第二話
「You know? My mum always tell me what I got to do or what I got to be.(私のママはいつも私にあれこれ言ってくるのよ)」
夜、トイレに起きると璃子の部屋から話し声が聞こえてきた。会話を盗み聞きするために神代杉でできた鼠色のドアに耳を当てると、洗練された杉の香りと共に璃子のくぐもった声が聞こえてくる。どうやらママの悪口を言っているらしい。英語で話しているところを聞くにおそらく相手はリリーだろう。
「I know, and you know I know, but it is not simple as you say. Different country, different way. (わかるでしょ?そんなに簡単な話じゃないのよ。国が違えば文化も違うの)」
リリーは現在のイギリス国王の孫であり、皇太子の長女、つまるところイギリスの王女だ。歳は現在私と同じ十七歳だが、学年的には璃子より一つ上で私より一つ下だ。璃子とリリーはは昔から親交があり、しょっちゅう電話で近況の話をしている。こうして聞いてみると璃子の英語は私のそれに比べて遥かに流暢なことが分かる。やはり実際にこうして友達と話す機会があるとないのでは大きな違いがあるのだろうか。
「Wise man said I am not crazy is what crazy people say. ok then tell me, I saw a news this morning and it said you got a new boyfriend, what is that? I think I saw same news a couple months before. (変人は自分が変なことに気が付かないのよ。じゃあ聞くけど、今朝あなたに新しい恋人ができたっていうニュースを見たけどあれは何?二か月前にも同じものを見たけど)」
リリーはイギリス王室の問題児と言われている。言われていた、というのが正しいだろうか。彼女は若くして男性関係で多少奔放なところがある。当初は問題視されていたようだが、徐々に国民に受け入れられてゆき、現在ではリリーに新しくボーイフレンドができると破局までの時間を巡って賭けが行われるくらいの国民的行事に成長した。人が他人の恋愛事情に強い関心を持つというものは各国共通なのかもしれない。
「Off course I would if I could, but you know what, yeah , I mean, hey, stop it , STOP IT LILLE(もちろん私だって、いや、そうじゃなくて、ねえ、ちょっと、リリー、一回黙れる?)」
璃子の語気が強くなったのが壁越しに伝わる。リリーが何を言ったのかはわからないが十中八九変なことを吹き込まれているのだろう。本人は否定しているが、幼少期は比較的大人しかった璃子が成長するにつれて自己主張が激しくなっていったのには、リリーの存在が大きく影響していると私は考えている。姉としては嬉しく思う反面、皇族としてはこの先が少し心配ではある。
「What the hell are you talking about, what kind of princess can be like this.(あなたバカじゃないの?どうやったらあなたみたいな人間がプリンセスでいられるのかしら)」
「君臨すれども統治せず」というキャッチフレーズがイギリス王室の国内での立ち位置である。イギリス政府はあくまでも国王の下に組織され、国の統治を請け負うが、国王自身は政治に対しては中立の立場でいなければならない。しかし、成文憲法が存在しないイギリスではマグナカルタや権利章典といったもので国王の権限は制限されているものの、国王の立場そのものを定義するものがない。つまり、リリーは中立であるが象徴であることを厳密に求められてはいないのだ。
しかし、もちろんそれは建前で、事実上の存在意義としては我々同様に国民の象徴、規範となるべきだと考えられている。リリーは果たしてイギリス国民の規範として正しいのだろうか。リリー自身がそれに対してどう思っているかはわからないが、イギリス国民と王室の距離感が日本のそれと比べて近いように感じられるのは、ひとえにリリーのような存在のおかげだろう。
「I am not saying I do not like it, I think I am having a kind of fun in this situation. (別に嫌だって言ってるわけじゃないの。むしろこの状況を楽しんでいるといった方がいいかしら)」
「イギリス」という言葉から連想されるもの。それがすなわちイギリスを象徴するものと言っても過言ではないだろう。ユニオンジャック。ビックベン。フィッシュアンドチップス。ビートルズ。ウィンストンチャーチル。私の場合このラインナップにリリーが入ってしまう。もちろん日本の皇室とイギリスの王室の関係が前提の話ではあるが、少なくとも私の中ではリリーはイギリスの象徴なのだ。むしろよく知らないビートルズやウィンストンチャーチルなんかよりもよっぽど象徴らしいように思えてしまう。
それに比べて私はどうなのだろうか。「日本」という言葉から我々を連想する人が世界にどれだけいるのだろうか。「象徴」という規範から外れたリリーが象徴としての役割を果たし、規範に収まっている私は結果的に象徴というものから大きく遠のいてしまっているようにも感じる。
「Anyway I got to sleep, do you know what time is it in Japan?(何はともあれ、私はもう寝ていいかしら。こっちはもう深夜なの)」
現在イギリスは何時なのだろうか。璃子の口ぶりから察するにリリーが璃子を掴んで離さなかったのだろう。私自身リリーとそこまで親交があるわけではないが、基本的に相手を振り回すことが多い璃子が振り回されている様子を見るに、おそらく私とリリーはあまり相性が良くない。
「I am not sure if they allow me to do that, but yeah, I will just ask. I will let you know when something pops up. See you Lille(うまくいくかはわからないけど聞くだけ聞いてみるよ。また連絡する。おやすみリリー)」
私は璃子の部屋のドアから耳を離す。盗聴は楽しい。今後も璃子に彼氏ができたりしたら積極的にやっていこう、そう思いながら私は自室に戻った。
璃子の会話を盗み聞きした翌日の朝。ママは朝早くから公務のために家を出てしまったため、食卓には私と璃子だけだ。朝食を作ってくれた正治さんが目の前にいるのにも関わらず、璃子は嫌いな食べ物を私のお皿に除けている。ママがいないのをいいことにやりたい放題だ。
