第一話
「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
夏の暑い日だった。給食を挟んだ五時間目だった。クラスのみんなが授業に身が入っていない中、私だけが先生の目を見てしっかりと授業を聞いていた。先生もそれに気が付いるのか授業中はよく目が合った。まるで私に対して授業を行っているようだった。そして、先生が日本国憲法第一条を読み上げた。私は先生を見ていた。先生は私を見なかった。その時初めて自覚した。私は、「日本国の象徴」なのだ。その時から、私の人生は柔らかい縄で優しく縛られてしまった。
日本国憲法第一条の意味を考えた。一つ一つの言葉の修飾関係を追っていき、正しく理解しようとした。その結果私にはこの文章が何を言っているのかわからなかった。考えれば考えるほど、理解から遠のいて行った。力強く、威厳のある言葉が並べられたこの文章は、つまるところ何も言っていないのだ。バカバカしい、そう思った。しかし、そんな力強く曖昧な言葉が定義するもの、それはまさしく私の人生だ。
私は右手に赤ペンを持って教科書に書いてあるこの未熟な文章を添削した。まずは「日本国」の部分を赤で囲う。象徴の対象があまりにも抽象的すぎる。これでは象徴する側の人からしたら何をどうすればいいのかわからない。日本国民なのか、日本の文化なのか。されに言えばそれのどういった点を象徴すればいいのか。これでは意図を汲み取れない。減点だ。次に「日本国民統合」を赤で囲った。さっきと言っていることが違う。減点。そして「総意」に波線を引く。これは確認する必要がある。日本中を一軒一軒回って、日本国民が我々に対してどう思っているのか、この文章の内容に不平不満がないか、納得しているのか。一人も漏れず、一億人以上の国民全員が同じ回答をしたならば良しとしよう。おそらくはそうはならないだろう。この文章を考えた人はなぜ「総意」なんて思慮の浅さが透けて見える言葉を使ったのだろうか。本当に当時の国民は賛同したのだろうか。おそらくは確認すらしていないだろう。きっと狭い部屋でおじさん数名が考えたものだ。どうせ全員丸眼鏡にチョビ髭だ。適当なことを抜かしやがって。
誰が悪いのだろうか。マッカーサーが悪いのだろうか。だとしたら日本刀で切り付けてやりたいところだ。もちろん峰打ちだ。憂さ晴らしをしたいだけなのだから。彼にだって私のようなひ弱な女子中学生のお願いを聞き入れるくらいの甲斐性はあるだろう。そもそも本当にマッカーサーが悪いのだろうか。いや、彼に言われた通りのことを馬鹿正直に書いたやつが悪いのだ。従うふりをして適当にお味噌汁の作り方でも書いておけばよかったのだ。どうせ日本語なんてわかりやしないんだから。そしたら今頃日本国憲法の条文第一条はお味噌汁の作り方だ。日本人らしくていいじゃない。五十年も経てばきっと憲法学者や歴史学者、民俗学の偉い人がうまいことこじつけてくれる。戦後日本のアイデンティティの確立を促すために、戦争に負けて失いかけていた日本人らしさというものを未来永劫忘れないようにするために、我々のDNAに刻み込まれているみそ汁の味をあえて憲法条文の中に残したのではないだろうか、といった具合にだ。本当の事なんて誰にもわかりやしないんだ。いや、そもそも江戸時代にペリーがやってこなければよかったのだ。開国なんてことをするから・・・
※
「舞子からも何か言ってちょうだい」
自分の記憶を追体験していた私は、ママの言葉によって朝食中の現実に引き戻される。
「ごめん、何の話だっけ?」
いつもそうだ。いつもこうなる。始めは何だっただろうか。そうだ、璃子がまた護衛の目を盗んで友達と遊びに行ったという話だ。普通の高校生であれば放課後にふらっと友達と遊びに行くことなど造作もないことだが、私たちの場合はもれなく護衛が付いてくる。屈強なおじさんに近くをうろうろされていては高校生の特有の与太話は鳴りを潜めて、英語の小テストの話をするしかないだろう。璃子はそれが嫌なのだ。璃子だって普通の女子高生らしくファミレスで友達と話がしたいはずだ。誰がカッコいい、誰が面白い、どの先生が好きか、嫌いか。そんな話を大声で。しかし、それは高校生として許される振る舞いであってもこの国の象徴として許される振る舞いではない。どこへ行くにも何をするにもそれらしい行動や言動を求められる。そんなことを考えていると、私は四年前、中学校で社会の授業を受けている時にタイムスリップしてしまっていた。全てのエネルギーが様々な形態を経て、最終的に熱エネルギーになるように、私の考えは、いろんな場所を経由して、最終的には四年前の社会の授業にたどり着く。
「昨日璃子がまた学校抜け出したの」と、ママが私を味方に引き込もうとする。
「知らないよ」と私は言う。
「お姉ちゃんだって一回くらいあるでしょ」と今度は璃子。
「ないよ」と私。
私は高校三年生の折り返しまで来ているがそんなことは今まで一度もない。しかし、璃子はたった半年間の高校生活で三回目だ。私は放課後に遊びを誘われてもなんとなく断ってしまう。もちろん自分から誘うことはない。行きたくないわけではないが、そういうものだと諦めてしまっていた節があった。が、璃子を見ていると私にはそこまで親しい友達がいなかっただけではないかという気もしてくる。きっと璃子にとっても、その周りにとっても、護衛の存在は日常の遊び道具の一つなのだろう。学校に行けば「あの後どうだった?」「めっちゃ怒られたよー」と、まるで天気の話をするかのように自然に、ただの話題の一つとして消費されてゆく。それによって困る大人がいることなど気に留めることなどない。
「大騒ぎだったのよ」
「知ってる。みんな親に怒られたって」
「友達にも迷惑かけてるのわからないの?」
「それ、誰が言ってたの?ママが勝手に罪悪感抱いているだけでしょ」
璃子は自信満々を通り越して、当り前のように平然と言う。
「なんなのよその言い方」
「じゃあママは私が学校で誰とも話さずに一人ぼっちでいることが望ましいと、そう思ってるわけだ」
