き、

「やっぱり舞子か」と兄は言った。

「やっぱり?」

「璃子はノックしないし、おふくろはドアの前で名前を呼ぶ」

「想像つくわ」

 私は少し笑ってそう言い、「入っていい?」と聞くと、兄は「おう」と答えてドアを大きく開いた。

 兄の部屋に入るのは本当に久しぶりだった。部屋をじっくりと見渡す。入り口の隣には大きな本棚が三つあり、うち一つは漫画が、二つはビジネス書や小説、科学の専門書がびっしりと収納されている。日本語の本が半分程度、英語の本が四割、ドイツ語の本が一割といった配分だろうか。

「これ、全部読んだの?」

「ああ。多分」

「へえ、すごいね」

本棚の隣にはクローゼットがあるが、扉は締まっている。兄は、私服を着ているイメージがあまりないのでどんな服が入っているのかわからない。その正面にはセミダブルくらいの綺麗に整えられたベッドがあり、ベッドの下には筋トレ器具が転がっている。

「筋トレとかするの?」

「いや、ほとんどしないな。友達に触発されて始めたけど続かなかった」

 兄はなぜか部屋の真ん中に立ったままだ。兄の机を見ると、大きなデスクトップがあり、横長の曲面状のモニターには、よくわからないグラフと日本語ではない文章がずらっと並んでいる。

「作業中だった?」

「いや、まあ。いや、でも、正直あんまり集中できてなかった」

「なんで?」

「なんでって、なんとなく」

「そっか」

 私は、机の隣の棚に目を遣る。漫画のキャラのフィギアなどが飾ってあり、一番上には日本刀が、体操の段違い平行棒のように、上段に剥き身の本体が、下段には鞘が分けられて飾られている。