「私、高校卒業したらイギリスの大学行きたいんだけど、どうかな?」
嫌いな食べ物を一通り除け終わった璃子がそう言った。昨日リリーに話していた「聞くだけ聞いてみる」というのはこのことを指していたようだ。
「なんで急に?」
私は知らないふりをしたが、もちろん経緯はおおよそ見当がつく。
昨日の夜、リリーに「イギリスの大学に来ればいいじゃない」とマリーアントワネットのような口調で言われたのだろう。そして璃子もまんざらではないのだろう。
「海外の文化とか知っておいた方がいいかなって」
あまりにも動機が薄っぺらい理由は本心ではないからだろう。誰が聞いているわけでもないのだから「リリーがいるから」と言えばいいものだが。リリーに影響を受けてます、と公言するのが照れくさい気持ちは理解できる。が、どうしても突きたくなってしまう。
「まあ、リリーもいるしね」
「リリー?なんで?」
「仲良いじゃん」
「まあね」
あくまでもリリーは関係ないというスタンスのようだ。
「誰に言えばいいのだろう?」
「とりあえずママじゃない?」
「まあ、そっか」
璃子がイギリスの大学に行く。璃子にとっても仲良しのリリーがいる国で生活できることは楽しいだろう。それに璃子もリリーも政治的な影響力は皆無だが、璃子がイギリスに行くことは日英の関係の良好さをアピールすることにも繋がる。悪い話ではないはずだ。だが、聞こえの良くない言い方をすれば二人の友情を対外的な国の思惑に利用されるという言い方にもなってしまう。二人の仲が悪くなってしまうとお互いの国のイメージにも変化が生まれてしまうかもしれない。そう考えると少し慎重に考えた方がいいような気もしてくる。大きな枠組みで見れば今の距離感が適切な可能性がある。
「お姉ちゃんは?内部進学?」
「うん。のつもり」
私自身海外の大学に興味があるわけではないが、もし行け言われれば行くしかないだろう。そう考えると私に比べて璃子はよっぽど自分の人生の舵を自分で握っているように感じる。
「てか、お姉ちゃんって好きな人とかいるの?」
急に話題が転換する。会話の舵を握っているのも璃子だ。
私の好きな人。長谷川、ということになるが付き合っているわけではない。普通の男女であればとっくに付き合っていてもおかしくはないと思うがどうしても慎重になってしまう。相手がいるのといないのでは話が変わってくる上に、恋愛のこととなると否応なく世間の関心も高まる。
そしてこういう質問をしてくる時点で璃子にもそのような人がいるのだろう。おそらく私と同じで正しい身の振る舞い方がわからないのだ。そしておそらく昨日の璃子とリリーの主要なテーマはそこだったのだろう、と察した。
「璃子はいるの?」
「お姉ちゃんは?」
「璃子は?」
「お姉ちゃんは?」
これではお互いに「いる」と言っているようなものだ。
「リリーに聞いてみれば?」
私は核心に触れずに話を進めた。
「昨日聞いてみた」
「なんて?」
「当てになると思う?」
ならないと思う。が、現状を見るにリリーの立ち振る舞いが間違っているとも思えない。かといってそれを璃子に勧めることもできない。
「私にもわからないよ」
「身辺調査とか入るのかな」
「結婚するときはがっつりすると思うけど」
自由恋愛に関しては文字通り自由だ。だが、自由か、と言われれば自由ではない。
璃子は少し考えた後「まあ、いっか」と言い、タンパク質と糖質だらけの朝食に戻った。それを見て私も野菜が少し多めの朝食に手を付ける。
土曜日だというのに私は少し陰鬱とした気持ちで目を覚ました。気持ちが晴れない理由は昨日の夜遅くに兄がスイスから帰ってきたから。璃子と薄めの恋愛話をしてから一週間くらいが経過しているが、あれから特に私に話してくることもなければ夜な夜なリリーと電話をしている様子もない。璃子のことだから兄にも「彼女とかいるの?」と普通に聞きそうなものだが私は兄のその手の話は聞きたくない。
トイレに行きたいが、兄と出くわすかもしれないと思うと、少し気後れしてしまう。兄が家にいるだけで緊張感が少し高まるような気がして、顔を合わせていなくても、それだけでストレスが溜まる。とはいえ、尿意がそんな私に気を遣ってくれるわけでもないので、限界が来る前に部屋を出た。
すると兄はリビングのソファで足を組んで座っていた。スマホを見ているわけでもなければ音楽を聴いているわけでもなく、寝ているわけでもない。ただ座っていた。現代人にとってそれは異常な行動だ。
「おはよう、帰ってきてたんだ」
無視するのも変なので挨拶をした。そして余計なことも口に出てしまう。兄が帰ってきていることは昨日の夜から知っていたというのに。
「おはよう」
兄は短い足を組んだまま私を見てしっかりと挨拶をする。あんまりしっかり挨拶を返されてしまうとこちらもどうしていいのかわからない。璃子のように横向きのスマホを両手で抱えたまま視線も合わせずに「おいす」と言って欲しい。
「どこ行ってたの?」
スイスだ。知っているがなんだか兄に関心がないふりをしてしまう。兄に「舞子は俺に興味がないんだな」と思われたい、というのが正しいかもしれない。
「ジュネーブ」
兄は「スイス」とは言わなかった。なんだか兄がスイスにいるということを私が知っている前提で話されてしまっているように感じ、少しムッとしてしまう。とはいっても実際問題兄がスイスにいることを私は知っていたわけで、ここで「スイス」と言うのは無意味だ。つまり兄は何一つ間違ったことは言っていない。
「お疲れ」
「ありがとう」
短い会話を終わらせて私はトイレに向かう。もちろんトイレをしたいからだ。だがこの場面を週刊誌が切り取ったら「舞子は兄から逃げるようにトイレに駆け込んだ」と書かれそうな気がした。
意味もなく五分ほどトイレに居座ってリビングに戻ると、兄はやはり無表情でただ座っていた。何を考えているのだろうか。頭の中で光速の原子と原子をぶつける遊びでもしているのだろうか。
「舞子」
私の頭の中の兄の頭の中で光速の原子と原子をぶつけていると、兄に突然話しかけられて驚いてしまう。
「何?」
「どうした?」
その言葉でハッとする。ただ座っている兄を、私は十秒間くらい立ったままただじっと見つめていた。
「いや、何でも」
「そうか」
兄の表情が少し綻ぶ。それを見て私も少し安心してしまう。
「親父、どう?」
その言葉で兄が何を考えていたのかだいたい察しがついた。
同時に現在も病院で管につながれているだろうパパの姿が脳裏に浮かぶ。
一定間隔で波打つ心電図の音が脳の後ろで反響している。
「んー、あんまりよくはなさそう」
「まあ、そうだよなー」
兄はそう言いながら両手を頭の後ろで組んで天井を見上げる。
兄がパパの容態を気にするのは当たり前だ。ただ、それは息子としてなのか、科学者としてなのか、次期天皇としてなのか。私には兄の気持ちはわからないが、きっと兄の事だから誰が何を手助けすることもなく自分で適応してしまうのだろう。日本の象徴というものを完璧に体現してしまうのだろう、そう思ってしまう。