璃子のママに対する言葉が、少しだけ私の胸をチクリとさせた。私にだって友達がいないわけではないから胸がチクリとする必要はない。自律神経に「お前は友達がいない」と言われたような気分だ。
「それはそれ、これはこれ」
「指示語が多くてわからない」
「もー、ちょっと舞子からもなんか言ってよ」
「私も指示語が多いと思った」
「ちょっと、舞子もそっち側なの?」
「私は有利な方の味方」
ママは「もー」と言った。ガクッとうなだれる、というには表現が過剰だが、肩を落とす、というには表現が過小だ。
「ほんとにもう」ともう一度言い、ママは朝食に戻る。
不貞腐れているママを横目に私も朝食に戻ろうと思い、サラダを見た。すると、トマトが六つ入っていた。元々四つ入っていて、私は二つを食べた。結果六つ。璃子のサラダに目を遣ると、トマトは一つも入っていない。
「トマト移した?」
璃子を見ながら聞いたが、璃子はこちらを見なかった。
「いや?」
璃子が白々しくそう言うと、ママが怒気を含んだ目で再び璃子を捕える。そして私はわざとらしく大きなため息をついた。朝から言い合いばっかりしてますよ、という意味だったが、私の吐息は換気扇に吸い込まれてしまいママには届かなかった。
「璃子、トマト食べなさい」
ママがまた璃子に噛み付く。璃子はいつもママに噛み付かれている。
「せっかく正治さんが作ってくれたんだから」とママ。
「正治さんは私がトマト嫌いって知ってる。悪いのは正治さん」と璃子。
璃子は料理人の正治さんと仲が良い。これは正治さんが遠回しに璃子をからかっているのだろう。
「作ってもらったんだから」
「レストランでも嫌いなものが出たら誰だって残す」
ママがああ言えば璃子がこう言う。いつものやり取りだ。
「璃子はダメ」
「なんで?」
「わかっているくせに」
「わかんない」
「皇族なんだから好き嫌いしちゃダメ」
「じゃあ日本人は、どんなに辛い状況でも逃げ出してはいけないっていうこと?そういう古い考え方を私たちが率先して示していくべきだってママは言いたいの?」
正しいことを言っているのは母だが、優勢なのはなぜか璃子だ。
「それはそれ、これはこれ」
「またそれ?そうやってママはすぐ自分の都合のいいように話を進めようとする」
「それもそれはそれで、これもこれはこれなの」
「はい?」
顔をしかめながら璃子はそう言う。私にもママが何を言っているのかわからなかった。
「璃子はもっと自覚を持たないとダメっていうことよ」
現在は皇后であるママは、元々一般人だった。そして、パパと結婚する時は世間も含めて皇室内外でかなり騒ぎになったという。そんなママだからこそ、皇族というものをより客観的に見れているのかもしれない。
私たちは主体的な日本人ではない。苗字もなければ戸籍もない。基本的人権だって制限されている。人権が、個人を「個」たらしめるために存在するとするならば、私たちは個人ではないということになる。では何なのか?「象徴」なのだ。何の?「日本国」の。よしよし、ここまでは合っているはずだ。問題はここからだ。私はどうあるべきなのか。平均的な日本人?お手本となるような存在?誰もが敬い慕うような存在?日本国民と一言で言ってもそれは一億以上の「個」の集まりだ。老若男女、保守派革新派、過激派穏便派、猫派に犬派、海派に山派、老男保守過激猫海の人もいれば、若女革新穏便犬山の人もいる。無限の個性の無限の組み合わせの上に成り立っている。結局のところ、みんな自由に、好きなようにやっているのだ。一つ一つを選択して生きているのだ。そんな無限通りの「日本人」を象徴するにはどうするか。結局「無」になるしかない。何も選択せずに、何も言わない。黙ってにこやかに手を振る。選択することが「個」を獲得する術だとするのならば、我々に「個」はありようがない。好き嫌いがあってはならない。出されたものは、残さず食べる。ママはきっとそこがわかっている。ママが思う客観的な皇族像が、きっと求められている私たちのあるべき姿なのだ。悲しんではいけない。不満があってもいけない。「自分でなりたくてなったわけじゃない」という言い訳も通用しない。我々の悲しいほど莫大な生活費は税金で賄われているのだから。お金を遣るから文句を言うな、そう言われている気にさえなってくる。
「好き嫌いくらい誰だってある」
「世間はそれを許さないの」
私が考え事の渦に身を投じている間も二人の言い合いは続いていたようだ。
「璃子は璃子。世間は世間。ママがよく言う言葉」
「屁理屈ばっかり」
「ママが屁理屈」
ママの言うことを聞く私。ママの言うことを聞かない璃子。どちらが普通の娘なのだろうか。普通や一般というものを知らない、または知らないと決めつけられている私には、どちらが普通かわからない、またはわかってはいけなかった。私には普通を語る資格はない。璃子はこの家に生まれたことをどう思っているのだろうか。普通の家に生まれても、璃子は常にわがままで、私は常に悩んでいる。一緒なのだろうか。
「普通」の家に生まれた璃子を想像する。持ち前の憎たらしさは愛嬌に変換され、相変わらず友達はたくさんいるだろう。そして、その友達はきっと璃子を呼び捨てにするだろう。彼氏がいてもおかしくはないだろう。放課後は何も気にせずみんなでどこかにお買い物にでも行くのだろうか。「お金ないー」なんてことを言っていたりするのだろうか。学校で問題を起こしてはいないだろうか。パパ活なんてものをしていないといいが。
[パパ活]。
この言葉が、私の脳内の検閲機能に引っかかり、ワープロソフトで誤字を検出したときのように赤い二重線が引かれている。これは私が皇女として使ってはいけない言葉を使った時に自動で発現する便利な機能、または呪いだ。
私は検閲機能に従ってBackspaceで脳内のその言葉を削除しようとする。が、ちょっと待った。本当に消していい?生理的な不快感に流されて考えることを放棄していない?この国で起きている社会問題なのだから私にも関係あるんじゃない?「象徴」という曖昧な言葉のせいで「私」が関係する範囲がわからない。私はp活 ―脳内検閲対策としてそう呼ぶ― について考えてみることにした。