「日本刀、触っていい?」

「いいけど、気をつけろよ」

「うん」

 私はそう言うと、日本刀をゆっくりと棚から手に取る。黒紫の持ち手に黒鉄の鍔、そこからは鋼鉄の刀身がスラっと伸び、濁りのない光を放っている。

「お兄ちゃん」

「ん?」

「斬っていい?」

「何を?」

「お兄ちゃん」

 私はそう言いながら、視線を刀身から兄に移す。兄は少し驚いた表情で、

「そんなに俺の事嫌いか?」

 と言った。勇気を振り絞って言った冗談だったが、兄には通じなかったようだ。

「冗談。別に嫌いじゃないよ」

 私は日本刀を元に戻しながらそう言う。

「座んないの?」

 私は相変わらず部屋の真ん中で手持無沙汰にしている兄にそう言った。

「ああ、そうか。座るか」

「ベッド、いい?」

「ああ。璃子は許可なんて取らないぞ」

 璃子は兄がいないときも頻繁に勝手に部屋に入り漫画を読んでいる。

 私がベッドに座るのを確認して、遅れて兄が椅子に腰かけた。兄は頭を掻いたり、指先をいじったり落ち着きがない。そんな兄を見ていると私の中の緊張感が薄れていった。

「もしかして、緊張してるの?」

私がそう言うと、

「緊張っていうか、舞子はリラックスしてるな」

 と、兄の言葉は上の句と下の句がちぐはぐだった。

「なんか、舞子とこうやって話すの、初めてかもな」

 兄は背もたれに体重を乗せながらそう言う。

「何それ、おじさん臭い」

 私は少し笑いながらそう答える。

「そうか?」

「うん」

「まあ、女子高生からしたら俺もおじさんみたいなもんだからな」

「それもおじさん臭いよ」

「じゃあなんて言えばいいんだ?」

「別にいいんじゃない?おじさん臭くて」

「やだな、二十六歳って、全然おじさんじゃないからな」

「かっこつけたいの?」

「いや、そういうわけじゃ、いや、うん、カッコいいと思われたい、かも」

「何それ、私にカッコつけてどうするの?」

「好かれたい。単純に。舞子と璃子には」

「そんなにはっきり言う?」

「変か?」

「それとかかっこいいじゃん。グラフとか、横文字いっぱい並んでるのとか」

 私は机のモニターを指さしながらそう言った。

「ほんとに?」

 兄は鼻の下を伸ばしながらそう言った。私はからかったつもりだったが、兄は言葉通りに受け取ったようだ。

「今、からかったんだけど、わかった?」

「おい」

 兄は恥ずかしそうな表情でそう言った。返しが「おい」だけなんて、なんてガードが緩いのだろうか。そう思うと兄に少し親近感が湧くような気がした。

そして、薄々気付いていたが、兄には冗談が通じない。

「お兄ちゃんってさ、もしかしていじられキャラ?」

「え、なんでわかった?」

「やっぱりそうなんだ」

「わかるのか?そういうのって」

「高校生だからね、そういうのは敏感」

「どこでそう思った?」

「まって、落ち着いて、今言うから」

 兄は必死な様子だったので、私は笑ってしまう。

「そうか、ごめん」

兄は素直に身を引いた。しかし、それはそれで少し面白かった。

「今ちょっと話して、お兄ちゃん、根はすごくいい人で、ちょっとだけ人とズレてる感じがした。いじられキャラの人ってそういう人多いの」

「俺ってズレてる?」

「うん。そうやっていちいち聞いてくるところとか。でもいいと思うよ。私、ちょっと誤解してたかもって」

 私はそう言うと、兄は少し不思議そうな表情をする。

「今朝、私が起きたらお兄ちゃんソファに座ってたんだけどさ、スマホもいじらずに音楽も聴かずにただ座ってたの。私はちょっと不気味だなって思ったんだけど、今考えたらただ単にちょっと変な人だったんだって納得しちゃった。私はいいと思う。兄ちゃんのそういうところ」

「それ、褒めてるのか?」

「うん。いや、ちょっとだけバカにもしてる」

「おい」

「またそれだ、何そのただ『おい』って言うやつ。意味わかんないんだけど」

 私は笑ってそう言った。兄の言動一つ一つが絶妙に的を得ない。それが私のお腹の底をくすぐる。

「変か?」

「変過ぎ。あといちいち確認しないでよ、笑っちゃう」

「そうか。まあ、舞子が元気そうで良かったよ」

「あ、逃げた、しかもおじさん臭い」私は笑いながらそう言うと、「あー、なんか疲れちゃった」と、兄のベッドにどさっと横になった。

「舞子、なんか飲むか?」

「いいの?」

「ああ。持ってくるよ」

 兄はそう言って部屋から出た。

私が思い描いていた兄は、実際の兄とは大きくかけ離れていた。なんでこんなに身近にいたのに気づけなかったのだろうか、そう思うがやはり仕方がないようにも感じた。八歳の私に兄が少し変ということに気付けるわけがないし、兄が日本に帰ってくるようになる頃には、もうすでに私は兄を避けていた。

 再びドアが開き、兄が入ってくる。兄はマグカップを二つ、取っ手をちょこんとつまむようにして持ってきた。

「気をつけろよ」

兄がマグカップを私に差し出す。

「ありがとう」

私はそれをそっと受け取った。マグカップなので温かい飲み物が入っていると思ったが、中には冷たい飲み物が入っていた。一口飲むと、それは水道水だった。

 同時に私の脳内には「気をつけろよって何を?」、「マグカップに水道水?」、「なんで冷たい飲み物でその持ち方?」と様々なコメントが思い浮かんだが、それを言ってしまうと「変か?」、「お茶の方が良かったか?」、「普通はグラスか?」と色々と聞かれそうな気がしたので何も言わなかった。マグカップに水道水でも別におかしいことではないが、兄の場合はなんだか気になってしまう。

「最近はどうなんだ?好きな人とかいるのか?」

 兄はそう言った。私の脳には「お父さん?」、「会話の始め方知らない?」、「もっとさりげなく聞けない?」というコメントが浮かんだが、言ってしまうと会話が止まってしまうので余計なことは言わない。きっとこれは兄と上手くやっていくのに必要なスキルなのだろう。

「いるよ」

「そうか、どんな人なんだ?」

「高校の同級生。二年の時同じクラスだったの」

「名前は?」

聞いてどうするのだろうかと思ったが、言わない。

「長谷川っていうの。お兄ちゃんの事天才って言ってたよ」

「そうか。良い人そうだな」

 兄は嬉しそうにそう言った。会ったこともない人の褒め言葉を字面通りに受け取る兄の単純な思考回路には、人を疑う感性は組み込まれていないのだろうか。

嫌悪感というものを一切持ち合わせていなさそうなほどに攻撃性のない性格は、きっと他人の感情の機微を汲み取ることが苦手なことと隣り合わせなのだろう。自分に向けられる言葉の棘に鈍感であれば、自分の言葉に棘が生まれることもきっとない。これは兄が元々持ち合わせたものなのか、同世代の人間と関わることが少なかった人生に起因しているのかはわからない。

