四通目 その音が繋ぐもの 4
チリン――。
鞄の中で鈴が鳴る。
その音を聞くと、胸の奥がざわついてくる。
目の前の森を、俺は知らない。
それなのに、足はなぜか迷わない。
まるで、誰かの記憶を辿っているように――。
気がつけば、細い獣道に足を踏み入れていた。
「……ユウ」
後ろからマリアベルが声を掛けてくる。
「勝手に先に行かないで。街道と違って、森は魔獣も出るのよ」
「……あ、すみません」
言われて初めて、自分が無意識に歩いていたことに気づいた。
どうしてこの道を選んだのか、自分でも説明できない。
そもそも、探し人がこの森にいると決まった訳でもない。
すれ違いになってる可能性だってある。
それでも、足は迷わない。
胸の奥がざわつく。
この道を、俺は知らないはずなのに。
けれど、この道を行かなければいけない。
そんな確信が、胸の奥で膨らんでいく。
アリスを……探しに――。
――悠くん、戻っておいで。
その声と同時に、肩を掴まれる。
「言って聞かないなら、拘束するけどいいかしら?」
「……本当に、すみません」
拘束は勘弁してほしい。
けれど。
「こっち……だと思います」
自分でも、どうしてそう思うのかわからない。
けれど、胸の奥で誰かがそっちだと囁いている気がした。
彼女にそう言うと、マリアベルは訝しむように俺を見る。
そして、諦めたように小さく息を吐いた。
「……なら、後ろから案内しなさい」
小さく頷く。
胸の奥のざわめきは、まだ消えていない。
俺は森の奥へと足を踏み出した。
§
森の中は、思っていたより静かだった。
風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
それなのに、胸の奥のざわめきは少しも収まらない。
足は迷いなく歩を進める。
枝を避け、根を跨ぎ、細い獣道を辿っていく。
いつの間にか、目の前にいた執行官を追い越していた。
チリン。
また、鞄の中で鈴が鳴る。
胸の奥が、強く軋む。
視線が、自然と前を向く。
見たことないはずの景色なのに、なぜか見覚えがある。
木々の隙間に、何かが見えた。
嫌な予感が、胸を締めつける。
足が、止まる。
「……ユウ?」
後ろからマリアベルの声。
俺は、ゆっくりと近づいた。
右目が疼く。
近づくにつれて、それが人影だとはっきりしてきた。
地面に倒れて、動かない。
胸の奥が、強く脈打つ。
あと数歩、そこで――足が止まる。
見覚えのある……男だった。
仰向けに倒れたまま、空を見ている。
目は開いたまま、虚空を見つめている。
右目が……熱い。
刺されたわけでもないのに、腹の奥が焼けるように痛む。
思わず、その場に蹲る。
チリン。
鞄の中で、鈴が鳴った。
さっきまで感じていたざわめきが、今は別の形で胸を締め付ける。
握られた剣。
擦り切れた外套。
昨日、森で出会ったあの青年と同じ装備だった。
あの日、小包を届けて欲しいと頼んできた……あの青年だった。
「……無理しないで、休んでなさい」
すぐ後ろまで来ていたマリアベルが、前へ出る。
そして、男の傍にしゃがみ込む。
首筋に指を当て、わずかに目を伏せる。
短い祈りを捧げてから、彼女は静かに息を吐いた。
「最後まで……戦ったのね」
マリアベルが静かに言う。
その言葉で、ようやく視線が彼の身体に向いた。
腹の辺りが、黒く固まっている。
剣は、まだ手に握られたままだった。
周囲の土は踏み荒らされている。
……ここで戦ったんだ。
最後まで。
彼女を、守るために。
この小包を、渡すために。
……それならば。
その想いを途中で止めるわけにはいかない。
届けるのは、俺の仕事だ。
そして――。
「……届ける相手は、まだ生きている」
◇
悠はそう言うと立ち上がって、迷いを感じさせない目つきで見据える。
「…………」
やはりこの男、普通ではない。
森で出会ったあの青年の時もそうだ。
気配すら無かった男を、悠だけがあっさり受け入れた。
この森に入ってからもそうだ。
最初からここがわかっていたように、迷いなく歩いてきた。
死体を前にして「届ける相手はまだ生きている」と、どうして、迷いなく言える?
これではまるで……。
――いや、今はいい……切り替えろ。
この男の異質さは出会った時からわかっていたことだ。
私は視線を死体へ戻す。
お腹を貫かれ、全身に斬られた痕がある。
致命傷を受けたあとも、執拗に斬り付けられたのだろう。
踏み荒らされた地面。
乾きかけた血。
戦闘は一対一ではない。
足跡は、少なくとも五、六人分。
そのうち二つ――。
大柄な足跡と、小柄な足跡が森の奥へ続いている。
残りは街道の方へ戻っている。
『お前らは、最初からアリスを狙って付けてきたんだ』
路地で、悠がゴロツキに言っていたことを思い出す。
……そうなると。
一人は、『アリス』を追って森へ入ったか。
私は悠を見る。
この男は、最初からそれをわかっていたように歩いてきた。
「ユウ……」
彼が振り向く。
「さっき"こっちだと思う"と言ったわね」
悠は小さく頷く。
森の奥へ視線を向ける。
……大柄な足跡と、小柄な足跡。
この男は言った。
アリスは、まだ生きていると。
それならやることは決まっている。
「なら――最後まで案内しなさい」
◇
――チリン。
水の流れる音に混じって、鈴の音が聞こえた。
その音に、顔を上げる。
……ダリル?