そうはいっても私はp活について詳しく知らない。しかし、基本構造は経済的に余裕を持ちたい若い女性と、寂しい中年男性の劇だろう。本人参加型の。つまるところエンターテインメントだ。映画や小説よりも臨場感があり、まるで目の前の少女が本当に自分に恋をしているような感覚に陥る。もちろんその分値が張る。何がいけないか。
「p活女子は脱税しているため、公共の福祉に反する」という批判はたまに目にする。じゃあ納税しよう。これで解決。その切り口ではむしろビジネスとしてのp活を肯定しているような気がする。実にナンセンスな批判だ。
「若いうちに楽にお金を稼げてしまうと将来生活水準が下げられなくなり苦労するよ」こんな風に言う人もいる。「お前には関係ない」で済んでしまう話のように思えるが、これでは短絡的だ。
脳内でこの文章の「楽」の部分を赤で囲う。あの日のようにこの文章を添削する。楽?楽だろうか。興味のない男性とご飯を食べて興味のない話を聞き続ける。次第に色目を使ってくる男性をのらりくらりとかわしながら、会い続ける。対価が発生する以上手は抜けない。対価というものは労働に見合った分だけ発生する。以前ネットで見たものはディナーを食べて十万円というものだった。見合っていない。なぜそんなことが起こるのか。男性が札の隙間に下心を忍ばせているからだ。「私は君にこれだけ払うよ。あとはわかるよね?」ということだ。実に気持ちの悪いやり方だ。それをわからないふりをして受け取り続けるのは楽なことではない。もし楽だと感じているのならばならばそれは才能だ。私だったら、大きな金額に対する罪悪感と、受け取ってしまったという既成事実の間で動けなくなってしまう。大きすぎる対価を受け取ると人は勝手に行間を読み取り、その圧力に押しつぶされてしまう。税金から膨大な生活費が賄われ、この国を象徴することを期待されている私が言うのだから間違いない。
次は「将来生活水準が下げられなくなり苦労する」を赤で囲う。これに関しては簡単だ。貯金に回そう。解決だ。将来が不安なら資格の勉強にでも充てればいい。
もちろんリスクは伴うだろう。危険だってある。だがそれはp活に限った話ではない。そして、何が危険なのか。寂しい中年男性が危険なのだ。そう考えるとなぜ女性ばかりが批判の的になっているのかがわからない。寂しい中年男性がキモいのがいけない。
[キモい]
赤い二重線が脳内に出現する。検閲機能に引っかかってしまったようだ。思考が中断されてイラっとする。
何の話だっただろうか。寂しい中年男性の話だ。それを棚に上げて女性の危機意識の低さばかりが攻撃の対象になる。
そう考えていくと何が問題なのかがわからなくなってくるような気がした。では私の立場として、「日本の象徴」として、p活を肯定していいのだろうか。そんなことはできないに決まっている。私の感情は関係なく、世間が感じている生理的な気持ち悪さに流されるしかない。私には意見は求められていない。じゃあ私は何なのか。わからない。私はまだ、迷子のままだ。四年前に教室で体から抜け落ちた私のアイデンティティがあった場所は、今も空洞のままだ。なぜあの時先生は私から目を逸らしたのだろうか。なぜ私を一人にしたのだろうか。「象徴」の意味を先生に聞けば教えてくれただろうか。気が付くと、また私は四年前の社会の授業中にタイムスリップしてしまっていた。
「舞子、舞子、ねえ、舞子」
「ん?」
ママが私を呼んでいた。
「なに?」
「ぼーっとしてないで食べなさいよ」
「あ、うん」
「あとトマト、璃子のお皿に戻してちょうだい」
「まだトマトの話してたの?」
「私は璃子が食べるまでトマトの話はやめないわよ」
「我慢比べだね、うちがトマトを食べるのが先か、ママが死ぬのが先か」
璃子が持久戦を宣言した。
「くだらないこと言わないで、ほら、舞子」
「はいはい」
栄養ならば他の食品からでも接種できる。トマトを食べなければならない理由って何だろうか。そう考えながら私は、璃子のお皿に一切れだけトマトを戻した。
「一切れでいいから」
「え、姉ちゃん優しい、誰かさんとは大違い」
「トマト、美味しいよ」
「ほんとに?」
璃子はトマトを箸で持ち上げ、じっと見つめる。
「あ、お兄ちゃんだ」
璃子がトマトを持ち上げたまま視線をトマトの奥のテレビに向ける。それにつられて私とママもテレビを見る。赤い画面に白抜きで「BBC NEWS」と記載されている。英国放送協会だ。
画面が切り替わり、研究施設のような場所で兄を含め五人の若者がインタビューを受けている。場所はスイスらしい。兄の所属する研究グループの特集が組まれる、そう聞いてこうして三人で待っていたのだ。
『あなた達は何の研究をしているのですか?』
白人のインタビュアーが質問する。通訳の抑揚のない声がその内容を私たちに伝える。
『私たちは素粒子物理学の研究をしています』
グループのリーダーと思われる人がそう答える。眼鏡をかけており、ふくよか、と表現するにはふくよか過ぎる体型で、着ているチェックシャツが悲鳴を上げていそうだ。年齢のほどは四十くらいだろうか。海外ドラマでよく出てくるパソコンオタクをそのまま体現したような人で、偏見というものの確からしさを感じてしまう。
インタビュアーも太ったおじさんも通訳の声は一緒だ。通訳の日本語に温度を感じないのは、コミュニケーションというよりは正確に意味を伝達することを目的としているからだろうか。
『どんな研究をしているのですか?』
インタビュアーがそう聞くと太ったおじさんは後ろに下がり、横に控えていた兄が前にでる。他の三人の正確な年齢はわからないが、おそらく兄が最も若いだろう。人種はバラバラだが、アジア人は兄だけだ。そして、百六十五センチの兄がこの中では飛び抜けて背が低い。その小ささが得も言えぬ大物感を醸し出している、ように見えるのは私の兄に対するコンプレックスから来るものだろうか。