兄は、今度は天井を見上げたままの姿勢で動かなくなってしまった。話の続きがありそうだったが、ないのだろうか。話が終わったのであれば部屋に戻りたい。
そう考えていると璃子の部屋のドアが開く。
「お姉ちゃんお兄ちゃんおはよー、兄ちゃんは久しぶり。元気だった?テレビ見たよ、プリンスだって、なんか笑っちゃった。すごいねあの施設。普段あんなところで研究してるんだ。なんか研究者って感じだった」
「おはよう、璃子は元気そうだね」
兄が顔を降ろしてふっと笑う。
璃子と兄は九歳違うので、兄がアメリカの大学に飛び級で入学したとき璃子はまだ六歳だ。それにも関わらず私よりも璃子の方が兄と仲が良いような気がする。
璃子が兄の隣に座ったのを確認して私は入れ替わりで自分の部屋に向かった。
「いつまで日本にいるの?」「一週間くらいかな」「みじか」「まあね」「出ずっぱり?」「今日は公務が七つある」「えー、勉強教えて欲しいのに」「俺教えるの苦手だよ」「コミュ力無いもんね」「俺、コミュ力無い?」「嘘」「ほんとに?」、「嘘だって」「どっち?」「何が?」「嘘が嘘?」「嘘はほんと」「どっちの?」「どっちって何?」「嘘かほんとか」「それは何が?」「璃子が言ったこと」「ちょっと待って、何の話?」「俺のコミュ力」「あー、知らない。適当に言った」「おい」・・・
ベッドにドサッと倒れこむ。
気分が晴れない。兄が帰ってくると昨日まで女三人で慎ましかった家の空気が一気に兄の空気になるような、そんな感覚になってしまう。璃子のように素直に「すごいね」と兄を褒められない自分が少し惨めで情けない。
スマホを手に取り「成仁様」と検索する。すると兄の近況がつまびらかになるように記事がたくさん出てくる。私はそのうちの一つ「成仁様、スイスの実験施設で研究に励まれる。ご友人とはドイツ語で楽しく談笑」という記事を見る。実験施設での写真と共に兄の様子が描写されているが、記事の内容は薄い。要約するとタイトル通り、兄がスイスの実験施設で友達と話していた、というものを「られる」、「なさる」といった仰々しい言葉遣いで説明しているだけだ。にも関わらず三百件以上のコメントが寄せられている。世間の兄に対する注目度の高さが伺える。コメントを流し読みしていると少数ではあるが心無いコメントが見受けられて心が痛む。
関連記事を見ると、「成仁様、国際学会でスピーチ」、「璃子様、リリー王女にハトサブレーを贈る」、「舞子様、明治神宮を参拝される」といった、サザエさんの次回予告のようなタイトルが続き、近くの注目の記事の欄に「女系天皇を認める法案の可否について」という記事があった。
こうしてみると、私の記事だけがずば抜けて地味なのがわかる。これでは閲覧数が稼げずにアフェリエイトの広告収入に貢献できない。いつか私の記事が無くなってしまいそうな気がしてしまう。
私は璃子の記事をタップすると、画面全体を覆うように広告が表示される。右上の小さな×ボタンで広告を消すと、ブロンドヘアーの麗しい女性の画像と共に、これまた内容の薄い記事が表示される。平和の象徴を意味する鳩をかたどった日本のお菓子が友好のしるしとして璃子様からリリー王女に送られた、といったものだ。
リリー王女の人気も相まってこの記事にも百件以上のコメントら寄せられている。兄と違ってリリーや璃子の容姿を褒めるものが多いが、やはり二人のキャラクターも相まってかただの妬みのようなコメントも散見される。割合的には兄の記事よりも多いかもしれない。
そして私は知っている。この記事を書いた人は二人の関係性を何もわかっていない。璃子がハトサブレーを贈った理由はそんな大層なものではないのだ。
璃子はこのハトサブレーと共に手紙を同封した。その手紙には「Pigeon is a symbol of peace, but it is also symbol of stupid animal. This reminds me of you so much. (鳩は平和の象徴であると同時にバカな動物の象徴でもあるの。あなたにピッタリだと思わない?)」と書いていた。要するにリリーをバカにするためのジョークなのだ。
その前はリリーから璃子に王室御用達の傘が手紙と共に送られてきた。「Dear Riko Nothing could be connected stronger than you and me Sincerely( 拝啓、親愛なる璃子へ。私たちの絆は世界で一番です 敬具)」と記載されていた。この手紙は、一見すると極東に住む親友への思いを綴った手紙のように見える。しかしリリーの手紙に記載されているyou and meというものは文法的に間違いで、正しくはyou and Iである。これは璃子がよくやる文法ミスで、リリーはわざと間違えることで璃子をバカにしているのだ。拝啓や敬具をつけたのも、敬意を込めたわけではなく、単にジョークのエッジを効かせるため。
このように二人は表向きにはイギリス王室と日本の皇室の友好のしるしとしてあらゆるものを贈り合っているが、その実は下らない冗談を言い合っているだけなのである。
しかし、二人にとってはただのじゃれあいでも、周りからしたら冷や冷やしてしまう事もある。
璃子が四十八円の安物の胡椒と共に「Your welcome」と書いた手紙をリリーに贈ろうとしたこともあった。璃子としては渾身の出来栄えだったようだが国際問題に発展しかねないということで宮内庁が大騒ぎになってしまい、送ることができなかった。璃子がこのジョークにどこまでの意味を含ませたのかはわからないが、見方によってはイギリスという国を痛烈に批判しているようにも見える。普段の璃子とリリーのメッセージのやり取りも定期的に大人が管理したほうがいいのではないか、という話も出たほどだった。さすがにプライバシーの問題があるので実現はしなかったが、それ以来お互いの郵送物は厳しくチェックされるハメになり、璃子はママにこってりと絞られていた。
普通の友達同士であれば何の問題もないが、二人とも国の要人であるがゆえにそのような事態に陥ってしまう。
私は恐る恐る自分の記事に手を伸ばした。私が初めて明治神宮を参拝したときのもので、本堂に向かってお辞儀をしている瞬間が切り取られている。記事の内容はタイトル以上でもそれ以下でもない。コメントはたったの十八件。もし私たちが三人組のアイドルグループだとした場合、兄はニュース番組の司会、璃子は女優、私はSASUKEで第一ステージ敗退だ。グループ内格差も甚だしい。所属事務所と売り出し方をもっと考えた方がいいだろう。
ざっとコメントを見ると「舞子様が最も皇族にふさわしいお方である」、「お辞儀の姿勢が素晴らしい」といった、よくわからないものばかりだった。そして、そこには私を称賛するものしかなく、誹謗中傷の類は一切見受けられなかった。