探しに、来てくれたのだろうか。
ふらつきながら立ち上がる。
……本当は、私が探しに行かなきゃいけないのに。
最後に見たダリルの姿を思い出す。
お腹から血を流しながら、それでも剣を構えていた背中。
振り返らずに、ただ一言だけ叫んだ。
『走れ、アリス!』
胸が締め付けられる。
私は……逃げた。
ダリルを置いて。
……そして、そのあと――。
視線が、ゆっくりと自分の手に落ちる。
川で洗ったはずの手。
それでも、その手はまだ赤い気がした。
あの男の顔が、頭に浮かぶ。
短剣を握った感触。
肉を切り裂いた時の、嫌な感触。
手の中に、まだ残っている気がした。
「……っ」
喉の奥がひくりと痙攣する。
お腹の中のものがせり上がってきた。
思わず口元を押さえる。
吐きそうだ。
視界がぐらりと揺れる。
膝から力が抜ける。
その場に崩れ落ちそうになった、その時――
チリン。
また、鈴の音。
さっきも聞こえた気がする。
気のせい、とは思えない。
けれど、こんな森の奥でどうして……。
……ダリルのはずは、ない。
あの傷で歩けるはずがない。
血を流して、立っているのもやっとだった。
あの後、どうなったんだろう。
ダリルは、無事……だろうか。
チリン。
また、鈴が鳴った。
三度目。
もう、聞き間違いではない。
森の奥からだ。
顔を上げ、視線を木々の奥へ向ける。
こんなところで鈴なんて……。
おかしいはずなのに。
その音を聞くと、何故か心が安心する。
足が、一歩前へ出る。
行かなきゃ。
……いや、違う。
気づけば、身体が勝手に動いていた。
§
足元の草を踏む音だけが、静かな森に響く。
頭がぼんやりしている。
胸の奥が、まだ気持ち悪い。
ふと、視線を上げた。
木々の隙間に、人影が見える。
心臓が、強く跳ねた。
その立ち姿が、彼に見えたから。
思わず、その名前を呼びそうになる。
「ダリ……」
呼びかけて――止まる。
……いや、違う。
右手に、短剣の感触。
よく見ると、人影は二人組だった。
あの男たちではない。
けれど――。
先に口を開いたのは、向こうだった。
「アリスさん、ですね? ダリルさんからお届け物です」
それは、若い男の声だった。
私の知らない誰かが、
――私の大事な人からの届け物を持ってきた。
「……そこに置いて」
ふらつく足を踏みとどめ、短剣を構える。
「近づけば、容赦しない」
その言葉に、片方が小さく頷いた。
そして鞄に手を入れ、小さな包みを取り出す。
取り出した小包を、横から伸びた手が掴んだ。
「レ、レーヴェさん?」
戸惑ったような男の声。
「あなたは下がってなさい」
そう言って女は、小包を一度手の中で確かめる。
私は短剣を握る手に力を込め、女に言った。
「置いてと、言ったはずよ」
女は肩を竦め、小さく息を吐く。
「そんなふらふらな足で、ここまで歩いてこられると思ってるの?」
……そんなこと、どうでもいい。
胸の奥が、軋む。
「……ダリルは」
気がついたら口が勝手に言葉を紡いでいた。
短剣を、二人に向けたまま。
「ダリルは、どこ?」
喉が焼けるように痛い。
「あなた達、ダリルに会ったんでしょ」
お願いだから、どうか――。
「……会いました」
その一言に、胸が大きく脈打つ。
「どこ?」
気づけば、一歩踏み出していた。
短剣を構えていたことも忘れている。
「ダリルは、どこにいるの?」
チリン。
……小さな鈴の音が、森の静寂に落ちた。
思わず顔を上げる。
今の音は――。
女が手に持っている、小さな包み。
胸の奥が、嫌な音を立てる。
「……それ」
声が掠れる。
「それ……ダリルの?」
女は少しだけ目を細める。
そして、男が静かに言った。
「ダリルさんから、預かりました」
女が小包を差し出す。
思わず、一歩下がった。
それを、受け取ってしまえば。
――何かを、認めてしまう気がした。
「……いらない」
気づけば、そんな言葉が漏れている。
胸の奥がぐらぐらと揺れる。
そんなはず、ない。
だって、ダリルは――。
チリン。
小さな鈴の音が鳴る。
その音を聞いた瞬間。
震える手が、勝手に伸びていた。
それは、小さな布の包み。
包みを括っているのは――ダリルの識別タグ。
結び目を解く指が、上手く動かない。
ようやくほどけた布の中には、小さな鈴のついた髪飾りが二つ。
『それ着けとけば、どこにいても見つけられるから』
ダリルの声が、頭の奥で蘇る。
チリン。
小さな鈴が、指先で鳴った。