『私たちは素粒子物理学の標準理論の破れというものを探しています。ヒッグス粒子がここで見つかって完成した標準理論。しかしそれでは説明できないことが多すぎるのです。いわゆるダークマターと呼ばれているものですね。あれは実際の観測値と標準理論の計算値の解離を埋めていると考えられているいわば想像上の粒子の総称です。私たちは現在の標準理論を破り、現在提唱されている超対称性理論というものの発見を目指しています』
兄が話した言葉が通訳の口によって日本語になり私たちの耳に意味が届けられる。兄は日本語ではない言葉で今の説明を行ったようだ。英語だろうか。ドイツ語だろうか。兄がトリリンガルであることは知っている。「超対称性理論」は英語でなんて言うのだろうか。私も英語は嗜んでいる。日常会話はもちろん、ちょっとした世界情勢の話くらいはできるように教育されてきた。しかし、以前兄が英語で書いた論文を見た時は驚いた。私が習ったものは「英語」で、兄が操っているものは「English」だった。
画面越しの兄の姿。通訳を挟んで聞く兄の言葉。なんだか兄が遠くの存在に思えた。
『あなたは日本のプリンスだそうですね』
インタビュアーが実験の話を切り上げ、兄の個人的、というか国民的、というか皇位継承的な話に話題を切り替えた。まるでこの話をすることが元々の目的だったかのようだ。それでは他の四人が浮かばれないのではないだろうか、そう思ったが、他の四人も少しニヤニヤしており楽しそうだ。研究グループ内で兄はどうやらうまくやっているようだ。
「プリンスだって、なんかむず痒いね」
璃子が苦々しい表情でそう言う。璃子にとっては「プリンス」は共感性羞恥を掻き立てる言葉だったようだ。「王子様」なんていわれるよりは幾分かましだろうに。
『そうですね。ですが今、私は研究者としてここに来ています。ここでの私は半人前の研究者ですけどね』
厭味なほど厭味のない言葉を並べる兄に呆れそうになる。タイム誌の「世界で最も影響力のある百人」に選ばれた人間が言う言葉だろうか。若干二十六歳でそのレベルまで達している人が世界にどれだけいるのだろうか。私にはよくわからないが、日本の皇族という立場を抜きにして、兄の研究者の面だけを切り取ってもいわゆる「天才」というものにあたるらしい。もちろん「皇族だから教育にかけられるお金が一般庶民とは違う」という意見もあった。私はみみっちい人間なので「じゃあお前も金があればできるのか、中学卒業してすぐにアメリカの大学に飛び級で入ってあっという間に博士課程まで修了できるのか」と、思ってしまいそうなところだが、兄はどうだったのだろうか。兄は私と七歳差なので、私が八歳やそこらの時に兄はアメリカに行ってしまった。よって私は兄との接点が薄い。今でこそ一年の三分の一近くは日本で過ごしている兄だが、どうしても遠い存在に思えてしまう。
「ごちそうさまでした」
きれいに完食した私はしっかりと手を合わせてそう言う。
「もう行くの?」
「うん」
「そう。今日十時ね」
ママは私にそう言った。入院しているパパのお見舞いに行かなければならない。
「うん」
「舞子の元気な顔見たらパパも喜ぶよ」
そう言うママは少し何かを心配しているような表情をしているように思えた。
「うん」
私はそう言うと食器を重ねて席を立ちった。
ニューストピックが切り替わり、イギリス王室のお騒がせ王女、リリーのニュースになる。
璃子とママの話し声を背に、私は自室に戻る。
「あ、リリーだ」「リリーちゃん相変わらずだね」「逆に尊敬しちゃう」「ちょっと前までこんなに小さかったのに」「ママ、それめっちゃおばさん臭いよ」「ママはおばさんなんだから当たり前でしょ?」「ママはほぼおばあちゃんだけどね」「本当に?」「わかんないけどそうなんじゃない?」「何よそれ」「おばさんもおばあちゃんも一緒じゃん」「おばさんとおばあちゃんは全然違うのよ」「そうかなあ」「璃子だって女の子って言われるのとお姉さんって言われるのは全然違うでしょ?」「うん、お姉さんって言われたくない」「あら、珍しい」「そう?女の子の方が良くない?」「若い頃は年上にみられたくて、歳をとると年下に見られたいものなのよ」「そういうもん?」「さあ?もう忘れちゃったけど」「それもおばさん臭い」・・・
部屋に戻ってドサッとベッドに倒れこむ。時間を確認してもまだ午前八時だ。色々考えごとをしていたため、もうすでに疲労を感じる。
私は考え事が好きだ。考えることは自由だ。まるで誰もフォローしていない鍵の付いたアカウントのように、自由に好きなことをつぶやくことができる。脳内は古代から人間の最もプライベートな聖域だ。あの北朝鮮でさえも思考までは制限されていない、不可能だ。
[北朝鮮]
二重線が現れる。これもダメなのか、と思ってしまった。ノースコリアはどうだろうか、と思い頭に浮かべるが二重線は現れなかった。「朝鮮」という言葉が少しストロングに感じてしまうのだろうか。やはり横文字にすると言葉の印象は大きく変わるものだ。
北朝鮮とノースコリア、同じなようで違う言葉。
[北朝鮮]
ビジネスパーソンを思い浮かべる。予算とバジェット、同意とコンセンサス。それぞれが指す事象は同じだか、言葉の響きや質感、重量、色は異なっている。言葉というものはこの世の事象、感情の機微を表現するために存在する。そしてそれぞれの言葉は、五輪の紋章のように異なる領域が重なり合って、この地球を網目状に、確かな隙間を残しながら、覆いつくす。売春では表せなかったため、パパ活という言葉が誕生したように、同意では不十分だったため、コンセンサスと人は言う。
[パパ活]
[売春]
「イキりたいだけ」という人もいるが、それがまさに答えなのだろう。「同意」という言葉では「イキる」という心の機微を十分に表現できていない。走ると駆けるの領域が異なるように、同意とコンセンサスも領域が異なる。そして、コンセンサスとConsensusも領域が異なる。つまり、コンセンサスとは、新しい日本語なのだ。「日本が西欧文化に侵略されている」という人がいるが、どうだろうか。私には日本が西洋文化を略奪しているように感じる。
[略奪]
違う。しっくりこない。掠奪?強奪?