気味が悪い、そう思った。
私はゆっくりと起き上がり、棚に飾ってあるイチローさんのバットを手に取った。ゆっくりと右手を伸ばし、イチローさんの象徴となっている構えをとる。こうしていると精神が研ぎ澄まされるような気がする。
気味が悪い、その感情の実体が明確になってくる。
日本という国は一億人以上の個の集合である。しかし、私は時々日本という国が一つの巨大な生物のように感じてしまう時がある。この生物は時に優しく、時に残酷で、寛容で、暴力的で、慎ましく、気まぐれで、生真面目で、恐ろしい。私はこの生物が、気味が悪くて仕方がない。しかし、私はそんな生物に寄生して生きている。常に顔色を伺い続けなければならない。常に行儀良くしていなければならない。まるで地球の周りをまわり続ける月のように、近づくことも、離れることもできずに、支配され続ける。
「今日の夜暇?」
と私はベッドに横になりながら長谷川に送信した。兄はとっくに家を出たが、それでも私の中には閉塞感が残っていたため、どうしても気分転換がしたかった。休日に遊ぶほど仲が良い友達、さらに言えば私を「舞子ちゃん」なんて呼ばない友達は長谷川しかいない。
「暇だよ」と、すぐに長谷川から返信が来る。
「ご飯行こうよ」と、すぐに返信。
「いいよ」
「六時に前のところでいい?」
「それはつまり、そういうことでいいの?」
「うん笑」
「あざす」
長谷川からは野菜のスタンプが送られて来た。
六時に待ち合わせ場所である懐石料理の店に着くと、少し離れたところで長谷川は待っていた。
「なんでそんなところにいるの」
「こんな店の前に高校生が一人でいたらおかしいだろ」
ここは赤坂にある有名な懐石料理のお店で、少なくとも高校生が二人で来るようなところではない。ママや兄も時々利用するお店で、店主も勝手がわかっている上に客層も落ち着いた人が多く、何かと都合がいい。長谷川と来るのはこれで三回目だ。
「えっと、こんばんは」
長谷川が護衛の原田さんに頭を下げる。
「相変わらず仲良いですね」
原田さんはニヤッとしながらそう言う。柔道の有段者で学生時代はオリンピックの選抜候補にも選ばれたという原田さんはかなり体格が良く、長谷川の弱々しさが際立つ。
「はい、おかげさまで」
長谷川が適当な返しをする。なんのおかげなのだろうか。
「とりあえず、入ろっか」
そう言って「すがわら」と書かれた暖簾をくぐり、深い焦げ茶色の引き戸をガラガラと開けると、「あ、舞子ちゃん、いらっしゃい」と、カウンターの中で仕込みをしている店主の菅原さんに声を掛けられる。時間が少し早いこともあってお客さんはまだいない。
「こんばんは、菅原さん」
「彼氏も一緒?」
私が小学生の時からの知り合いのため、菅原さんも気さくにそう言う。
「彼氏じゃないですって」
私は少し大げさに手を振って否定する。
「帰るときには変わってるかもよ?」
菅原さんがそう言う。もちろん冗談だ。しかし長谷川を見ると、どうしたらいいのかわからない、といった表情だったので、「どうでしょうね?」と含みを持たせて言っておいた。
「いいね、若いって。じゃあ、ゆっくりしていってね。二人は一番奥の個室で、護衛の方はカウンターの一番端でいいですか?」
私たちは店の一番奥まったところにある、カウンター席と通路を挟んだ個室に案内される。護衛の原田さんは個室の正面を陣取る形でカウンター席に鎮座する。
「なんなんだよさっきの」
長谷川は、荷物を降ろし、掘りごたつに足を納めながらそう言う。
「適当に合わせてよ」
私は長谷川の正面に腰を下ろしながら言う。
「俺ここまだ慣れないわ」
長谷川は鳩のように首を回してキョロキョロと周囲を見渡している。木を基調とした内装で、壁には掛け軸が飾ってある。墨で描かれた出鱈目な筆跡は、蛇が暴れまわった痕のような躍動感がある。もしかしたら有名な書道家の作品なのかもしれない。こういった飲食店の内装はアーティストの食い扶持の一つなのだろう。
「今日は全部で七品のコースだから。ゆっくりしようよ」
「ちなみにいくらなの?」
「知りたい?」
おそらく一般的な高校生の夜ごはんに比べたら桁が二つほど違うだろう。正直個室があればここである必要はないが、なんとなく長谷川に見栄を張りたいという気持ちがないこともない。
「いや、聞かないでおく。御馳走様です」
「あはは、まあ、税金なんだけどね」
「大丈夫かな、高校生でこんな場所。俺怒られない?」
「誰に?」
「民衆」
「まあ、無闇に言わないほうがいいかもね。私が怒られそう」
「誰に?」
「ママに」
「皇后陛下か」
「仰々しいって」
一応お金は自由に使っていいことにはなっているが、余りにも羽振りが良すぎると反感を買う可能性は大いにある。長谷川とそこまで頻繁にご飯に行っているわけではないが、頻度なんてものは第三者には関係がない。一度見られてしまえば常日頃からこういう店に友達と来ていると誤解されてもおかしくはない。
コンコン、という音が鳴る。仲居さんが静かにふすまを開けて、料理を運んできた。
「こちら先付けになります」
「ありがとうございます」
仲居さんが静かに私たちの前に料理を置くと、「ごゆっくりどうぞ」と言って、無音で扉を閉めた。
一品目の先付けは、車海老と帆立の酢和え。小さな器の底には大粒の帆立が鎮座し、それに寄り掛かる形で二匹の海老が添えられている。
「俺、マックの気分だったんだけどな」
仲居さんがいなくなったのを確認して、長谷川は小声でそう言う。
「私が刺されたらどうするの?」
私がそう言うと、長谷川はふすまに目を向ける。
「原田さんがクビになっちゃうな」
長谷川はふすまの先の原田さんに思いを巡らせていたようだ。
「私は?」
「刺されたいくらいの事考えてそう」
「さすがに死にたいとまでは考えたことはない。こともないけど、たまに気分が沈んだときに嫌なことが重なるとそうなる。こともないこともない」
私はそう言って、海老を一匹口に運ぶ。柑橘のさっぱりとした香りが鼻を抜ける。
「どっちで着地した?」
「昔はあった。今はない」
長谷川にこうして心の内を吐露できているというのは精神衛生上かなり助けになっているのだろう。
「の割にはいつも機嫌悪いけどな」
「不機嫌を超える前に長谷川に当ててる」
「なんじゃそりゃ」
長谷川は笑いながらそう言うと、「まあ、いいけど」と言い、料理に手を付ける。長谷川は箸の持ち方が少し変だ。いいなあ、とつい羨んでしまう。
「ムカつくことないの?」
「んまあ、別に。大変そうだな、って言うと他人事っぽいけど、お前見てたらそう思うし。なんだかんだお前と話すのは嫌いじゃないし」
嫌いじゃない。はっきりしない言い方でなんだかなあ、と思ってしまう。
「それは自己嫌悪?俺への気遣い?」と長谷川。
それ、とは?と一瞬考えたが、直前の私の発言のことを言っているのだろう。確かに私が長谷川の顔色を伺うことはあまりない。
