鈴蘭と茉莉花の花嫁修業はちょっとばかり不安だな
さて、そろそろ頃合いか。
そう思った俺は、帳場で勘定を確認しながら、ひとつ息を吐いた。
権兵衛親方も、かなり頑張ってくれた。
鈴蘭と茉莉花を身請けするための金も、ようやく現実的なところまで積み上がっている。
ならば――次は、その先だ。
二人が遊廓を出て、本当に普通の暮らしを始めるための準備をしなければならない。
「……花嫁修業、か」
そう呟いてから、俺は鈴蘭のところへ向かった。
「おう、鈴蘭。邪魔するぜ」
「おや、楼主様でありんすか」
襖を開けると、鈴蘭はこちらを振り返った。
部屋には昼の柔らかな光が差し込み、畳の上には裁縫道具がきちんと並べられている。
その隣には、洗濯のために一度糸をほどいた衣服が何枚か置かれていた。
「権兵衛親方も、お前さんたちを身請けする金のめどが、だいぶ付いてきた」
「……まあ、本当でありんすか」
鈴蘭の顔に、わずかな緊張が走った。
嬉しい。
だが、それだけではない。
遊廓の外へ出るということが、いよいよ現実のものになってきたのだ。
「ああ。だからそろそろ、本格的に花嫁修業も始めようと思ってな」
「花嫁修業……でありんすか」
「そうだ」
俺は部屋を見回した。
「今日からは、基本的に昼見世だけにしよう」
「昼見世だけ……でありんすか」
「ああ。昼に予約が入ったときはもちろん客を取ってもらう。だが、それ以外の時間は、裁縫、料理、洗濯、買い物なんかの花嫁修業に使ってくれ」
鈴蘭は少し考えてから、素直に頭を下げた。
「わかりやした。ありがたいことでありんす」
「せっかく身請けしてもらっても、家のことが何もできないんじゃ、やっぱり困るからな」
「裁縫なんかは、ある程度、楼主様のおかげでできるようになっておりんすけど……」
「まあ、炊事や針仕事、洗濯なんかは、下女を雇ってやらせてもいいだろう」
俺は衣服の山を見る。
「だが、自分たちでできるに越したことはない。それに、買い物の金勘定なんかは、できるようになっておいた方がいい。自分で値段を見て、必要なものを選んで、いくら使ったか把握できるようにな」
「そうでありんしょうな」
鈴蘭はうなずいた。
だが、その表情が少しだけ曇った。
「……ですが、茉莉花には少し難しいかもしれんせん」
「ああ……まあ、そうだろうな」
俺も苦笑した。
鈴蘭と茉莉花。
顔立ちはよく似た姉妹だ。
だが、生きてきた環境は同じではない。
妹の面倒を見続けてきた鈴蘭には、どうしても生活者としての感覚が身についている。
対して茉莉花は、ずっと姉に面倒を見てもらう側だった。
何かをしてもらうことには慣れていても、自分から誰かのために動く経験は少ない。
その差は、遊廓に入ってからも消えなかった。
むしろ、外の生活とは切り離された華やかな世界で暮らしてきた分だけ、大きくなったところもある。
だからこそ、茉莉花は格子太夫にまでなったのだろう。
鈴蘭が格子のままなのも、そう考えれば妙に納得できる。
俺はふと、二十一世紀の頃に聞いた話を思い出した。
高級クラブのホステスなどには、単に客への接客だけではなく、店の外での振る舞いや、その先の人生まで考えるよう教えるところもある。
客が求めているのは、日常とは違う時間だ。
夢なのだ。
だから、生活感を見せない。
身だしなみを整える。
華やかさだけではなく、品を身につける。
そして――帰る客に、また来たいと思わせる。
考えてみれば、それは江戸時代の大見世の遊女にも似たところがある。
遊女は日常の女房ではない。
客が会いに来るのは、普段の暮らしとは違う女なのだ。
だからこそ、普通の遊廓では、遊女に針仕事や洗濯などをあまりさせなかったのだろう。
ただし、店を出た後の人生まで考えるなら話は別だ。
若さや容姿だけで得られる収入は、永遠に続かない。
その先に何があるのか。
どう生きていくのか。
本当なら、そこまで考えて準備する必要がある。
そして本来なら、江戸時代の女性も幼い頃から、少しずつ家事を覚えていく。
親の仕事を手伝い、家の中で必要なことを身につける。
洗濯を手伝う。
針仕事を覚える。
料理を覚える。
買い物の仕方を知る。