[掠奪]
[強奪]
どれも違う。StealもPlunderも違う。もっと平和的なものだ。拝借?少し近づいただろうか。しかしもっと強引で一方的だ。複製?うーん。「無断で他人の物を拝借し、複製し、自分の思い通りに分解し再構築する行為」というのが意味的には近いが、響きや質感が私の思っているものと大きく異なる。私の頭の中にある、平和的な西洋と日本の文化の受け渡し作業は、言葉の隙間にあるように感じた。しかし、それを表現してしまうと「日本語を正しく使え」と怒られてしまうのだろう。
「日本語を正しく使え」という人はきっと自分の感情の機微を表現できていない。その人が言いたいのは「存在している言葉で会話しましょう」ということだろう。しかし、言葉は心の機微を正確に表現できるほどに成熟していない。隙間が多すぎるのだ。言葉とは、正しく使えば使うほど、乱れていくものなのだろう。
私は言葉の隙間を埋めていく作業を肯定したい。しかしそれは日本語の乱れを肯定することになる。象徴である私は「日本語の乱れ」という問題と無関係でいるべきではない。
「日本語の乱れに賛成か、反対か」
脅迫のように、二択を迫られるような気がした。私の立っている場所は賛成の領域にも、反対の領域にも含まれていない。では何だろうか。賛同?同意?―コンセンサスではない―黙認?わからない。どちらが近いか、と聞かれれば「賛成」に近い。しかし賛成と言ってしまえば私の立ち位置や意見の強弱は考慮されずに「賛成」という既成事実だけが残ってしまう。強制的に賛成という言葉の領域に引きずり込まれてしまう。
この理不尽で高圧的な選択行為には既視感がある。自分は体験していない。しかしはっきりと、不本意な選択を迫られている状況を見たことがある。選挙だ。
皇族に選挙権はない。選挙というものを外側から見ているだけの私がこんなことを言うのはお門違いだ。しかし私は選挙に強い関心がある。民意を考えることは「象徴」を考えることだ。
選挙は人々が何かを選んでいるようで実は何も選んでいない民主主義の基本構造だ。おそらくは各個人が胸に秘めているそれぞれの理想の国家像。一億通りもの理想の国家の形があるが、投票の際の選択肢はせいぜい多くて五通り程度だ。自分にちょうどいいものなどあるはずがない。しかし、一番近いものをしぶしぶ選択すると、政治家に「私は国民に選ばれた」という既成事実と大義名分を与えてしまう。それでは選挙に行かなければいいだけか。そうはいかない。そうするとまるで非国民であるかのような扱いを受ける。私には、それが少し歪なように見える。
すべての国民が投票をボイコットしたらどうなるのだろうか。すべての政党、すべての候補者が得票数ゼロ。投票会場に並ぶ空の投票箱は、さながら中国のゴーストタウンに立ち並ぶ高層マンションのように滑稽だ。そんな世紀末のような状況を見てみたいような気もした。そんなことがあったとしても、政治家が悪い、と人は言うのだろうか。
私は政治家に同情している節がある。私が「象徴」という曖昧な言葉に惑わされるように、政治家も「民意」というバラバラで圧倒的な質量の正義に惑わされているのではないだろうか、そう思えて仕方がない。「民意」という曖昧な言葉は一見手軽い印象を受けるが、その実恐ろしいほどに暴力的なように感じる。政治家になると決めた時の日本を変えたいと思っていた信念や情熱、政治家としてのアイデンティティ。それが凶暴で、どう猛な「民意」によって引き剝がされてしまっていたとしたら。
分不相応にも、少しだけ中学生の自分を政治家に重ね合わせてしまう。わかっている。私が人の心配など、愚の骨頂だ。
[愚の骨頂]
パパ活。日本語の乱れ。選挙。何が私に関係があって、何が私に無関係なのか。パレスチナの難民問題は?チベットの人権問題は?「日本の象徴のくせにそんなことも知らないのか」という声が聞こえそうで体が強張る。私が天皇になるわけではない。天皇象徴制を担うのはあくまでも天皇だ。わかってはいるが、人々はそうは思わない。私たちも象徴の一部として捉えられる。私の意見は考慮されない。「日本人」が私を象徴だと見なせば、私は象徴なのだ。定義などというものは、簡単にひっくり返ってしまう。
あの社会の授業から四年が経過した。この四年間で分かったことがある。なぜ私を縛った日本国憲法第一条があんなに曖昧な言葉で綴られているのか、ということだ。きっとそうせざるを得なかったのだろう。
かつて絶大な権力を持っていた天皇。神様であった天皇。その結果間違いが起こってしまった。そして敗戦し、天皇は権力を失い、本格的に民主主義が導入された。しかし、宗教というものが深く浸透していないこの国で、昨日まで国の中心に据えられていたものを国民から取り上げるのは、民衆から強い反発を招く恐れがあったので、できればそれは避けたい。権力をそぎ落としたいという思惑と、何かを中心には据えたままにしておきたいという思惑。そんな相反する二つの思惑を無理やり成立させようとした結果が、今の日本国憲法第一条なのだろう。
「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