「ポイント稼ぎかな」
「何の?」
「たまには気遣うふりをしておこうと思って」
「傲慢だな」
「ね」
「ここはありがとうだろ」
「生まれた時から何でもある環境にいたから」
「なんか悲しいな」
普通だったら「自分で言うな」と言いそうなところを長谷川は「悲しいな」と言った。こういった機微が長谷川には的確に伝わる気がする。
「じゃあこれは?」
長谷川は料理を箸で持ち上げてそう聞く。美味しいかどうか、ということだろう。生まれた時から何でもある環境にいた人間を舐めないで欲しい。
「普通。どう?」
「どちらかと言うとダブルチーズバーガーの方が百倍好き」
長谷川はそう言って先付けを一気にかき込む。この先付けは海老と帆立の出汁に加えて、柿酢に柑橘にと、様々な旨味が重なり合って特有の風味を生み出している。と、菅原さんは前に言っていたが、私たちには少し繊細過ぎるため、大味のジャンクフードのほうが好みだ。
「どちらかと言うと、ね?」
私は少し笑いながらそう言い、少し遅れて完食した。それとほぼ同時にふすまがコンコンとノックされ、仲居さんが入ってくる。あまりのタイミングの良さについ上を見回してしまったが、防犯カメラのようなものは確認できなかった。
「ごゆっくりどうぞ」
と二品目を運び終えた仲居さんがふすまを閉めながらそう言う。
二品目は椀物。蓋を開けると、ふわっと鰹と昆布の香りに包まれる。菊の花びらが散らされた吸い地の中心には海老のすり身がふんだんに使用された真薯が沈んでいる。真薯を割って口に運ぶと、海老の香りが脳の奥まで届いた。長谷川は出汁をすすり、「うまっ」と控えめにリアクションする。
「昨日お兄ちゃん帰って来たんだよね」
私がそう言うと、長谷川は「そうか」と小さい声で言った後、
「私、璃子みたいにお兄ちゃんと話せないんだよね」
と、私の声を模倣し、私の言葉を捏造した。あまりに似ていなかったので少し笑ってしまった。私も長谷川に乗っかって、
「お前、またその話かよ」
と、長谷川が言いそうなことを、長谷川のような声で言った。すると、長谷川は、
「璃子は私と違って、人懐っこいし愛嬌もあるし、私もあんな風になれたらなって」
と、全然似ていない私の声で言った。
「そんな風に思ってたの?」
私は素の声に戻った。
「俺は思ってない」
「そんな風に私が思ってるって思ってたのって意味」
「お前は何に対しても勝手に自分と比べて、勝手に負けて、勝手に凹んでそうじゃん」
長谷川はそう言うと、吸い物にふーっと息を吹きかけ、ずずっと啜った。
私と璃子は、根本的に皇室というものに対する考え方が違う。ママほどではないが、私も璃子を見ていると冷や冷やするため、どちらかと言えば保護者のような感覚なのかもしれない。
「でも長谷川が璃子に対してそう思ってるのは本当でしょ?」
「まあ、そんなイメージはある」
器に口を付けていた私は、目線で軽く相槌を打った。
「なんていうか、璃子様は普通の女子高生って感じだよな」
長谷川は「璃子様」と言ったが、璃子はなぜか三年生の間でそう呼ばれている。
「それ、璃子の事バカにしてるでしょ、怒るよ」
「バカにしてない。すごいなあって。キラキラしてて」
「あれってキラキラしてるっていうの?廊下なのに話し声大きいし、集団で固まってるから邪魔だし、姉としてちょっと恥ずかしいんだけど」
「こないだまた護衛から逃げ出したらしいじゃん」
「あの時も璃子探すのに警察まで出動したらしいよ。それで探し回った結果見つかった場所がショッピングモールのフードコートって何なの?かくれんぼでもしてるつもり?最悪じゃない?」
「最高だけどな」
「知ってる?あの後璃子と一緒にいた友達は先生に叱られたんだって。璃子ちゃんに何かあったら責任とれるのかって。でも璃子は何も言われてないんだよ?これって絶対おかしくない?」
「言っても逆効果というか、むしろそういうの楽しみそうじゃん。璃子ちゃんって」
「これでママが病気になったら絶対璃子のせい。みんな璃子の事放置し過ぎだと思わない?先生とかももっと厳しく注意しないといけないと思うんだけど、周りの人も不満に思うでしょそういうのって、皇族だからなんだなって、不平等に感じちゃわない?何よりも璃子のためにならないと思わない?」
「お前、璃子ちゃんの話になるとほんとによく喋るな」
長谷川はニヤッとした表情でそう言った。
「心配なの」
私はそう言って、真薯を口に放り込み、スープと一緒に胃に流し込む。
「でもほんとに似てないよな、お前と璃子ちゃん」
「まあね。私はパパに似てて、璃子とお兄ちゃんはママに似てる。顔も性格も」
「成仁様って璃子ちゃんと似てるの?」
「なんでいちいち様付けなの」
「成仁様は成仁様じゃん。天才だし」
「それやだ、天才天才って。バカみたい」
私がそう言うと、長谷川は少しこちらの様子を伺うような表情になった。
そしてコンコン、と音が鳴る。私の言葉遣いを注意されたような気がしてハッとなるが、がらりとふすまが開いて仲居さんが入って来た。私はなぜかホッと胸を撫で下ろした。
三品目は造里だった。。だが、私はなんだかもやもやしてしまって食事に手を付ける気になれない。家に兄がいることを思い出してしまった。兄が家にいると途端に疎外感を感じるような気がする。過去に何か嫌なことをされたわけでもなければ私が何かをしたということもない。
兄は十五歳でアメリカに行って以来、兄の公務が始まる二十歳―当時は二十歳で成人だった―まで、日本に帰ってくることはあまりなかった。そして、その時にはもう博士課程まで進んでおり、研究職にほぼ両足を入れた状態だったので、時々日本に帰ってきては公務で埋め尽くされたスケジュールを消化してゆく今のような生活をしていた。さらに言えば、私が物心ついてから兄が十五歳でアメリカに行くまでの期間も、私の記憶では兄はほとんど勉強しかしていなかった。話すといっても食事の時だけだった。どうせ天皇になるのにこんなに勉強して何になるんだろう、私は幼いながらもそう思っていた。
「私、やっぱりお兄ちゃん苦手」
私がぼーっと考え事をしていると長谷川が私の真似をしながらそう言った。
「さっきよりは似てる」
「尊敬する兄に素直になれない女の子の悲壮感出てた?」
「別に尊敬してるわけではない」
「あんなにすごいのに?」
「すごいって、兄ちゃんの何がすごいかわかってるの?」
「そりゃ十五歳でアメリカ行って、今はスイスで研究者だろ?若いのにすごいだろ」
「十五歳でアメリカとか研究者とかそういうわかりやすい経歴が並んでるから凄そうに感じるだけかもしれないじゃん」
「少なくとも俺にはできないからな」
「長谷川だって環境と選択肢があればできたかもしれないじゃん」
私は奇しくも兄に対してのアンチコメントと同じようなことを口に出してしまう。
「できないんじゃないかな」
