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江戸時代の遊郭の楼主に生まれ変わったので遊女の待遇改善に努めつつ吉原遊廓の未来も変えようと思う  作者: 水源
寛文2年(1662年)

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鈴蘭と茉莉花の花嫁修業はちょっとばかり不安だな

 さて、そろそろ頃合いか。


 そう思った俺は、帳場で勘定を確認しながら、ひとつ息を吐いた。


 権兵衛親方も、かなり頑張ってくれた。


 鈴蘭と茉莉花を身請けするための金も、ようやく現実的なところまで積み上がっている。


 ならば――次は、その先だ。


 二人が遊廓を出て、本当に普通の暮らしを始めるための準備をしなければならない。


「……花嫁修業、か」


 そう呟いてから、俺は鈴蘭のところへ向かった。


「おう、鈴蘭。邪魔するぜ」


「おや、楼主様でありんすか」


 襖を開けると、鈴蘭はこちらを振り返った。


 部屋には昼の柔らかな光が差し込み、畳の上には裁縫道具がきちんと並べられている。


 その隣には、洗濯のために一度糸をほどいた衣服が何枚か置かれていた。


「権兵衛親方も、お前さんたちを身請けする金のめどが、だいぶ付いてきた」


「……まあ、本当でありんすか」


 鈴蘭の顔に、わずかな緊張が走った。


 嬉しい。


 だが、それだけではない。


 遊廓の外へ出るということが、いよいよ現実のものになってきたのだ。


「ああ。だからそろそろ、本格的に花嫁修業も始めようと思ってな」


「花嫁修業……でありんすか」


「そうだ」


 俺は部屋を見回した。


「今日からは、基本的に昼見世だけにしよう」


「昼見世だけ……でありんすか」


「ああ。昼に予約が入ったときはもちろん客を取ってもらう。だが、それ以外の時間は、裁縫、料理、洗濯、買い物なんかの花嫁修業に使ってくれ」


 鈴蘭は少し考えてから、素直に頭を下げた。


「わかりやした。ありがたいことでありんす」


「せっかく身請けしてもらっても、家のことが何もできないんじゃ、やっぱり困るからな」


「裁縫なんかは、ある程度、楼主様のおかげでできるようになっておりんすけど……」


「まあ、炊事や針仕事、洗濯なんかは、下女を雇ってやらせてもいいだろう」


 俺は衣服の山を見る。


「だが、自分たちでできるに越したことはない。それに、買い物の金勘定なんかは、できるようになっておいた方がいい。自分で値段を見て、必要なものを選んで、いくら使ったか把握できるようにな」