それを踏まえると、非常によく考えられた文章だな、と感心してしまう。天皇という存在を信奉していた人にとっては、日本という国はまだその庇護下にある、という解釈をするだろうし、天皇という存在を疑問に思っていた人にとっては、日本という国が天皇という呪縛から解かれた、という解釈をする。終わりを告げると同時に始まりを告げる。何も変えずに変化をもたらす。まるでトリックアートのように見る角度によって形を変え、世界地図のように住む場所によって中心が変わり、カメレオンのように背景に応じて色が変わる、実に変幻自在な文章だ。極限まで言葉の輪郭をぼやかすことで、人々が自由に、自分の望むように解釈できるようにした。戦後の日本、明日をどう生きるかという時代に、その瞬間を丸く収めるためのものとしては完璧だ。半世紀以上先の豊かな時代に生まれてくるたった一人の女の子の悩みなんてものは考えている暇はなかっただろう。
当時の私にはそれが分からなかった。もちろんわかりようがない。気が付いたときに思ったことは、なんで先生はそこまで教えてくれなかったのだろうということだった。そこまで教えてくれて初めて「教育」なのではないか、そう思った。私らしい他責思考で自己中心的な考えだ。
ただ、もしそこまで教えてもらったとして、私は本当に納得しただろうか。やはり、自分で考えて初めて納得できるのではないだろうか。きっと、自分で探し出すしかないのだろう。
私は正しい方向に進んでいるのだろうか。
私のアイデンティティは何なのだろうか。
この私に、一体何ができるのだろうか。
自分の小ささと「象徴」という自分の立場の乖離に押しつぶされていく。私の背中に乗っているものは私には見えない。体が重い。地球が私だけを強く引っ張っているように感じる。
私は助けを求めるかのように棚に飾られているものに目を向けた。黒いバット。地面と平行に置かれているそのバットには、白でぐしゃぐしゃっと書かれたサインとともに「51」とアラビア数字が記載されている。私の憧れの人、イチローさんの直筆サイン入りバット。私の宝物だ。
例の社会の授業から三か月が経過した秋、イチローさんが現役を引退した。野球のことは全くわからないが、さすがにイチローさんの名前は知っていた。私はそんなイチローさんの現役時代を振り返る特集をテレビで見ていた。日米通算で四千三百六十七本の安打数は世界記録だという。そして、イチローさんが打ち立てた様々な記録が映像とともに紹介されていた。二〇〇一年の映像は、粗かった。この年メジャーリーグ一年目で、首位打者、MVP、新人賞、ゴールデングラブ賞、シルバースラッガー賞を獲得したという。二〇〇四年には二百六十二安打でシーズン安打記録を更新。生涯では、十年連続二百本安打、十年連続ゴールデングラブ、他にもオールスターゲームでランニングホームランなど、いろいろなことをアナウンサーが言っていた。また、イチローさんがメジャーに移籍した当時はステロイド全盛期、と言われる時代だった。誰もが増強した筋肉でとにかくボールを遠くまで飛ばしまくっていたという。そんな中でイチローさんは、単打に走塁に守備にと、小さな、それでいて派手なプレーで観客を沸かせていたという。アメリカの地で日本人の個性が花開いたのだ。
そんなイチローさんを見て、当時十四歳で自分を見失った私が、「この人は日本人という概念を最もわかりやすく、端的に象徴している存在」と思い、勝手に憧れを抱いてしまったことは仕方がないことだといえよう。そして私はイチローさんのことを徹底的に調べ上げた。毎日カレーを食べている、犬の名前は一弓、奥さんは年上で元アナウンサー。古畑任三郎が好き。演技はイマイチ。狂ったように調べ、見ていた。そんな私を見たパパがどこからか入手してきたのがこのバットだ。私はこのバットを肌身離さず持ち歩き、自分の思いを乗せていた。私には、それしかなかったのだ。
この人が天皇になるべき、と当時の私は本気で思っていた。もちろんそんな単純な話でないことは今となってはわかっている。ただ、野球のことを知らない私はイチローさんの記録の本当の凄さを測れなかった。それゆえ天井がなかった。イチローさんに対する尊敬や憧れの念はまるでビックバンのように際限なく膨張し続けた。それは今も変わらない。
イチローさんは私にとって、「日本国の象徴」なのだ。
私はベッドから起き上がり、バットを手にする。ずっしりと重たく、体ごと持っていかれそうになる。この感覚は最近味わったな、と思い記憶を辿る。日本刀だ。
兄の部屋には一本の日本刀が飾ってある。兄が総裁を務める、日本伝統工芸協会の催し物で頂いたそうだ。以前、それを触ったことがあり、同じように体が前に持っていかれるような感覚になった。長さも重さも同じくらいだっただろう。イチローさんと侍が繋がったような気がした。言われてみればイチローさんのスイングも居合切りのように見えなくもない。どうだろうか。私が無理やり繋げようとしている気もする。繋がってほしい、そう思っているのかもしれない。そうすることで私の中のイチローさんをさらに「日本国の象徴」たらしめていく。そんな風にしてまた、イチローさんへの憧れが大きくなってゆくのだろう。
バットを右手で垂直に立てたまま、腕を横に伸ばしてゆく。日本の象徴であるイチローさんを象徴する構え。いわばシンボルのシンボルだ。
イチローさんは四千三百六十七本のヒットを打って日本の象徴になった。
私はどうすれば日本の象徴になれるだろうか。