「それはわかんないじゃん。環境が違えば長谷川だって小さい頃から勉強していたかもしれないじゃん。そしたら自ずとそういう選択肢も出てきたかもしれないじゃん」
じゃん、じゃん、じゃん、と気が付いたら長谷川を責めるような口調になってしまっている。
「能力と行動力はまた別だよ」
「じゃあ長谷川に能力も行動力もあった場合」
「それはもう俺ではない」
「何なのよさっきから否定ばっかりでムカつく」
「ずっとお兄さんを否定してるのはお前だと思うんだが」
「ほら、そうやってまた私に歯向かう」
「なんだ。八つ当たりの時間か」
「そうよ」
「俺にどうしてほしいんだよ」
「私は長谷川に十五歳でアメリカに行って別にすごくないってことを証明してほしい」
「俺もう再来週十八歳だけどな」
「この役立たず」
「舞子さん?」
「もう知らない」
私は不貞腐れながらそう言い、真鯛の刺身をつまんだ。真鯛のもちもちとした食感と甘味、絶妙な昆布締めの塩味、まろやかな醤油とスッと鼻を抜けるワサビの刺激が脳に届き、もやもやとした苛立ちをよそに幸福感を感じてしまう。
「あーもう!」
「なんだよ今度は」
「うまい!」
「美味いもん食ってキレんなよ」
「いい?私は今機嫌が悪いの、八つ当たりがしたいの。でもこの刺身が美味しいの。本当は美味しくない刺身を食べて刺身に八つ当たりしたいのにも関わらず。これってこの刺身が空気を読めてないってことだよね?私は悪くないよね?」
「まじで何言ってるかわかんない」
「長谷川の真鯛を私によこせって言ってるの」
「やだよ」
「私のおごりなのに?」
「さっき自分で税金って言ってなかったか?」
「お金に色はない。私のお金」
「わかったって」
長谷川はそう言うと渋々、といった様子で真鯛の刺身を私に差し出す。そして私は自分で言ったにも関わらず、少しびっくりしてしまった。
「え、なに、ほんとにくれるの?」
私は何が起きたのかわからなく、狐につままれたような気持になる。
「は??」
長谷川も、狐につままれたような表情をしている。
「いや、本当にくれると思ってなかったから、少しびっくりした」
私がそう言うと、長谷川は、少し首をかしげて
「まあ、よくわからんけど、やるよ」
と言った。
「そっか。なんか、ありがと」と私が言うと、「はい」とだけ言って長谷川は刺身を食べ始めた。
長谷川から貰った刺身を見る。私が長谷川に八つ当たりをして、そのお詫びとして私が長谷川から刺身をもらっている。変だな、と少し我に返る。長谷川を見ると特に気に留めた様子もなく刺身を食べている。なんだかんだで長谷川は彼女でもない私に優しいなと思った。
そんなことを思っていると長谷川がこちらを見た。目が合った。なんだか申し訳なさが込み上げてくるような気がしたが、謝ってしまったら本当に情緒が不安定だと思われそうなので何も言わないことにした。
「なあ、真面目な話、何がそんなに気に食わないんだ?」
長谷川は、私の気持ちが落ち着いたのを感じ取ったのか、話題を兄に戻した。
「んー、たぶん全部。私と同じ環境で育ったのに全く違う世界にいる兄ちゃんもだし、それをひたすら称賛する人たちもだし、兄ちゃんがすごいのはわかっているけどなんか認められない私も」
自分でも少し驚いてしまうくらいに言葉がすらすらと出てきた。
私だって兄がすごいのはわかっている。ただ、それを認めてしまうと自分がいかに平凡かということを認めてしまうような、そんな気がして認められないのかもしれない。自分にも何かがあれば、例えばイチローさんのように四〇〇〇本以上ヒットを打つ、そんなものがあれば素直に兄を認められるのかもしれない。
私には、何もない。璃子にはリリーという親友がいる。兄には研究者という側面がある。私はただの高校生だ。私にはそこが欠けている。私には自分を象徴たらしめるような「何か」がないのだ。
「あのさあ」
長谷川がそう口にした。それと同時にコンコン、とふすまがノックされた。
「何?」
「いや、いいや」
ふすまが開き、仲居さんが入って来た。
四品目は進肴で、黒毛和牛のローストビーフが、おこわに巻き付いている、いわゆる肉寿司のようなものだ。チーズや山椒、その他様々な薬味が施されているため、味は複雑に入り組んでいる。正直私には何が何だかわからないが、とにかく美味しい。
「受験勉強捗ってる?」
何かを言いかけていた長谷川だが、私が促しても話そうとしないので、私は話題を変えた。内部進学の私とは違い、大学受験を控える長谷川はれっきとした受験生だ。
「どうだろう、時間だけ見れば結構やってるつもり」
「どれくらい?」
「平日六時間、休日十二時間は最低でも机に向かうようにしてる」
私は想像以上の長谷川の勉強量に「マジ?」と普段あまり使わないようにしている言葉が出てきてしまった。
「マジ。でも、んー、模試の結果は五分五分ってとこだった」
「まだ半年あるから、それだけ勉強してれば大丈夫じゃないの?」
「でもみんなそれくらい勉強してるからなあ、上位との差が縮まればいいんだけど」
受験というものの怖さを知らない私にはわからないが、落ちたらどうしようという不安と戦いながら誘惑に惑わされずに毎日それだけの時間勉強できるという事実だけでも、素直に尊敬できるように思えた。
「お前、頭いいんだから他の大学行けばいいのに」
確かに、私は念のため継続的に勉強していた。それゆえ学校のテストで上位五番以下になったことはない。長谷川はだいたい四十番前後を推移していたので私の方が勉強はできたといってもいいだろう。ただ、それも受験が本格的に始まる前の話なので今はもうわからない。
「他の大学行く意味ってあんまりないんだよね」
もちろん人によると思うが、一般的に、大学に行く理由は就職先の選択肢を広げるためだ。将来のために、今の時間を犠牲にしているのだ。
ただ、私の場合は公務があるため、一般企業に正社員として就職という雇用形態にはなりえない。働くとしても嘱託社員という形で週に二、三日が限界だ。
「まあそうか、確かにな」
「私は将来の夢とかなかったけど、あったとしても意味はないし」
「やりたいこととかないの?」
長谷川はそう言うと、肉寿司を口に運んだ。
やりたいこと。なんだろうか、そう思い、ふと壁に掛かっている掛け軸に目を遣った。墨汁で描かれた模様は、青春という文字のようにも見えるし、山の稜線に向かう鳥の群れのようにも見えるし、奇抜な抽象画のようにも見える。一つ一つの線にどのような意味を持たせるかはきっと鑑賞者の自由なのだろう。見る人によって見え方が変わるこの作品に、作者はどんな思いを込めたのだろうか。ミュージシャン、漫画家、お笑い芸人、女優。何かを表現するということは、私とは真逆の存在のようにも感じる。
「難しいかも」
私は考えた挙句、白旗を振った。私には、難しすぎる問いだった。
「仕事に限らず、パッと思いついたものでも」
長谷川がそう言った。もし私が皇族じゃなかったら、そんな自分の生活を想像してみた。知らない場所での知らない自分。