ままごとだって、そうした生活の練習になっていたはずだ。
鈴蘭も、吉原へ来る前には多少なりとも、そうした経験があったのだろう。
だが、茉莉花は違う。
その頃はまだ、姉に面倒を見てもらう側だった。
そして、そのまま吉原へ来た。
だからこそ――彼女は、どこか浮世離れしていた。
生活感を感じさせない。
何もかもを自分の手で行う必要がない。
誰かが整えてくれた世界の中で、美しく振る舞う。
それは遊女としては、大きな武器になった。
だが、遊廓を出るとなれば、その武器だけでは足りない。
「うーん……」
俺は目の前の衣服に視線を落とした。
洗濯するために一度糸をほどいた衣服を、二人に仕立て直させている。
茉莉花は針を持ったまま、首を傾げていた。
細い指先で布をつまみ、縫い目をじっと見つめる。
「衣服の縫い繕いって、難しいでありんすねぇ、お姉ちゃん」
「そうでありんすね。でも、何度もやれば上手くなるでありんすよ」
鈴蘭は自分の縫った部分を広げて見せた。
こちらは縫い目が揃っている。
糸の張りも均一だ。
一方で、茉莉花の方は――。
縫い目が波打っている。
糸の間隔も揃っていない。
ところどころ布が引きつっていた。
「……なんだか、変でありんすよねぇ」
茉莉花が小さく呟いた。
「いや、まあ……最初なら、そんなもんだろ」
「でも、お姉ちゃんのは綺麗でありんす」
「人には向き不向きがあるからな」
鈴蘭が苦笑する。
「でも、針仕事はお嫁さんになるには大事でありんすよ」
「そうでありんすの?」
「そうでありんす」
茉莉花はしばらく自分の縫い目を眺めていた。
そして、少しだけ眉を寄せる。
「自分でやらねぇで、針子さんに縫ってもらえばいいんじゃありんせんか?」
「お嫁さんになったら、そういうわけにはいかないんだよ」
「そうなんでありんすかぁ?」
茉莉花がこちらを見る。
本気で分からないという顔だった。
「まあ、権兵衛親方なら針子くらい雇えるだろうけどな」
「ほら、やっぱりそうでありんす」
茉莉花が少し嬉しそうに笑う。
俺は思わず苦笑した。
「でもな。できる方がいいぞ」
「……どうしてでありんす?」
「何でも自分でやれって話じゃない」
俺は茉莉花の手元を指した。
「できるのと、できないのじゃ違う。誰かに頼むのはいい。でも、自分でやらなきゃならなくなったとき、何もできないのは困るだろ」
「……そうでありんすね」
茉莉花は黙って針を見た。
「それに、茉莉花には茉莉花の得意なことがある」
「わっちの?」
「ああ。挨拶回りとか、人付き合いとか、文書を書くこととか。そういうところで頑張ればいい。家事を全部完璧にする必要なんてない」
「……それなら」
茉莉花の顔が少しだけ明るくなった。
「頑張れそうでありんす」
「だろ?」
「わかりやした」
そう言って、茉莉花は針を置いた。
俺は、てっきり諦めたのかと思った。
だが――
「……でも」
茉莉花はもう一度、針を拾った。
細い指で糸をつまむ。
さっきまでより、ほんの少しだけ慎重に。
「もう一度、やってみるでありんす」
「茉莉花……」
鈴蘭が目を丸くした。
「だって」
茉莉花は自分の縫い目を見ながら、小さく笑った。
「できねぇまんまなの、ちょっと悔しいでありんすから」
「……そうか」
俺は思わず笑った。
針が布を通る。
ぎこちない。
糸は少し歪んでいる。
それでも、さっきよりは慎重だった。
一針。
また一針。
ほんの少しずつ、縫い目が揃っていく。
鈴蘭は何も言わず、その手元を見守っていた。
姉に手を引かれてきた妹が。
初めて、自分の手で一歩を踏み出そうとしている。
まだ、小さな一歩だ。
針仕事ひとつ。
それだけのことだ。
だが――
遊廓の中で生きるためではなく。
遊廓を出た、その先で生きるために。
茉莉花が自分から針を持ち直したことに、俺は意味があるような気がした。
生まれ育った環境を、今から変えることはできない。
幼い頃に身につかなかったものを、後から覚えるのだって簡単ではない。
それでも。
これから先なら、変えることができる。
鈴蘭も。
茉莉花も。
どうか、今度こそ自分たちの手で幸せを掴んでほしい。
俺はそう願いながら、二人の針仕事を静かに見守っていた。