右手がプルプルしてきたため、腕を引いてバットを戻す。何気なく鏡を見てみると、思い詰めた表情の幸の薄そうな女性が映っていた。「舞子の元気な顔見たらパパも喜ぶよ」とママは言っていた。あの時から私はこんな顔をしていたのだろうか。肩に力が入り、全身が収縮している。肩の力を抜くためには膝の力を抜く、これはイチローさんが言っていた言葉だ。とてつもない重圧の中で自分のパフォーマンスをするためにイチローさんが見つけたリラックス方法だろう。それに倣って、私は足をブラブラさせた。全身の筋肉が弛緩する。空気を抜かれた布団のようにぺしゃんこになっていた脳に空気が入り、ふわっと膨らむような感覚になる。呼吸が楽になったことで苦しかったことに気が付く。脳と体の主従関係が逆転したような気分になった。
身体の力が抜けると同時に頭が軽くなった。しかし、絶え間なく情報を処理し続ける人間の脳は空白でいることを嫌う。そこら中にある悩みの種を勝手にかき集め、気が付いたときには膨大な仕事量を抱えることになる。今は考えるよりも話したい。そう思い、私はベッドに横になりスマホを手にした。通話もできるチャットアプリを開き、「長谷川国和」の名前をタップする。ポップアップが表示され、「通話」という文字が浮かび上がる。今は午前八時だ。もう起きているだろうか。起きていなければ起きるまで掛け続ければいい話だ。そう思い、「通話」の文字をタップした。
発信すると、間抜けな呼び出し音が聞こえてくる。そして、一コール目の途中で呼び出し音が止まり、ガサゴソと何かが擦れるような音が聞こえてくる。どうやら起きていたようだ。
「起きてたんだ」
『どうしたお姫さ』
通話を切った。長谷川が私をお姫様と呼ぶときは決まって機嫌がいい時だ。
すると、今度は私のスマホ鳴った。電話の主は長谷川だ。
『機嫌悪いのか』
「もちろん」
『お前はいっつも機嫌が悪いな』
長谷川は私のことを「お前」と呼ぶ。というよりかは私がそう呼ばせている。
長谷川とは高校二年生の時に同じクラスだった。いきなり「お前」と言われて私がびっくりしていると、長谷川はけろっとした様子で「お前って本当は相手を敬う言葉だから、この場合は逆に使い方正しいよな?」と小学生のようなことを言ってきた。気を遣われて生きてきたため、距離の詰め方が新鮮だった。いわゆる「面白い男」だったのだ。我ながら単純だ。
「私はいっつも機嫌が悪いよ」
『まあ元気出せって』
「私、パパのお見舞いに行かなきゃなの」
『そうか』
「私はパパに元気な顔を見せないといけないの」
『そうか』
「でも私は今元気じゃないの」
『そうか』
「元気じゃない私を見たらパパ悲しんじゃう」
『そうかもな』
「聞いてんの?」
『聞いてるよ』
「聞いてるだけは聞いてるとは言わない」
『じゃあ先に言っておくが、断る』
「まだ何も言ってない」
『これから言う』
「なんでわかるの」
『会話の助走が長い』
「ねえ、面白い話してよ」
私は不機嫌なときはだいたい長谷川に面白い話をさせる。もちろん面白い話を聞きたいわけではない。長谷川を困らせて遊びたいだけだ。
『もう断った』
「悲しむのは私のパパだよ?」
『責任重大過ぎるって』
「日和ってるの?」
『陛下を前に日和らないほうがおかしい』
「別にパパを笑わせろとは言ってない」
『陛下の存在を示唆したお前の作戦ミス』
「じゃあ普通に私を楽しませろ」
『それが人から面白い話を引き出す聞き方かよ』
「聞き方はただの形式」
『俺は形式を重んじる』
「形式を重んじる人は私をお前と呼ばない」
『自分の存在を形式以外に見いだせない女の子の自虐?』
「私の存在を形式以外に見出した男の子への褒め言葉」
『面白い話をしてください、お願いします、って言ってみようか?』
通話を切った。すぐに長谷川から「なんなんだよ」とメッセージが入ったが、無視することにした。
実に中身のない、嫌味の応酬だったが、きっとこれでいい。スッと心が軽くなったのを感じる。長谷川と話すときは何も考えずに言葉がすらすらと出てくる。その感覚が妙に心地よい。長谷川はきっと私の数少ない心の拠り所の一つなのだろう。こんなややこしい私と仲良くしてくれることに感謝しなければ、と言いたいところだが、なんだか長谷川の場合はそんな気になれないのはなぜだろうか。感謝もせず、見返りも与えず、ただただ受け取りたい、そう思ってしまう。コミュニケーションとして破綻しているのはわかっているが、長谷川の機嫌を伺うほどきっと私に余裕はない。人間として未熟だからだろうか、それとも私の立場が原因なのだろうか。誰も私の気持ちがわからない、自分は悲しい人間なのだという言い訳が、長谷川に対して理不尽であることを肯定する。なんだか自分の境遇に酔っているような気にもなってくる。自分が気持ち悪いな、そう思い、なんで長谷川のせいで私がこんな気持ちにならないといけないのだ、と長谷川のせいにする。長谷川は悪くないが、長谷川が悪いのだ、そういうことにして、私はスマホを開き、長谷川にスタンプを十個送り付けた。八つ当たりだ。すぐに長谷川から「ご乱心かよ」と来たので「ご乱心です」と返す。「ご乱心のやつはご乱心ですとは言わない」と返ってきたので、「ご乱心の人にご乱心のやつはご乱心ですとは言わないって言うのはご乱心をよりご乱心させるだけ」と返した。「お前がご乱心なのは分かった」「何言ってるのかわかんないけど」と一つの文章が二つに分けられて送られてくる。
「長谷川が無神経だって言った」「お前が神経質すぎる」「ほら、無神経だ」「なんでだよ」「今の発言の無神経さがわからない時点で無神経」「人に無神経無神経言うお前の方が無神経」「さっきは神経質すぎるって言ってた」「めんどくさいってことだ」「はい、傷ついた」「傷ついた人はそんな堂々としていない」「その先入観が社会的弱者の生きづらさを助長してる」「お前のは会話を有利に進めるためのポジショントーク」「ほんとはただの八つ当たり」「社会的弱者を笠に着て八つ当たりをするな」「たぶん私みたいな人間が世の中を混沌とさせてる」「混沌が正常。秩序は異常。元気出せ」「それ、フォローしたつもり?笑」「もちろん」「下手すぎ笑」・・・