「んまあ、なくもないのかも、でもちょっと違う気もする」
「教えてよ」
「んー、なんか、例えば家で料理、そうだな、パスタを作ってるとするでしょ?でも作ってる最中に思うの、私、別に今パスタ食べたくないやって。それで作りかけのパスタを全部ごみ箱に捨ててファミレスに行くの。そこでオムライスかなんかを注文するんだけど、思ってた味と違うくて一口だけ食べて帰るの。もちろんお金は払うよ?それで帰り道でコンビニ見つけて、これでいいやって、スイーツとかアイスとかを買って家の近くの公園で食べる、みたいな。そんなことしたい」
私は頭の中で自分がした行動をそのままの順番で口にした。それを聞いた長谷川は少し浮かない表情で「そうか」と、言った後、
「なんか重いな」と言った。
「そう?」
「うん、なんとなく、そんな感じがした」
私は特に何かを考えて言ったわけではなかったので、あまりピンとこなかった。
「長谷川は生物系に進みたいんだっけ?」
以前長谷川は東京工業大学の生命工学科を志望しているという話を聞いた。ただ、何故その道に進みたいのかという理由までは詳しく聞いていなかった気がする。
「まあ、そうだな」
「なんで?」
「んー、そうだな。確か俺が北海道出身っていう話はしたよね?」
「うん」
長谷川は出身が北海道だと言っていた。しかし私たちの高校は私立のいわゆる進学校、それもそこそこレベルが高い学校なので、地方からやってくる生徒も珍しいとはいえ、いないこともなかった。
「広尾町ってとこが俺の出身なんだけど、広尾町って聞いたことない?」
広尾町、聞いたことがある。十三年前の千島海溝沿いの大地震で甚大な被害が出た街の一つだったと記憶している。
「それって、震災?」
「そう、震災。十勝の大震災」
十勝の大震災。その言葉を聞いて私は目を瞑る。濁流にのまれていく町や人。当時私はまだ四歳だったが、その光景は、今もはっきりと覚えている。おそらく今を生きている日本人であれば全員が瞼の裏に鮮明に焼き付いているだろう。パパとママも何度も被災地を訪問していた記憶がある。
「それで、俺の実家は農業をやってたんだけど、震災の影響で土地が半分以上使い物にならなくなっちゃったんだよね。それで、俺が六歳の時に東京に引っ越してきたんだよ」
初めて聞く話だった。長谷川は以前、出身が田舎過ぎて近くにいい高校がなかった、と言っていた。それゆえ、私はてっきり中学卒業と同時に東京に引っ越してきたものと思っていた。
「そうだったんだ。初めて聞いた」
「うん、この話するの初めて。別に隠してたわけじゃないんだけど、何となく」
「いや、全然」
私は少し呆然としたまま長谷川の話を聞いていた。
「多分俺、広尾町の実家が好きだったんだよね。でっかい庭が家にあるみたいで、カエル捕まえたりとかして。そういう小さい頃の楽しかった記憶が頭の隅にずっとあって、またあんな生活をできたらなって漠然と思う。そう。それでそっちの道に進もうかなって」
「なんか、ちゃんとしてるね」
そんな話を聞いて「ちゃんとしてるね」なんてことしか言えない私が心底嫌になった。私は兄の成功も喜べず、友達の悲しみも一緒に悲しめない、そんな人間なんだな、と。
「東工大、受かるといいね」
「あー、それなんだけど、多分俺東工大は受けない。偏差値的に厳しい」
「さっき五分五分って言ってなかった?」
「それは別のところ」
「どこ?」
私がそう言うと、長谷川は少し浮かない表情に変わる。そしてゆっくりと口を開き、
「北海道大学」
と言った。その瞬間、私の胸がグッと締め付けられる。
半年後、長谷川が北海道に行ってしまうかもしれない。突然降って来た事実に頭を強く打たれる。
コンコンと音が鳴り、襖が開くが、私の体は遠くに聞こえるその音には反応しなかった。
テーブルの上には五品目の茶椀蒸しが置かれた。
「北海道大学」と、私が確認するかのように呟くと、「ごめん、言おうと思ってたんだけど、タイミングなくて、というか、なんか切り出せなくて」と長谷川は尻すぼみに言った。
長谷川と初めて話したのは高校二年生の学校祭の時だった。教室で行う催し物の受付当番で一緒になった。そこで長谷川は急に「舞子ちゃんの事お前って呼んでいい?」と言った。急な距離の詰め方に少し戸惑っていると、「お前って本当は相手を敬う言葉だから、この場合は逆に使い方正しいよな?」と言ってきた。私が、「長谷川君って結構ヤバい人?」と言うと、「舞子ちゃんもヤバいとか言うんだね」と言われた。「お前って呼ばないの?」と聞くと、「え、ほんとに呼んでいいの?」と言われたので「別にいいけど」と言うと、「舞子ちゃんって結構ヤバい人?」と私が言ったセリフをそのまま返してきた。十秒くらいのやり取りだったが、会話のリズムが心地よいと思った。
当番は二時間制だったが、二時間ずっと話していた。何を話していたかは特に覚えていないが、きっと内容のある話はしていなかっただろう。ただ、その時私は普段学校では使わない言葉を平気で使っていた。長谷川といるときは脳内の二重線が出なかった。好きなことを自由に喋れる、それがすごく嬉しかった。
それ以来私は何か嫌なことがあると長谷川に電話するようになった。嫌なことといっても大抵は同じような話だった。璃子がママと喧嘩してる、お兄ちゃんが帰って来た、嫌なことをネットで書かれた。そのたびに長谷川は「またその話か」と言っていた。私の中で、嫌なことが起きるということは長谷川と話す口実ができるということと同義になっていった。心がすり減ると同時に長谷川と話す楽しさでバランスが取れるようになっていた。徐々にお互いに遠慮が無くなっていき相談から愚痴へ、愚痴から八つ当たりへと話の内容が変わっていった。
その頃にはとっくに私は長谷川への気持ちに気づいていた。きっと長谷川もそうだろうなとも思っていた。だが、はっきりさせようとは思わなかった。「皇族の彼氏」というレッテルが長谷川に貼られてしまうのが嫌だった。長谷川はずっと近くにいると思っていたので、はっきりさせるのは大学に入ってからでも問題はないと思っていた。北海道の大学に行くなんて夢にも思っていなかったのだから。
長谷川と出会うまでの私は、象徴という言葉に閉じ込められていた。真っ暗な空間に、私はポツンと立っており、一億人のささやき声が私の耳元で聞こえる。私は頭がおかしくなりそうに、毎日を過ごしていた。しかし、長谷川と出会ってそれが変わった。私がふっと倒れそうになると、長谷川が私を支えてくれるような、そんな気がしていた。そんな長谷川に私はすべての体重を乗せていた。
半年後、私の公務が始まり、私は大学生と象徴の二重生活が強いられる。私が表舞台に立つ機会も増え、世間の私に対する注目はさらに高まる。それに比例して私のストレスも増えていく。私の生活が大きく変化する。私は長谷川なしでやっていけるのだろうか。
私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私。