「お兄ちゃんは?いるの?」

 私がそう尋ねると、兄は少し考え込む。

「んまあ、うん、いる」

 兄の言葉に、私の頬がゆっくりと左右に引っ張られてゆく。

「ほえー。いいね。どうするの?」

「うーん。妹に聞くのもおかしな話だけどさ、俺ってモテなさそう?」

 将来天皇になる人間とは思えない俗っぽい言葉。そして、そこには自分に対する自信のなさも窺えた。

「それは分かんないけど、モテそうとモテなさそうとか、そういうことじゃないと思うんだよね。間違ってたら申し訳ないけど、お兄ちゃんってさ、彼女とかいたことないでしょ?」

 高校生の私でもわかるくらいに兄は人間関係で良くも悪くも苦労していないように思えた。もしかしたら今の好きな人が初恋なのではないかと思えるほどに。

「んまあ、ない。諦めていたって言うと言い訳っぽいけど、うん」

 諦めていたというのは、いつかは天皇になるということを見越してなのか、自分の男としても魅力に対してなのか。

「一回ちゃんと向き合ってみたら?天皇になる前に」

 私がそう言うと兄は顎に手を当てて「そうかもな」と言った。

 兄はきっとフラれるだろう、と、私の中の女性の勘が告げている。しかし天皇になることを目前に控えている兄が本当の意味で自由に恋愛できる間に、経験できることは経験して欲しい。日本の象徴としてではなく、一人の人間として。私は妹としてそう思った。

「舞子ってなんか、しっかりしてんな」

「まあ、私にも悩みくらいあるからね。お兄ちゃんは知らないと思うけど」

 日本国の象徴の意味。普通であればつまずくことのないこの問題に私はしっかりと向き合い続けてきたつもりだ。そしてそれが正しいと信じている。

 兄は机のマグカップを手に取り、お水を少し飲むと再び机にマグカップを置く。

「なんか、俺、自分の選択が間違ってたんじゃないかなって思う時があるんだ。研究は楽しいときもあるけど、辛いときの方が多いし、結局天皇になっちゃったら研究続けられないから俺が大発見とかすることはないだろうしさ。それなのに舞子とか璃子との時間削ってまでやることなのかなって。ずっと考えてたんだよ」

 兄が研究をしていることで、私たちの時間が削られていることは確かな事実ではあったが、その少ない時間を棒に振っていたのは私だった。それなのにその原因を自分に落とし込む兄に危うさすら感じた。

「お兄ちゃんって天皇になりたくないとか思う?」

「昔はそんなときもあった」

「なんでアメリカ行こうって思ったの?」

「んー、なんでだろうな。もしかしたら天皇ではない別の何かになりたいっていう気持ちがあったのかもしれない。よく覚えてないけど」

「そっか」

私はそう言い、水を少し飲んだ。

「さっきの話だけど、私はお兄ちゃんにアメリカに行ってほしくなかったかも。一緒にいたらもっと楽しかっただろうし。だからお兄ちゃんの選択は間違ってたね」

 私がそう言うと、兄は少し残念そうに「そうだよな」と言う。そして、少し首を傾げた後、表情が固まり、

「今、舞子は俺を肯定した?否定した?」

 と言った。

「パラドックスだね」

私は少し笑う。冗談、というよりかは言葉の綾。それが兄に伝わったのが少し嬉しかった。兄はお酒を飲み干す大人のような動作でグイっとマグカップの水を飲み干した。

「じゃあ、部屋に戻ろっかな」と私が言うと、「おう」と、兄は立ち上がり、なぜか部屋の入口までお見送りに来た。

「おやすみ」と兄。

「まだ九時半だよ」と私。

「まだ寝るには早いか」と兄。

 私はドアを内側に開けた。すると、そこには璃子が立っていた。

「璃子?」と私が言うと、璃子はニヤッと笑い、

「今度、私三年生の長谷川君って人に挨拶しないとね」と言った。

 その瞬間「ただいまー」と、ママが帰って来た。

「ママ、おかえりー、聞いて、お姉ちゃんが・・・」と璃子が言いかけたので、私は急いで璃子の口を塞ぎ、「おかえりー」と言った。

「あら、賑やかね」と私の手元でじたばたする璃子を見てママはそう言う。

「まあね」と私は言って、璃子を部屋まで引きずっていった。


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