「ピ・・・ピ・・・ピ・・・」という音が一秒よりも少し長い間隔で静かな病室にこだまする。それはパパの時間が世界から遅れているようで、そのまま少しずつ世界から離されていき、いつかは、と思うと胸がグッと苦しくなる。
死亡、死去、死没、永逝、逝去、長逝、永眠、往生、他界。すべての言葉が同じ意味、人の死を表すが、そのすべてが異なる質感、異なる重量を持つ。死を情報として伝えるものや、死人を悼む気持ちを包含したもの、さらに死人に対する尊敬の念を含めたもの、日本人の死に対する非常に繊細な機微が、単語の量に表されているように感じる。そしてパパの死にはさらに特別な単語が割り当てられている。崩御という。この単語は今この世界、すべての人間の中で、私のパパとママ、この二人のためだけに存在している言葉だ。
崩御。人の死を表す言葉としては美しすぎるように思えてしまう。私はこの言葉に恐怖すら覚えた。この言葉は人間が本能として持ち合わせている死に対する恐怖感を奪い去ってしまう。死というものが怖く感じなくなってしまう。そんなことは本来あってはならないはずだ。しかし、この言葉はそんな神の領域に届いてしまっているように思える。この言葉は美しさで死をうやむやにしてしまう。
しかし、死というものは決してうやむやなものではない。実感を手繰り寄せるようにベッドの上のパパを見る。もうほとんど話すこともできないパパは、管につながれており、まるで命という物質が管から補給されているみたいだ。パパは間違いなく、そう遠くない未来に、この世からいなくなってしまう。
パパは、数年前から体調が優れなく、入退院を繰り返していた。そのたびにママが摂政としてパパの公務を代理で務めていた。余命は長くないといわれていたが、パパは何度も医者の余命宣告を反故にして生き続けた。世間からはなぜ生前退位をしないのか、という声もあった。それでもパパは天皇という地位に、そしてこの世界に居座り続けた。兄のためだった。少しでも長く兄に研究を続けさせるため他ならなかった。兄に対しては「国よりもどうでもいい研究が優先なのか」といった声も少なからずあった。そして、私には向けられていないそんな声の一つ一つに、私は敏感に反応してしまう。私たちは何も選べないのだろうか、親が子を思うこともできないのだろうか、そんな風に思ってしまう。
すがるように、私はパパの手をそっと握った。すると、少し遅れてパパは私の手を優しく握り返した、ように感じた。現実にしては弱々しすぎるが、幻にしてははっきりしすぎている感覚が私の手を包み込んだ。こんなに細かっただろうか、と思っているとパパがゆっくりと目を開ける。そして、ゆっくりと私を見る。きっと、さっきの感覚は現実だったのだろう。パパはもう人の手も十分に握り返せないほどに弱っている。
今になって聞きたいことがたくさんある。パパは象徴という言葉をどう受け止めていたのだろうか。パパはどんな気持ちで数字を積み重ねてきたのだろうか。パパはどうしてバットをくれたのだろうか。答えが聞きたい。パパの光の消えかけた目の奥に答えを求める。パパは今、何を考えているのだろうか。
パパが「死ぬ」ことの意味を考える。パパが天皇として今まで積み上げてきた数字が一に戻り、兄が再び数字を積み上げる。父から息子へ、バトンが引き継がれる。主役が変わる。文字通り、時代が変わる。私が日本国の象徴としてのアイデンティティを確立するまでそれは待ってはくれない。私は三か月後に十八歳になり、本格的に公務が始まる。パパの後ろに隠れることはもうできない。時間はない。わかっているが、心が頭に追いつかない。覚悟を決めようとするが、それは私の手元からするっと逃げてしまう。恐怖心で体が強張る。兄と璃子にすべてを押し付けて逃げ出したくなる。
「舞子」
ママの声が聞こえる。声のする方を向くと璃子もママと同じような表情で私を見ていた。優しそうでどこか不安げな表情。
「パパ、もう長くないのかな」
私は自分の言葉にハッとしてパパを見る。パパは目を瞑ったまま動かないが、この言葉はパパにも聞こえているはずだ。自分の無神経さに嫌気がさす。
「どうだろう。パパ、こう見えて頑固だからね。パパがまだ死ねないって思っているうちは死なないんじゃないかな」
ベッドのパパからはそんな強情さや精神力の強さは一切読み取れない。一定間隔で波打つ心電図だけがパパの生存を確かめる術だ。「早く元気になるといいね」と言いそうになりグッと飲み込む。私にはわからないが、きっとパパはもう元気になることはないのだろう。そんな言葉は間違ってもパパの前で言うべきではない、そう思った。
「そっか」
私はそう言った。
「案外このまま何年も生き続けたりして」
私にはママのその言葉が本気なのか冗談なのか分からなかった。
「うちはパパに長生きしてほしい」
璃子がそう言う。もちろんそれはみんなが思っていることだ。私だってパパには長生きをして欲しい。
しかし、私は璃子の言葉に素直に賛同することができなかった。私がパパに長生きしてほしい理由が、家族愛から来るものなのか、時代が変わってほしくないからなのか、分からなかった。