「そうでありんしょうな」


 鈴蘭はうなずいた。


 だが、その表情が少しだけ曇った。


「……ですが、茉莉花には少し難しいかもしれんせん」


「ああ……まあ、そうだろうな」


 俺も苦笑した。


 鈴蘭と茉莉花。


 顔立ちはよく似た姉妹だ。


 だが、生きてきた環境は同じではない。


 妹の面倒を見続けてきた鈴蘭には、どうしても生活者としての感覚が身についている。


 対して茉莉花は、ずっと姉に面倒を見てもらう側だった。


 何かをしてもらうことには慣れていても、自分から誰かのために動く経験は少ない。


 その差は、遊廓に入ってからも消えなかった。


 むしろ、外の生活とは切り離された華やかな世界で暮らしてきた分だけ、大きくなったところもある。


 だからこそ、茉莉花は格子太夫にまでなったのだろう。


 鈴蘭が格子のままなのも、そう考えれば妙に納得できる。


 俺はふと、二十一世紀の頃に聞いた話を思い出した。


 高級クラブのホステスなどには、単に客への接客だけではなく、店の外での振る舞いや、その先の人生まで考えるよう教えるところもある。


 客が求めているのは、日常とは違う時間だ。


 夢なのだ。


 だから、生活感を見せない。


 身だしなみを整える。


 華やかさだけではなく、品を身につける。


 そして――帰る客に、また来たいと思わせる。


 考えてみれば、それは江戸時代の大見世の遊女にも似たところがある。


 遊女は日常の女房ではない。


 客が会いに来るのは、普段の暮らしとは違う女なのだ。


 だからこそ、普通の遊廓では、遊女に針仕事や洗濯などをあまりさせなかったのだろう。


 ただし、店を出た後の人生まで考えるなら話は別だ。


 若さや容姿だけで得られる収入は、永遠に続かない。


 その先に何があるのか。


 どう生きていくのか。


 本当なら、そこまで考えて準備する必要がある。


 そして本来なら、江戸時代の女性も幼い頃から、少しずつ家事を覚えていく。


 親の仕事を手伝い、家の中で必要なことを身につける。


 洗濯を手伝う。


 針仕事を覚える。


 料理を覚える。


 買い物の仕方を知る。


 ままごとだって、そうした生活の練習になっていたはずだ。


 鈴蘭も、吉原へ来る前には多少なりとも、そうした経験があったのだろう。


 だが、茉莉花は違う。


 その頃はまだ、姉に面倒を見てもらう側だった。


 そして、そのまま吉原へ来た。


 だからこそ――彼女は、どこか浮世離れしていた。


 生活感を感じさせない。


 何もかもを自分の手で行う必要がない。


 誰かが整えてくれた世界の中で、美しく振る舞う。


 それは遊女としては、大きな武器になった。


 だが、遊廓を出るとなれば、その武器だけでは足りない。


「うーん……」


 俺は目の前の衣服に視線を落とした。


 洗濯するために一度糸をほどいた衣服を、二人に仕立て直させている。


 茉莉花は針を持ったまま、首を傾げていた。


 細い指先で布をつまみ、縫い目をじっと見つめる。


「衣服の縫い繕いって、難しいでありんすねぇ、お姉ちゃん」


「そうでありんすね。でも、何度もやれば上手くなるでありんすよ」


 鈴蘭は自分の縫った部分を広げて見せた。


 こちらは縫い目が揃っている。


 糸の張りも均一だ。


 一方で、茉莉花の方は――。


 縫い目が波打っている。


 糸の間隔も揃っていない。


 ところどころ布が引きつっていた。


「……なんだか、変でありんすよねぇ」


 茉莉花が小さく呟いた。


「いや、まあ……最初なら、そんなもんだろ」


「でも、お姉ちゃんのは綺麗でありんす」


「人には向き不向きがあるからな」


 鈴蘭が苦笑する。


「でも、針仕事はお嫁さんになるには大事でありんすよ」


「そうでありんすの?」


「そうでありんす」


 茉莉花はしばらく自分の縫い目を眺めていた。


 そして、少しだけ眉を寄せる。


「自分でやらねぇで、針子さんに縫ってもらえばいいんじゃありんせんか?」


「お嫁さんになったら、そういうわけにはいかないんだよ」


「そうなんでありんすかぁ?」


 茉莉花がこちらを見る。


 本気で分からないという顔だった。


「まあ、権兵衛親方なら針子くらい雇えるだろうけどな」


「ほら、やっぱりそうでありんす」


 茉莉花が少し嬉しそうに笑う。


 俺は思わず苦笑した。


「でもな。できる方がいいぞ」


「……どうしてでありんす?」


「何でも自分でやれって話じゃない」


 俺は茉莉花の手元を指した。


「できるのと、できないのじゃ違う。誰かに頼むのはいい。でも、自分でやらなきゃならなくなったとき、何もできないのは困るだろ」


「……そうでありんすね」


 茉莉花は黙って針を見た。


「それに、茉莉花には茉莉花の得意なことがある」


「わっちの?」


「ああ。挨拶回りとか、人付き合いとか、文書を書くこととか。そういうところで頑張ればいい。家事を全部完璧にする必要なんてない」


「……それなら」


 茉莉花の顔が少しだけ明るくなった。


「頑張れそうでありんす」


「だろ?」


「わかりやした」


 そう言って、茉莉花は針を置いた。


 俺は、てっきり諦めたのかと思った。


 だが――


「……でも」


 茉莉花はもう一度、針を拾った。


 細い指で糸をつまむ。


 さっきまでより、ほんの少しだけ慎重に。


「もう一度、やってみるでありんす」


「茉莉花……」


 鈴蘭が目を丸くした。


「だって」


 茉莉花は自分の縫い目を見ながら、小さく笑った。


「できねぇまんまなの、ちょっと悔しいでありんすから」


「……そうか」


 俺は思わず笑った。


 針が布を通る。


 ぎこちない。


 糸は少し歪んでいる。


 それでも、さっきよりは慎重だった。


 一針。


 また一針。


 ほんの少しずつ、縫い目が揃っていく。


 鈴蘭は何も言わず、その手元を見守っていた。


 姉に手を引かれてきた妹が。


 初めて、自分の手で一歩を踏み出そうとしている。


 まだ、小さな一歩だ。


 針仕事ひとつ。


 それだけのことだ。


 だが――


 遊廓の中で生きるためではなく。


 遊廓を出た、その先で生きるために。


 茉莉花が自分から針を持ち直したことに、俺は意味があるような気がした。


 生まれ育った環境を、今から変えることはできない。


 幼い頃に身につかなかったものを、後から覚えるのだって簡単ではない。


 それでも。


 これから先なら、変えることができる。


 鈴蘭も。


 茉莉花も。


 どうか、今度こそ自分たちの手で幸せを掴んでほしい。


 俺はそう願いながら、二人の針仕事を静かに見守っていた。

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