脳内にはゲシュタルト崩壊を起こしそうなほどの量の「私」が積み重なってゆく。私は結局自分の事しか考えていない、そう思った。震災で失ってしまった長谷川の家業。そんな過去の話を聞いてなお、私は自分の都合だけで、長谷川が遠くに行ってしまう事を嘆いている。そんな私が嫌になる。涙が出そうになる。
ほら、またそうやって、私は私を自分で嘆いて、独りよがりの自己嫌悪で勝手に一人で泣くんだ。私の兄に対する不満だって結局そうじゃないか。何が象徴だ、何がイチローだ。そんな私に何ができるというのか。私には何もなくて当たり前じゃないか。
私は何を嘆いているのかわからなくなってしまった。長谷川いなくなること?象徴?自分の無力さ?そのすべてをごちゃまぜにして何かにぶつけるが、それはいつも自己嫌悪という形で私の元に跳ね返ってきて、私の胸を突き刺してしまう。
「長谷川、本当に北海道行っちゃうの?」
私が自己嫌悪の渦にのまれていると、長谷川が私の声でそう言った。
「ふざけてるの?」と私。
「思い切ってふざけてみた」と長谷川。
ふざけてみた、という割には真剣な顔つきでこちらを見ている。
「長谷川、本当に北海道行っちゃうの?」と私。
「あ、えっと、うん。農学部強いし、北大」
「そっか。まあ、そうだよね」
私はそう言って茶椀蒸しを食べる。少し冷めてしまっていた。
それを見た長谷川も食べ始めた。二人で黙々と食べてゆく。私は何を言えばいいのかわからなくなってしまった。ごまかすために「食べる」という用事で時間稼ぎをした。しかし、食べ終わってもなお、何を言えばいいのかわからなかった。
次の言葉を探っていると、時間切れを知らせるかのようにコンコンという音が鳴った。
六品目は焼き物だった。銀かれいの麴漬け。このお店で私が一番好きなもの。
私はまず一口つまむ。味がしない。それでも空白を埋めるために「美味しい」と言いそうになった。が、料理と共に言葉をグッと飲み込んだ。
私と長谷川は、一緒に料理を食べても料理の話はしない。学校祭でも学校祭の話はしないし、花火を見ても、花火の話はしない。いつも内容のない、何とも関係のない話をする。
「美味しい」と私が言ってしまうと長谷川は「美味しいね」と言い、上っ面の会話が始まってしまう。そして、そのまますべてがうやむやになってしまうような気がした。
関係性をはっきりさせる時が来たのだろうか。
「どうする?これから。俺たち」
長谷川がそう言った。沈黙の間、私たちが考えていたことは同じだった。私はホッとして、体から力が抜けていく。
「遠距離恋愛になるね」
思わず「恋愛」という単語を発してしまったが、長谷川は、
「お前はそれでもいい?」と、当たり前のようにそう言った。
「しょうがないじゃん。誰かが勝手に志望校変えるんだから」
ちょっとした安心感から、会話がいつものペースに戻ってゆく。
「それは、ごめん」
「もう少し早く教えてくれてもよかったじゃん」
「模試の結果出てみないとわからなかったからさ。しょうがないじゃん」
「言い訳?」
「言い訳だな。なんか文句あるか?」
「ある。役立たず」
「口悪いな」
「何判定だったの?」
「Ⅾ判定」
「それ、結果出る前から手応えで分からなかったの?」
「ちなみに北大はC判定」
「落ちればいいのに。北大」
「えぐいこと言うなよ」
「私は全然応援しないから。北大。困るし。北海道なんていかれたら」
「開き直ったな」
「文句ある?」
「ない。別に悪い気もしてない」
「何それ、キモ」
「そう言われると少し揺らぐな。北大」
「いや、頑張ってよ、これで本当に落ちたら私のせいみたいになるじゃん」
「どっちなんだよお前」
「本音は落ちてほしい。建前は受かってほしい」
「逆だろ普通」
「一人で行けばって感じ。私は一人で公務のストレスで死ぬから」
「公務って、そんなに嫌なものなのか?」
「嫌」
私がそう言うと、長谷川は少し私から視線を外し、何かを考えるようなそぶりを見せると、
「あのさ、この際だからもう言うけどさ、いや、別に嫌だったらいいんだけどさ、というかこれはただの提案で別にそんなに本気にしなくていいというか、そんな感じなんだけど」
と、ごにょごにょとよくわからないこと言い始める。
「何?怖いよ?」
「いや、女性の皇族って結婚したら皇室抜けれるんでしょ?」
「そうだけど、なんでそんなこと知ってるの?」
「いや、普通に調べた、だから、あれなら結婚してもいいよ。っていうやつなんだけど」
長谷川の言葉を聞いた私の表情が訝しげになる。結婚して欲しいということではなさそうだ。
「結婚って言っても、ガチのじゃなくて、女性の皇族って一回結婚したら、離婚しても皇室戻れないらしいじゃん。だから、どうしても嫌だったら、俺を利用してもいいよっていう話」
長谷川の提案に私は少し言葉を失う。そんなこと私は考えたことがなかった。
「それって一回結婚して、すぐ離婚するってこと?」
「そう」
確かに制度上は問題ないかもしれない。しかしそれはあくまでも制度上の話だ。責務を放り出して逃げるなど、そんなことがあっていいはずがない。それでは皇族の美味しいところだけを吸い取る行為になってしまう。
「まあ、確かに、制度上はできるかもしれないけど、そんなことしたら大炎上するよ」
「例えばの話だから、そんなに気にしないでいいよ。一応伝えておきたかっただけだから」
私は少し寒気がした。考えるだけでも恐ろしかった。それを知った国民は一体どれだけ怒るだろうか、想像もできなかった。
しかし、真っ暗な空間に一本の命綱が降ろされた、そんな風にも感じた。
「ってか、そんなこと調べてたんだ」
私は少し笑いながらそう言った。
「まあ、一応、ね」
「あれなら結婚してもいいよって言い方、殴られてもおかしくないよ?」
「それはまあ、そうか」
長谷川が照れくさそうにそう言った。
一本の命綱。これを掴めばここから出られる。出た先に何があるかはわからない。私は、どうするのが正解なのだろうか。
コンコンと音が鳴り、最後の料理、デザートが運ばれてくる。
七品目の甘未は洋梨のソルベ。泡状のヨーグルトにつつまれた入るものの、私たちのような子供の舌を持つ者にとっては最も食べ慣れた味だ。
「なあ、話戻すけどさ、成仁様とちゃんと話してみなよ。俺が言う事じゃないけどさ」
長谷川はスプーンですくいながらそう言った。
「その呼び方やだ」
「なんていえばいいんだよ」
「成仁でいいじゃん」
「無理だよ。罰が当たりそう」
「そうなの?」
「ああ。まあ、とにかく、そういうことだから」
そういうこと、長谷川はそう言って締めくくった。
「まあ、わかった。わかった」
私はわかった、と二回言った。
「じゃあ行くか」
二人がデザートを食べ終わったところで長谷川はそう言った。
「そうだね」と、私は立ち上がる。
ふすまを開けると、原田さんが振り返った。一時間半ぶりだったが、久しぶりに見るように感じた。




